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永井隆「完全な幸福」
真実孤児の道はさみしい。孤児の真実の道は苦しい。この道を行くは辛く、悲しく、難しい。この道は暗く、細く、けわしく、石多く、花少なく、窮して通じ、通ずれば窮す。路傍に立つ者は枯木のごとく冷たく、頼りなく、そっけなく、しばしば枝を張り出して妨げる。・・・手をつなぎゆく幼い二人、兄は十四、妹は八つ。
信仰によって、そのさみしさが消えるのではない。苦しみがなくなるのでもない。辛さ、悲しさが除かれるのでもない。さみしさはいつまでも続く。苦しさはどこまでも苦しい。辛さ、悲しさはやっぱり辛さ、悲しさである。宗教はアヘンではない。肉体的な苦痛や、人間感情の悲哀を消してくれるのが信仰の目的ではない。信心のご利益ではない。神は愛であるから、苦しむ人間の苦しみを消してくださることはある。医学の力で治らぬ病気が祈りによってたちまら治った奇跡はたくさんある。それは人間に神の存在を認めさせるために、神が愛であることを知らせるために、時々神が行ないなさる。ちょっとした秩序の変更であろう。地上的な苦しみや悩みを消していただくために神を信ずるのは未熟な信仰である。腹が痛いからモルヒネを注射してください、と医者に頼むような気持ちで、信仰生活に入ってはいけない。真の信仰生活はまだまだ高いところを行く。
人は生まれながら完全な幸福を求めている。その幸福がどこにあるかわからないので、勝手に見当をつけて探しに出る。ある者はその幸福は財産と関係があると思って金をためる。ある者は権力に結びついていると考えて立身出世を図る。あるいは学問知識によって見いだせると判断して大学の研究室に残る。そのほかいろいろある。私も若いころは体力をもって、地位の上がるにつれてその地位を利用して大いに幸福を追求した。大いに発展したほうだったから、大抵よさそうな部門には顔を出したものだ。そうして結局、完全な幸福を見つけなかった。そうこうしているうちに原子爆弾を受け、初めて完全な幸福を手に入れるためには宗教によるほかはないことを知った。完全な幸福は神と一致することてあった。私は今幸福である。そして二人のわが了も、この心境を持つように祈っている。
宗教とは神に対する人の道である。したがって、神に対する義務がまず第一に果たされなければならない。
神のみ栄えのあらわすことを一これが私の第一の念願であり、二人の子の常に忘れてならぬ念願である。この念願を実行していること、そのことが完全な幸福の境地である。
さみしい時は、そのさみしさが神の摂理のあらわれであるから、それをそのまま感謝して、さみしく感じ、痛いときには、その痛さこそは必要な摂理のあらわれであるから、ありがたく痛いなあと感じ、そうして、そのさみしさ、痛さの中に身をおきながら、神のみ栄えをあらわすにはどうしたらよいかと考え、祈り、できるかぎりのことを行なってゆく。それはあの自分の肉体を痛め傷つけて快感を覚える変態性心理とはまったく違う。なぜなら真の信仰生活を送っている者は、反対に楽しい時にも同じことをするからである。すなわち、楽しい時には、その楽しさが神の摂理のあらわれであるから、それをそのまま感謝して楽しく感じ、その楽しみの中にあって、神のみ栄えをあらわすにはどうしたらよいかと考え、祈り、できるかぎりのことを行なってゆく。
つまり、世間で言うところの快楽・順調・逆境・失敗・苦痛・健康・病気などによっては「神のみ栄えのために働く」態度がなんの影響も受けないのである。神のみ栄えのために働くことが完全な幸福の道なのだから、病気も苦痛も失敗も逆境も、私の幸福には関係がない。病気のときには神のみ栄えのために病気をささげる。苦痛があればその苦痛を神のみ栄えのためにささげる。逆境にあっては神のみ栄えのために逆境にあって働く。そのとき、肉体的にまたは精神的に苦痛があるまま、超自然的に完全な幸福を感じているのである。孤児としてこの子がたどる肉体の道は苦難に満ちている。神と一致して`の子が進む霊魂の道は幸福に満ちている。その幼い肉身がどんなに虐げられ、さげすまれ、辱められ、痛めつけられようとも、霊魂は神の愛に直接結びつけられておるのだから、平安であり幸福である。
イエズスは山上の垂訓でこう言った。
「さいわいなるかな泣く人、彼らは慰めらるぺければなり」
泣け!わが子。
永井隆『この子を残して』(著者はカトリックの医師・医学者、長崎で被曝)pp.94-97
真実孤児の道はさみしい。孤児の真実の道は苦しい。この道を行くは辛く、悲しく、難しい。この道は暗く、細く、けわしく、石多く、花少なく、窮して通じ、通ずれば窮す。路傍に立つ者は枯木のごとく冷たく、頼りなく、そっけなく、しばしば枝を張り出して妨げる。・・・手をつなぎゆく幼い二人、兄は十四、妹は八つ。
信仰によって、そのさみしさが消えるのではない。苦しみがなくなるのでもない。辛さ、悲しさが除かれるのでもない。さみしさはいつまでも続く。苦しさはどこまでも苦しい。辛さ、悲しさはやっぱり辛さ、悲しさである。宗教はアヘンではない。肉体的な苦痛や、人間感情の悲哀を消してくれるのが信仰の目的ではない。信心のご利益ではない。神は愛であるから、苦しむ人間の苦しみを消してくださることはある。医学の力で治らぬ病気が祈りによってたちまら治った奇跡はたくさんある。それは人間に神の存在を認めさせるために、神が愛であることを知らせるために、時々神が行ないなさる。ちょっとした秩序の変更であろう。地上的な苦しみや悩みを消していただくために神を信ずるのは未熟な信仰である。腹が痛いからモルヒネを注射してください、と医者に頼むような気持ちで、信仰生活に入ってはいけない。真の信仰生活はまだまだ高いところを行く。
人は生まれながら完全な幸福を求めている。その幸福がどこにあるかわからないので、勝手に見当をつけて探しに出る。ある者はその幸福は財産と関係があると思って金をためる。ある者は権力に結びついていると考えて立身出世を図る。あるいは学問知識によって見いだせると判断して大学の研究室に残る。そのほかいろいろある。私も若いころは体力をもって、地位の上がるにつれてその地位を利用して大いに幸福を追求した。大いに発展したほうだったから、大抵よさそうな部門には顔を出したものだ。そうして結局、完全な幸福を見つけなかった。そうこうしているうちに原子爆弾を受け、初めて完全な幸福を手に入れるためには宗教によるほかはないことを知った。完全な幸福は神と一致することてあった。私は今幸福である。そして二人のわが了も、この心境を持つように祈っている。
宗教とは神に対する人の道である。したがって、神に対する義務がまず第一に果たされなければならない。
神のみ栄えのあらわすことを一これが私の第一の念願であり、二人の子の常に忘れてならぬ念願である。この念願を実行していること、そのことが完全な幸福の境地である。
さみしい時は、そのさみしさが神の摂理のあらわれであるから、それをそのまま感謝して、さみしく感じ、痛いときには、その痛さこそは必要な摂理のあらわれであるから、ありがたく痛いなあと感じ、そうして、そのさみしさ、痛さの中に身をおきながら、神のみ栄えをあらわすにはどうしたらよいかと考え、祈り、できるかぎりのことを行なってゆく。それはあの自分の肉体を痛め傷つけて快感を覚える変態性心理とはまったく違う。なぜなら真の信仰生活を送っている者は、反対に楽しい時にも同じことをするからである。すなわち、楽しい時には、その楽しさが神の摂理のあらわれであるから、それをそのまま感謝して楽しく感じ、その楽しみの中にあって、神のみ栄えをあらわすにはどうしたらよいかと考え、祈り、できるかぎりのことを行なってゆく。
つまり、世間で言うところの快楽・順調・逆境・失敗・苦痛・健康・病気などによっては「神のみ栄えのために働く」態度がなんの影響も受けないのである。神のみ栄えのために働くことが完全な幸福の道なのだから、病気も苦痛も失敗も逆境も、私の幸福には関係がない。病気のときには神のみ栄えのために病気をささげる。苦痛があればその苦痛を神のみ栄えのためにささげる。逆境にあっては神のみ栄えのために逆境にあって働く。そのとき、肉体的にまたは精神的に苦痛があるまま、超自然的に完全な幸福を感じているのである。孤児としてこの子がたどる肉体の道は苦難に満ちている。神と一致して`の子が進む霊魂の道は幸福に満ちている。その幼い肉身がどんなに虐げられ、さげすまれ、辱められ、痛めつけられようとも、霊魂は神の愛に直接結びつけられておるのだから、平安であり幸福である。
イエズスは山上の垂訓でこう言った。
「さいわいなるかな泣く人、彼らは慰めらるぺければなり」
泣け!わが子。
永井隆『この子を残して』(著者はカトリックの医師・医学者、長崎で被曝)pp.94-97