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『古代ヨーロッパ 世界の歴史2』社会思想社、1974年
4 ペルシア戦争
1 ペルシア戦争の発端
「古代ギリシア」ときくと、人々はまず、何を思い出すだろうか。
「オリンピック競技」を思い出す人もあろうし、小高いアクロポリスの丘の上に建つ「パルテノン神殿」を思う人もあろう。
また「ミロのヴィナス像」や「ミロンの円盤投げ」などの美しい彫刻類を思い出す人も多かろう。
そういうすばらしい文化をつくりあげたギリシアが、危急存亡の瀬戸ぎわに立ったことがあった。
それはふつう「ペルシア戦争」といわれる、紀元前五世紀のはじめごろの、ペルシア人帝国の、ギリシアへの侵略戦争だった。
当時ギリシアはたくさんの、それぞれ自治独立の「都市国家(ポリス)」からなっていて、ペルシア軍に対しても、すぐ降(くだ)ってしまうものもあり、あくまでも反抗したものもあった。
もっとも勇ましく反抗したのは、アテネであった。
そして、アテネはペルシア軍の侵略を二度も撃退し、ペルシアに戦争をあきらめさせることができた。
このペルシア戦争に勝ったのち、アテネを中心として、ギリシアは最盛期を迎えた。学問・芸術が、どっと花開いた。
そればかりでなく、アテネの政治体制である「民主政」「民主主義」は、その後、ヨーロッパの国々の政治理念の根本となった。
もし、この戦争にギリシアが負けていれば、世界史がまるで変わってしまったばかりでなく、「アジア」とか、「ヨーロッパ」とかいう観念も、ぜんぜんちがったものになっていたかもしれない。
こんなに重要なペルシア戦争の歴史を書いたのは、前にも名前をあげたヘロドトスというギリシアの歴史家だった。
ヘロドトスは、その『歴史』の冒頭に、「ペルシア人のインテリたちは、この争いの原因になったのはフェニキア人である、といっている」と書いている。
「この争い」というのは、いわゆる「ペルシア戦争」を指しているというよりも、もっとひろく、ギリシア人とペルシア人の争い、あるいはヨーロッパ人とアジア人の争いのことだった。
海洋貿易民であるフェニキア人が、ギリシアのアルゴスに来て商売をしたが、ついで、王女のイオその他の女をさらって、連れていったのが、ヨーロッパ人とアジア人の争いの、そもそものはじまりだというのである。
この話は、ほとんど神話的な話で、実際にあったことかどうかもわからない。
しかし、ペルシア戦争の起こりに、フェニキア人は、関係がないこともない。
前に書いたように、ペルシアは紀元前五五〇年ごろ、アカイメネス家のキュロス(紀元前六〇〇年ごろ~五二九年)がそれまで仕えていたメディアに反旗をひるがえして独立した国だった。
キュロスはメディアをほろぼしたのち、イラン高原の諸部族を従え、紀元前五四六年には小アジアのリュディアを、ついで新バビロニアを征服し(紀元前五三九年)、さらにインダス川の流域から、トルキスタンまで遠征して、これをあわせた。
さらにフェニキアもその支配下にいれた。こうして、エジプト以外の全オリエントは、みなペルシア領となった。
キュロスの子カンビュセス(在位紀元前五二九~二二年)のときには、さらにエジプトも征服して、その領土にした(紀元前五二五年)。
しかし、エジプト遠征中に、本国でガウマタという僧が王を自称した。
カンビュセスはこれをきき、ひじょうに怒って、ガウマタを討つためにすぐ本国に帰ろうとした。
ところが、ふとしたことからけがをして、これがもとで、彼は死んでしまった。
その後王族のダレイオスが、ガウマタを殺して、王位についた(紀元前五二二年)。
そして、諸侯の反乱を平らげ、諸方に遠征の軍を出した。
彼は全領土を二十の属州に分けて、これに太守(サトラップ)を置き、分割統治するなど、その支配も巧みだったので、彼の時代にペルシア帝国は黄金時代にはいった。
小アジアの沿岸のギリシア植民市も、ペルシアの支配下にはいり、ペルシアは自分の思いのままになる者を、それらの市の僣主(タイラント)にして、政治を行なわせていた。
ギリシア植民市は、参戦や納税の義務を負わされた。
独立心の強いギリシア人にとっては、こういう状態は、がまんのできないことだった。
ことに、ミレトスをはじめとするイオニア植民市は、黒海やエジプトとの通商貿易で栄えていたが、ペルシアは、彼らの利害を無視して、フェニキア人に対して、保護政策をとった。フェニキア人は、古くから海上に進出し、通商貿易で活躍した人々だった。
彼らは、キュロスの時代にペルシアの支配下にはいり、その艦船はペルシア海軍の主力をなしていた。
先に、ペルシア戦争の発端に、フェニキア人が関係ないこともないと書いたのは、このことである。
ペルシアがフェニキアの通商貿易に対して保護政策をとれば、同じように通商貿易で立っているイオニア諸市の生存は苦しくなるわけで、彼らのペルシアに対する不満は、ますます大きくなった。
ペルシアがミレトスを支配させていた僭主(タイラント)は、アリスタゴラスという男であった。アリスタゴラスは、ペルシアのためにナクソス島を征服しようとして失敗した。
彼は、その失敗をペルシアにとがめられることを恐れて、反乱の決心をし、イオニア諸市に反乱をよびかけた。
かねてペルシアに対して、強い不満を持っていたイオニア諸市は、彼のよびかけに応じた(紀元前五〇〇年)。
これを「イオニアの反乱」という。
アリスタゴラスは、みずからギリシア本土にも出かけ、スパルタやアテネに援軍を出すことを頼んだ。
しかしスパルタは、ペルシアの首都スサまでは、陸路だけでも三ヵ月かかるときき、あまりの遠さに援軍を断わった。
だがアテネのほうは、二十隻の軍艦を出して、イオニア諸市を助けることになった。エレトリアも五隻の軍艦を出した。
この援軍をえて反乱軍の勢いはあがり、小アジアのペルシアの首邑(しゅゆう)、サルディスを落とした。
サルディスが陥落し、火をつけられて焼かれた知らせをきいたダレイオスは、ひじょうに怒り、ことにアテネ人に対しては深い恨みを持った。
そして復讐を心にかたく誓った。
彼はその後家来の一人に命じて、食事をする前には、「大王様、アテネ人をお忘れになりますな!」と三度ずつ必ずいわせたという。
このように反乱軍ははじめは勢いがよかったが、しだいにペルシア軍が勢いを盛りかえし、反乱軍は不利になり、アリスタゴラスは逃げだし、トラキアに行った。
そしてそこで戦死した。反乱軍は陸戦で不利になったばかりか、海戦でも敗れた。
ペルシア軍はさらにミレトスを包囲し、紀元前四九四年に、ついにミレトスを落とした。
ダレイオスはミレトスを落としたのち、イオニアの反乱を助けたアテネやエレトリアを討つ決心をした。
4 ペルシア戦争
1 ペルシア戦争の発端
「古代ギリシア」ときくと、人々はまず、何を思い出すだろうか。
「オリンピック競技」を思い出す人もあろうし、小高いアクロポリスの丘の上に建つ「パルテノン神殿」を思う人もあろう。
また「ミロのヴィナス像」や「ミロンの円盤投げ」などの美しい彫刻類を思い出す人も多かろう。
そういうすばらしい文化をつくりあげたギリシアが、危急存亡の瀬戸ぎわに立ったことがあった。
それはふつう「ペルシア戦争」といわれる、紀元前五世紀のはじめごろの、ペルシア人帝国の、ギリシアへの侵略戦争だった。
当時ギリシアはたくさんの、それぞれ自治独立の「都市国家(ポリス)」からなっていて、ペルシア軍に対しても、すぐ降(くだ)ってしまうものもあり、あくまでも反抗したものもあった。
もっとも勇ましく反抗したのは、アテネであった。
そして、アテネはペルシア軍の侵略を二度も撃退し、ペルシアに戦争をあきらめさせることができた。
このペルシア戦争に勝ったのち、アテネを中心として、ギリシアは最盛期を迎えた。学問・芸術が、どっと花開いた。
そればかりでなく、アテネの政治体制である「民主政」「民主主義」は、その後、ヨーロッパの国々の政治理念の根本となった。
もし、この戦争にギリシアが負けていれば、世界史がまるで変わってしまったばかりでなく、「アジア」とか、「ヨーロッパ」とかいう観念も、ぜんぜんちがったものになっていたかもしれない。
こんなに重要なペルシア戦争の歴史を書いたのは、前にも名前をあげたヘロドトスというギリシアの歴史家だった。
ヘロドトスは、その『歴史』の冒頭に、「ペルシア人のインテリたちは、この争いの原因になったのはフェニキア人である、といっている」と書いている。
「この争い」というのは、いわゆる「ペルシア戦争」を指しているというよりも、もっとひろく、ギリシア人とペルシア人の争い、あるいはヨーロッパ人とアジア人の争いのことだった。
海洋貿易民であるフェニキア人が、ギリシアのアルゴスに来て商売をしたが、ついで、王女のイオその他の女をさらって、連れていったのが、ヨーロッパ人とアジア人の争いの、そもそものはじまりだというのである。
この話は、ほとんど神話的な話で、実際にあったことかどうかもわからない。
しかし、ペルシア戦争の起こりに、フェニキア人は、関係がないこともない。
前に書いたように、ペルシアは紀元前五五〇年ごろ、アカイメネス家のキュロス(紀元前六〇〇年ごろ~五二九年)がそれまで仕えていたメディアに反旗をひるがえして独立した国だった。
キュロスはメディアをほろぼしたのち、イラン高原の諸部族を従え、紀元前五四六年には小アジアのリュディアを、ついで新バビロニアを征服し(紀元前五三九年)、さらにインダス川の流域から、トルキスタンまで遠征して、これをあわせた。
さらにフェニキアもその支配下にいれた。こうして、エジプト以外の全オリエントは、みなペルシア領となった。
キュロスの子カンビュセス(在位紀元前五二九~二二年)のときには、さらにエジプトも征服して、その領土にした(紀元前五二五年)。
しかし、エジプト遠征中に、本国でガウマタという僧が王を自称した。
カンビュセスはこれをきき、ひじょうに怒って、ガウマタを討つためにすぐ本国に帰ろうとした。
ところが、ふとしたことからけがをして、これがもとで、彼は死んでしまった。
その後王族のダレイオスが、ガウマタを殺して、王位についた(紀元前五二二年)。
そして、諸侯の反乱を平らげ、諸方に遠征の軍を出した。
彼は全領土を二十の属州に分けて、これに太守(サトラップ)を置き、分割統治するなど、その支配も巧みだったので、彼の時代にペルシア帝国は黄金時代にはいった。
小アジアの沿岸のギリシア植民市も、ペルシアの支配下にはいり、ペルシアは自分の思いのままになる者を、それらの市の僣主(タイラント)にして、政治を行なわせていた。
ギリシア植民市は、参戦や納税の義務を負わされた。
独立心の強いギリシア人にとっては、こういう状態は、がまんのできないことだった。
ことに、ミレトスをはじめとするイオニア植民市は、黒海やエジプトとの通商貿易で栄えていたが、ペルシアは、彼らの利害を無視して、フェニキア人に対して、保護政策をとった。フェニキア人は、古くから海上に進出し、通商貿易で活躍した人々だった。
彼らは、キュロスの時代にペルシアの支配下にはいり、その艦船はペルシア海軍の主力をなしていた。
先に、ペルシア戦争の発端に、フェニキア人が関係ないこともないと書いたのは、このことである。
ペルシアがフェニキアの通商貿易に対して保護政策をとれば、同じように通商貿易で立っているイオニア諸市の生存は苦しくなるわけで、彼らのペルシアに対する不満は、ますます大きくなった。
ペルシアがミレトスを支配させていた僭主(タイラント)は、アリスタゴラスという男であった。アリスタゴラスは、ペルシアのためにナクソス島を征服しようとして失敗した。
彼は、その失敗をペルシアにとがめられることを恐れて、反乱の決心をし、イオニア諸市に反乱をよびかけた。
かねてペルシアに対して、強い不満を持っていたイオニア諸市は、彼のよびかけに応じた(紀元前五〇〇年)。
これを「イオニアの反乱」という。
アリスタゴラスは、みずからギリシア本土にも出かけ、スパルタやアテネに援軍を出すことを頼んだ。
しかしスパルタは、ペルシアの首都スサまでは、陸路だけでも三ヵ月かかるときき、あまりの遠さに援軍を断わった。
だがアテネのほうは、二十隻の軍艦を出して、イオニア諸市を助けることになった。エレトリアも五隻の軍艦を出した。
この援軍をえて反乱軍の勢いはあがり、小アジアのペルシアの首邑(しゅゆう)、サルディスを落とした。
サルディスが陥落し、火をつけられて焼かれた知らせをきいたダレイオスは、ひじょうに怒り、ことにアテネ人に対しては深い恨みを持った。
そして復讐を心にかたく誓った。
彼はその後家来の一人に命じて、食事をする前には、「大王様、アテネ人をお忘れになりますな!」と三度ずつ必ずいわせたという。
このように反乱軍ははじめは勢いがよかったが、しだいにペルシア軍が勢いを盛りかえし、反乱軍は不利になり、アリスタゴラスは逃げだし、トラキアに行った。
そしてそこで戦死した。反乱軍は陸戦で不利になったばかりか、海戦でも敗れた。
ペルシア軍はさらにミレトスを包囲し、紀元前四九四年に、ついにミレトスを落とした。
ダレイオスはミレトスを落としたのち、イオニアの反乱を助けたアテネやエレトリアを討つ決心をした。