カトリック情報 Catholics in Japan

スマホからアクセスの方は、画面やや下までスクロールし、「カテゴリ」からコンテンツを読んで下さい。目次として機能します。

5-9-1 シチリアの晩祷

2023-05-09 02:30:24 | 世界史
『中世ヨーロッパ 世界の歴史5』社会思想社、1974年
9 シチリアの晩祷(ばんとう)
1 事件――フランス兵虐殺

地中海世界(1328年)

 一二八二年の復活祭の翌日、三月三十日の夕刻、シチリア島パレルモでのことである。
 旧城壁の外にある聖霊教会の広場には、市内や近在の村々から集まった人々が、あるいはささやきをかわし、あるいは歌を歌いながら、この教会が慣例として催す復活祭月曜晩祷礼拝のはじまるのを待っていた。
 そこに一団のフランス兵がやってきた。
 人々は彼らを冷たくかたくなな視線で迎えたが、彼らのほうは、どうやら酒の入っているらしい大声でわめき、つばをはきちらし、若い女とみればみさかいなくまつわりつくという狼藉ぶりだった。
 そのフランス兵のひとりが、人々の影に身をかくしていた小意気な女をみつけ、腕をつかんでひきずりだした。
 その女には亭主がいた。
 シチリア男は血の気が多い。亭主はいきなりその乱暴者にとびかかった。
 フランス兵は脇腹をおさえて倒れ、亭上の手にはナイフがにぎられていた。フランス人たちは、いっせいにわめきたち、殺害者にとびかかろうとした。
 そのとき異様な殺気が流れ、フランス兵たちの動きがとまった。
 彼らは剣をぬき短刀を手にしたシチリアの男たちの群れに包囲されていたのである。
 男たちの怒りに燃える目、フランス人たちの恐怖にひきつった顔。
 広場は虐殺の場と化した。
 フランス兵はひとり残らず殺された。
 聖霊の鐘が夕べの祈りの刻を告げ知らせていた。
 晩鐘の鐘は暴動の鐘とかわり、伝令が市内に走った。
 一瞬にして街中(まちなか)には武器を手にしたシチリア人があふれ、「フランス人を殺せ」という叫びが各所にあがった。
 暴徒はフランス兵の宿泊する宿屋、家々に押し入ったフランス人は即座に殺された。
 フランス人を夫にもった女も殺された。
 ドメニコ派、フランチェスコ派の修道院も襲われ、修道士たちは「チチリ」といえと強要された。
 この発音はフランス人には苦手であり、口ごもったものは容赦なく殺された。
 一夜のうちに、パレルモに駐屯していたフランス軍は壊滅した。
 二千余人が殺され、町は完全に反徒たちにおさえられた。
 彼らはアンジュー伯家の旗をひきずりおろし、かっての支配者、神聖ローマ帝国皇帝フリードリヒ二世の鷲(わし)紋様の旗をかかげた。
 各地区、各ギルドの代表からなる自治政府が組織され、町を教皇の保護下においてもらいたいという要請状をもって、使節団がローマヘ向かった。

 これが聖王ルイの弟、シャルル・ダンジューの支配に対する、シチリア島民の反乱の序幕であった。
 十九世紀のロマンティシズムは、この事件を陰謀と策略の渦と脚色したが、いまではこれは偶発的な出来事と考えられている。
 しかし、当時の地中海における国際関係という観点からみるとき、この事件はじつにタイミングよく起きたという感が深い。
 それだけに、謀略説は、なお根強いものをもっている。
 じつにこのシチリアの暴動をきっかけにして、シャルルの「地中海帝国」建設の夢はいっきょにくずれ、地中海に利害関係をもつフランス、アラゴン、イタリア、ビザンティン等々の力のバランスは大きく変ったのであった。
 当時の地中海における国際関係をみるまえに、私たちは、この事件の展開をさらに追ってみよう。
 「パレルモ立つ」の報が各地に伝わり、各地に暴動があいついだ。
 パレルモは軍勢を各方面に派遣して、これを支援した。二週間後には、ほぼ全島にわたって、フランス人は、あるいは殺され、あるいは追われた。
 だが、イタリア半島とシチリア島とにはさまれた海峡(メッシナ海峡)にのぞむ港湾市メッシナにだけは、暴動は起きなかった。
 パレルモは通牒を発して、メッシナに決起をうながした。
 だが、メッシナは用心ぶかくかまえていた。
 なにしろ、ここには、シャルル・ダンジューのシチリア代官エルベール・ドルレアンが、フランス軍の主力をひきいて腰をすえていたのだし、また港には、ビザンティン遠征にそなえて完全に装備をととのえたシャルルの艦隊が待機していたのだった。
 むしろメッシナは、エルペールの命令のままに、西のタオルミナ、あるいはパレルモの暴動鎮圧に、人員艦船をだしている。
 だが、しだいにメッシナにも反抗の気運が高まり、親フランス派の市の実力者リソ家の策謀をはねかえして、市民たちは、四月二十八日、ついに反乱にふみきった。
 フランス勢は、郊外のマテグリフォン城にたてこもった。
 だが港内の艦船を焼かれ、戦意を喪失した代官エルベールは、メッシナの自治政府と交渉し、フランス本国に帰り二度とシチリアにはもどらないことを条件に、メッシナから退去した。


イタリア半島とシチリア島

 ところが、彼は、本国にはもどらず、反攻のチャンスをねらうために、海峡を渡ってイタリア半島のカラブリアに向かったのであった。シチリア島民がシャルル・ダンジューの軍勢を追いだしたというニュースは、地中海の各方面で、さまざまな反応をひきおこした。
 ピザンティン(東ローマ)帝国の首都コンスタンティノープルには、数週間後、メッシナ市政府がジェノバの商人某に託したメッセージがとどいた。ピザンティン皇帝ミカエル・パレオロゴスは、以前からシチリア島民に対し援助を送り、蜂起をうながしていただけに、この報に狂喜したという。
 シチリア島民の暴動は、のちに述べるようにビザンティン帝国の危機を救ったのである。
 シャルル・ダンジューは、当時ナポリにいた。
 パレルモの暴動の報は、モンレアルの大司教の送った使者からうけた。
 彼は怒ったものの、はじめのうちはたかをくくっていた。
 「代官エルベールがうまく処理するだろう。東方遠征をすこし伸ばさなければならない程度のことだ」と考えていた。
 だが、下旬に入って、メッシナに反乱がおこり、メッシナ港内の艦隊が全滅したという知らせをうけて、彼ははじめてことの重大さをさとった。
 シャルルは、ただちに、イタリア半島の諸港で東方遠征に待機していた艦隊を、メッシナ海峡に集結させ、みずからこれを指揮するためナポリをたった。
 ローマ教皇の反応はシチリア島民をがっかりさせた。
 すでに早く、パレルモ自治政府の送った使節団は教皇への謁見を拒否されていたのだが、五月に入り、シチリア諸市は重ねて使節をローマに送り、教皇の好意ある反応を期待した。
 だが、教皇はかたくなであった。
 五月七日の教書に、教皇は、シチリア島民およびそれを支援するものたちを破門し、さらに第二の教書に、「ギリシア人の皇帝を称する」ミカエル・パレオロゴスを破門したのである。
 フランス宮廷の動きも活発であった。
 シャルルは、甥のフランス王フィリップ三世とつねに緊密な連絡をとっていた。
 王はシャルルを側面から脅かすかたちのイベリア半島アラゴン王ペドロ三世の動きに、警戒の視線をすえていた。
 メッシナで反乱がおきる前に、すでに王は、当時アフリカ遠征のためと称してイベリア半島エブロ川河口のファンゴス湾に艦船を集結させていたベドロに対し、その不審な行動をとがめる書簡を送っていた。
 この書簡をたずさえた使者は、五月二十日ファンゴス湾に到着している。
 このペドロの動きこそ、もっとも警戒しなくてはならないものであった。
 彼はフランス王のとがめだてに対し、ただ予定どおりにアフリカ遠征を行なうつもりだと答えただけであった。
 彼は情勢をうかがっていたのである。
 パレルモの反乱は、ペドロにとって意外な出来事であった。
 たしかに彼は、ひそかにシチリアの反逆を助成しようと動いていた。
 シャルルがビザンティン遠征に出発する。
 シチリア島の守備隊は手薄になる。それをねらってシチリア島をおさえる。そして、ビザンティンと謀ってシャルルを挾みうちにする。
 これがペドロの計画であった。


アラゴン王ペドロ三世の印章
アラゴン王国はスペインの地中海に面した小国

 この予定表が、パレルモの反乱のため、最初の段階でくずれた。
 ペドロは慎重にかまえていた。
 メッシナ反乱の報に、ようやく彼は動いた。
 六月三日、アラゴンの艦隊はファンゴス湾を出航した。
 もともとペドロの北アフリカ海岸遠征計画は、チュニジアのサラセン政権に対する十字軍を称するものであった。
 チュニジアのある地方長官と密約をむすんでの行動だったのだが、彼がコロに到着したときすでにその長官は倒されていて、遠征計画の根本的な手直しが必要な情勢になっていた。
 だが、ペドロにとっては、じつはそんなことはどうでもよいことであった。
 彼の艦隊はそのままコロの港にとどまり、彼の視線はシチリア島に向けられていた。
 シャルル・ダンジューは、あるいは教皇マルティヌスをうごかしてシチリア島民に対し無条件降伏を勧告させ、あるいは彼みずからシチリア王として政治の改革を約束するなど、和戦の策を講じる一方、艦隊をメッシナ海峡に集めていた。
 フランス宮廷からも騎士の一隊が加わり、フィレンツェの教皇党からも戦士の一隊が派遣された。
 ベネツィア、ピサ、ジェノバの艦船が雇いいれられた。
 シャルル自身は七月六日に現地に到着した。
 それから十九日後、艦隊は海峡を渡り、シャルルは、メッシナの北のぶどう畑に陣を設けた。
 メッシナの士気は大いにあかっていた。市民たちは、マテグリフォン城内に監禁していたリソ家の人々を殺し、また、無能だからという理由で自分たちの指導者をとりかえて、断固防戦のかまえを示した。
 ジェノバの艦船数隻が支援にやってきた。アンコナからも十二隻、ベネツィアからも十二隻来た。
 ジェノバにしろ、ベネツィアにしろ、内部の党派争いとシャルル・ダンジューに対する好悪の感情から市民がふたつに割れて、メッシナ側とシャルル側にそれぞれ味方したのである。
 八月に入り、五十名のアラゴン貴族が防衛の陣にくわわった。
 彼らはペドロ王の本隊から離れ、義勇兵として、シチリア人側に味方したのであった。
 八月六日、総力をあげての攻防戦が開始された。勢力は、圧倒的にシャルルの側が優勢だった。
 しかし、この夏は、いつになく雨が多く、泥濘(でいねい)にぬかるんだ大地は、攻撃側に不利であった。
 それにメッシナ側は、すでにフランチェスコ派の修道士を使って、敵の布陣をよく調べあげていたのである。
 最初の攻撃に戦果をおさめえなかったシャルルは、包囲陣を強化するかたわら、またもや教皇特使を派遣して、降伏を勧告させた。
 いぜんとして教皇を宗主にとのぞんでいたメッシナ市政府は、これを丁重に迎えたが、特使は、シチリアの正当の支配者は、教会に忠実なシャルルであるとくりかえすのみだった。
 市政府の長官は特使にあたえた儀礼の市の鍵をひったくり、「憎むべき敵に屈服するよりは、むしろ戦って死をえらぼう!」と声高に宣言したという。
 一ヵ月がすぎた。城壁のまもりは固かった。
 ゆたかな食糧の貯蔵とシチリア人の不屈の闘志が、圧倒的に優勢な攻撃力をはねかえしたのである。
 だが、一都市メッシナの力には限界がある。
 メッシナは外に助力を求めなければならない。
 シチリアの諸都市を、教皇を宗主とする自治都市に加えてもらいたいという願いを教皇が許容する望みはほとんど絶たれた。
 教皇マルティヌスは、アンジュー伯の、ひいてはフランス王の傀儡(かいらい)にすぎない。
 だれに助力を求めるべきなのだろうか。
 パレルモに、アラゴン王ペドロの使節団が滞在していた。
 これは、北アフリカ遠征を十字軍として聖別するように要請するためローマ教皇庁に派遣された使節団だったのだが、けっきょく目的を達せず、帰国する途中、パレルモに立ち寄っていたのである。
 もちろん、これはペドロの内意をうけての行動であった。
 使節団と市政府とのあいだに、たびたび交渉がもたれた。
 シチリア人は、はじめのうちはアラゴンとの同盟に消極的であった。
 アラゴンと同盟し、ベドロ王にシチリア王の冠をあたえれば、ふたたび外国人の支配下にはいることになると警戒したのである。
 だが、メッシナの情勢が余断を許さなくなってくるにつれて、パレルモの態度はしだいに変化した。
 ペドロ王の妃コンスタンスはホーエンシュタウヘン家最後のシチリア王マンフレートの息女であるから、当然シチリア王位につく権利をもっている。
 だから、ペドロ王にではなくコンスタンスにシチリア王の冠をあたえようということで、ペドロの使節団とパレルモ市政府の見解は一致した。
 コロに滞陣中のペドロのもとにもどってきた使節団は、パレルモの使者を伴っていた。
 ベドロは、しかし、即答をさけた。
 彼としては、もちろん、はじめからこの役割をひきうけるつもりではあったが、懇望されてやむをえずひきうけたのだという印象を周囲にあたえる必要があったのである。
 数日後、シャルルの包囲陣を脱出したメッシナの騎士と市民の代表がコロに到着し、パレルモの決定に同調するとペドロに告げた。
 ここにいたって、まずペドロは全軍の将士にこのことをはかったうえで、ようやくシチリア人の申し出をうけると宣言した。
 だが、彼は将来にそなえて、ふたたび使節団を教皇庁に派遣し、自分の立場を釈明することをも忘れなかった。
 八月三十日、アラゴンの大艦隊は、コロを発して、シチリア島に向かった。




最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。