『文明のあけぼの 世界の歴史1』社会思想社、1974年
12 アメリカ大陸の文明
1 マヤ・アズテック
コロンブスが大西洋を横断してサン・サルバドル島に達したのは一四九二年だった。
それはやがて「新大陸」とよばれるようになるアメリカ大陸の沿岸の島であった。
しかしアメリカ大陸は「新大陸」とよばれるが、それはヨーロッパ人にとって新しかっただけで、けっして新しく海中から出現したわけではなく、それ自身の長い歴史を持っている古い大陸だった。
そしてヨーロッパ人が南北アメリカ大陸を発見した時代には、他の大陸と交通がなかったために、まだ石器時代に近い状態のままに残っていた。
アメリカ大陸の文明と、アジア、アフリカ、ヨーロッパなどの旧大陸の古代文明との関係はいろいろに論じられてきた。
中南米の古代文明に、ピラミッド状のものをつくったり、ミイラがつくられたり、太陽を神として崇(あが)めたり、王を太陽の子としたりするエジプトと似たものが見られることから、エジプト文明が起源だと考えた学者もあった。
しかし今日ではエジプト起源を説く学者はない。
偶然に似たものが遠く離れた所で別々に発生したと考えてよいだろう。
アメリカ大陸の原住民がアジア大陸のモンゴロイド系の人々であることは、疑いない。
彼らはおそらく今から二万年ほどまえ、ベーリング海峡が氷結していたか、陸つづきであったときに、そこを渡って、アメリカ大陸にはいり、各地にひろがったのだろうと考えられている。
しかし太平洋の島づたいにきたろうと考えている学者もないわけではない。
アメリカ大陸に渡って来た人々は、この地でとうもろこしをみつけ、掘り棒農耕をはじめた。
おそらく紀元前一〇〇〇年ころから、各地に農村文化がうまれた。
そして中部アメリカと南米のペルー地方では、早くこの段階を脱して、独特の文明がうまれた。
アメリカ大陸の原住民、いわゆる「インディオ」は、アジア大陸から渡ってきたが、しかしその後は、他の大陸との交通がほとんどなかったことは、彼らの文明が、土器の製造、織布術、あるいは暦法などではいちじるしく発達しているのに、中部アメリカではほとんど牧畜のないこと、車を知らないことなど、旧大陸の文化にいちじるしく遅れている点もあり、いわゆる跛行(はこう)的(びっこ)な発達をしていることからうかがえる。
中部アメリカの古代文明は、マヤ、トルテック、アズテックの三期にわかれている。
まず紀元四世紀ごろから、今日のメキシコ東南部やグアテマラ地方に、いわゆる「マヤ古帝国文明」が栄えた。
彼らは、建築や美術のうえにすぐれた技術をしめし、象形文字も発明していた。
マヤ族のように文字を使っていたのは、中南米の諸種族のなかではめずらしかった。
彼らはそれを使って年代記、暦法、天文、医術、呪術などにかんする諸記録をつくっていた。
それらはおもに神官によって管掌され、諸所に文書館もあったらしい。
しかし、それらの文書は、メキシコ地方を征服したスペイン人たちに「悪魔の迷信と虚偽のほかなにものをも誌していない」として、すべて焼き捨てられてしまった。
そのため今日残っているものは、世界中にわずか三部しかなく、マドリード、パリ、ドレスデンに一冊ずつあるだけである。
マヤ族は天文や暦法にも高い水準の知識をもっていた。
二十日を一(ひと)月とし、十八ヵ月(ウイナル)、三百六十日を一年(トウン)としたが、太陽の周期にあわせるために、これに余分な五日が加えられた。
この余分な日はひじょうに不吉な日とされた。
彼らのあいだではまた二十進法が用いられ、神官のあいだでは、十三ヵ月三百六十日を一年とする別の暦法が使われた。
この二つの暦法をあわせ用いて、ユリウス暦、グレゴリウス暦よりもより正確な暦法を用いていた。
しかし、このマヤ古帝国文明も紀元七〇〇年から八〇〇年のあいだに衰え、彼らはユカタン半島に移住し、その北部にチチェン・イッツア、ウシュマル、マヤパンなどのマヤ新帝国文明をつくった。
このマヤ新帝国文明は、古帝国文明ほどの創造力はもっていなかった。
しかし神殿、ピラミッド、城砦など壮大な建築物を築くことに長じていた。
この新帝国文明は十一世紀ごろが最盛期で、その後は都市がたがいに争いあって衰えた。
マヤの数字
マヤ族の天空神ザムナは文化的英雄の性格もそなえ、彼はマヤの人々の政治的、宗教的な支配者で、法律を定め、文明的な生活方法をいろいろ教えたことになっている。
彼らはほかにとうもろこしの神エム・カアフ、風雨の神タクルカンなどを祀った。
この神たちは人の顔に蛇のからだのついたもの、両方に頭のある亀のような怪物など、グロテスクな形をしているものが多い。
またマヤ族のあいだには、無気味な風習がいろいろあったり雨乞いのための人身御供、耳や舌に穴をあけて、流れる血を神にささげる儀式、石ナイフで心臓をえぐりだし、その血を神像にぬる儀式、犠牲にささげた者の皮をはいで、これを神官が着て踊る祭式、歯を抜いたりけずったりする風習、その他いれずみの風習など、聞くだけで身ぶるいするようなものがいろいろあった。
マヤ新帝国は、十世紀の末ごろメキシコ高原からきたトルテック族に支配されるようになり、その影響を文化のうえにもこうむった。
このトルテック族は八世紀ごろ北方からメキシコ高原にはいり、十二世紀のなかばまで栄えた。
その首都はトゥラであった。テオティワカンの「日」と「月」のピラミッドは、トルテックの作ったものとも伝えられるが、確かではなく、むしろオルメック人が作ったものとする人が多い。
一二二〇年ごろトルテック文明にかわり、メキシコ高原にアズテック文明がおこった。
スペイン人の「征服者(コンキスタドール)」たちがこの地にやってきたとき、このアズテック文明がまだメキシコ地方には栄えていたのだが、やがて彼らに滅ぼざれてしまった。
アズテック人は太陽や星を神とし、また祖先を神とし、ほかに雨神、風神などの農業神を祀った。
彼らの彫刻、絵画はマヤ族のものよりもさらにグロテスクなものが多い。
また捕虜の胸を切りさいて心臓をとりだす人身御供など、前代よりもさらに残酷なものが盛んにおこなわれた。
新大陸の文化が旧大陸の文化とくらべて、きわめて跛行(はこう)的であることは先にも書いた。
旧大陸の古代都市文明では、金属器の使用がむしろ前提になっていた。
しかし中央アメリカでは十世紀よりまえには、金属器を作っていない。
それでいて天文、暦法、数学などではむしろ旧大陸よりも進んでおり、旧大陸では六世紀にインドにはじまったといわれる“0=ゼロ”の数字を使用していた。
またろくろ、犂(すき)、車、車をひかせる大型の家畜類を知らず、そのとうもろこし農業は、土掘り棒を用いる幼稚なものだった。
そのような幼稚な農業で、余剰生産が生みだされ、生産労働にたずさわらずに、宗教や学術、美術工業などに専心する支配層、職業階層を養うことができたのはふしぎなことである。
中央アメリカに栄えたマヤ・アズテック文明を旧大陸の文明と比較してのふしぎは、このほかにもある。
まずそれらが旧大陸とはちがって、大河の流域におこったものでないということである。
そしてマヤ文明はむしろジャングル地帯におこったものらしく、これは文明発祥地帯としては、ほかに例のないもので、その理由を合理的に説明することは、今日のところではかなりむずかしい。
12 アメリカ大陸の文明
1 マヤ・アズテック
コロンブスが大西洋を横断してサン・サルバドル島に達したのは一四九二年だった。
それはやがて「新大陸」とよばれるようになるアメリカ大陸の沿岸の島であった。
しかしアメリカ大陸は「新大陸」とよばれるが、それはヨーロッパ人にとって新しかっただけで、けっして新しく海中から出現したわけではなく、それ自身の長い歴史を持っている古い大陸だった。
そしてヨーロッパ人が南北アメリカ大陸を発見した時代には、他の大陸と交通がなかったために、まだ石器時代に近い状態のままに残っていた。
アメリカ大陸の文明と、アジア、アフリカ、ヨーロッパなどの旧大陸の古代文明との関係はいろいろに論じられてきた。
中南米の古代文明に、ピラミッド状のものをつくったり、ミイラがつくられたり、太陽を神として崇(あが)めたり、王を太陽の子としたりするエジプトと似たものが見られることから、エジプト文明が起源だと考えた学者もあった。
しかし今日ではエジプト起源を説く学者はない。
偶然に似たものが遠く離れた所で別々に発生したと考えてよいだろう。
アメリカ大陸の原住民がアジア大陸のモンゴロイド系の人々であることは、疑いない。
彼らはおそらく今から二万年ほどまえ、ベーリング海峡が氷結していたか、陸つづきであったときに、そこを渡って、アメリカ大陸にはいり、各地にひろがったのだろうと考えられている。
しかし太平洋の島づたいにきたろうと考えている学者もないわけではない。
アメリカ大陸に渡って来た人々は、この地でとうもろこしをみつけ、掘り棒農耕をはじめた。
おそらく紀元前一〇〇〇年ころから、各地に農村文化がうまれた。
そして中部アメリカと南米のペルー地方では、早くこの段階を脱して、独特の文明がうまれた。
アメリカ大陸の原住民、いわゆる「インディオ」は、アジア大陸から渡ってきたが、しかしその後は、他の大陸との交通がほとんどなかったことは、彼らの文明が、土器の製造、織布術、あるいは暦法などではいちじるしく発達しているのに、中部アメリカではほとんど牧畜のないこと、車を知らないことなど、旧大陸の文化にいちじるしく遅れている点もあり、いわゆる跛行(はこう)的(びっこ)な発達をしていることからうかがえる。
中部アメリカの古代文明は、マヤ、トルテック、アズテックの三期にわかれている。
まず紀元四世紀ごろから、今日のメキシコ東南部やグアテマラ地方に、いわゆる「マヤ古帝国文明」が栄えた。
彼らは、建築や美術のうえにすぐれた技術をしめし、象形文字も発明していた。
マヤ族のように文字を使っていたのは、中南米の諸種族のなかではめずらしかった。
彼らはそれを使って年代記、暦法、天文、医術、呪術などにかんする諸記録をつくっていた。
それらはおもに神官によって管掌され、諸所に文書館もあったらしい。
しかし、それらの文書は、メキシコ地方を征服したスペイン人たちに「悪魔の迷信と虚偽のほかなにものをも誌していない」として、すべて焼き捨てられてしまった。
そのため今日残っているものは、世界中にわずか三部しかなく、マドリード、パリ、ドレスデンに一冊ずつあるだけである。
マヤ族は天文や暦法にも高い水準の知識をもっていた。
二十日を一(ひと)月とし、十八ヵ月(ウイナル)、三百六十日を一年(トウン)としたが、太陽の周期にあわせるために、これに余分な五日が加えられた。
この余分な日はひじょうに不吉な日とされた。
彼らのあいだではまた二十進法が用いられ、神官のあいだでは、十三ヵ月三百六十日を一年とする別の暦法が使われた。
この二つの暦法をあわせ用いて、ユリウス暦、グレゴリウス暦よりもより正確な暦法を用いていた。
しかし、このマヤ古帝国文明も紀元七〇〇年から八〇〇年のあいだに衰え、彼らはユカタン半島に移住し、その北部にチチェン・イッツア、ウシュマル、マヤパンなどのマヤ新帝国文明をつくった。
このマヤ新帝国文明は、古帝国文明ほどの創造力はもっていなかった。
しかし神殿、ピラミッド、城砦など壮大な建築物を築くことに長じていた。
この新帝国文明は十一世紀ごろが最盛期で、その後は都市がたがいに争いあって衰えた。
マヤの数字
マヤ族の天空神ザムナは文化的英雄の性格もそなえ、彼はマヤの人々の政治的、宗教的な支配者で、法律を定め、文明的な生活方法をいろいろ教えたことになっている。
彼らはほかにとうもろこしの神エム・カアフ、風雨の神タクルカンなどを祀った。
この神たちは人の顔に蛇のからだのついたもの、両方に頭のある亀のような怪物など、グロテスクな形をしているものが多い。
またマヤ族のあいだには、無気味な風習がいろいろあったり雨乞いのための人身御供、耳や舌に穴をあけて、流れる血を神にささげる儀式、石ナイフで心臓をえぐりだし、その血を神像にぬる儀式、犠牲にささげた者の皮をはいで、これを神官が着て踊る祭式、歯を抜いたりけずったりする風習、その他いれずみの風習など、聞くだけで身ぶるいするようなものがいろいろあった。
マヤ新帝国は、十世紀の末ごろメキシコ高原からきたトルテック族に支配されるようになり、その影響を文化のうえにもこうむった。
このトルテック族は八世紀ごろ北方からメキシコ高原にはいり、十二世紀のなかばまで栄えた。
その首都はトゥラであった。テオティワカンの「日」と「月」のピラミッドは、トルテックの作ったものとも伝えられるが、確かではなく、むしろオルメック人が作ったものとする人が多い。
一二二〇年ごろトルテック文明にかわり、メキシコ高原にアズテック文明がおこった。
スペイン人の「征服者(コンキスタドール)」たちがこの地にやってきたとき、このアズテック文明がまだメキシコ地方には栄えていたのだが、やがて彼らに滅ぼざれてしまった。
アズテック人は太陽や星を神とし、また祖先を神とし、ほかに雨神、風神などの農業神を祀った。
彼らの彫刻、絵画はマヤ族のものよりもさらにグロテスクなものが多い。
また捕虜の胸を切りさいて心臓をとりだす人身御供など、前代よりもさらに残酷なものが盛んにおこなわれた。
新大陸の文化が旧大陸の文化とくらべて、きわめて跛行(はこう)的であることは先にも書いた。
旧大陸の古代都市文明では、金属器の使用がむしろ前提になっていた。
しかし中央アメリカでは十世紀よりまえには、金属器を作っていない。
それでいて天文、暦法、数学などではむしろ旧大陸よりも進んでおり、旧大陸では六世紀にインドにはじまったといわれる“0=ゼロ”の数字を使用していた。
またろくろ、犂(すき)、車、車をひかせる大型の家畜類を知らず、そのとうもろこし農業は、土掘り棒を用いる幼稚なものだった。
そのような幼稚な農業で、余剰生産が生みだされ、生産労働にたずさわらずに、宗教や学術、美術工業などに専心する支配層、職業階層を養うことができたのはふしぎなことである。
中央アメリカに栄えたマヤ・アズテック文明を旧大陸の文明と比較してのふしぎは、このほかにもある。
まずそれらが旧大陸とはちがって、大河の流域におこったものでないということである。
そしてマヤ文明はむしろジャングル地帯におこったものらしく、これは文明発祥地帯としては、ほかに例のないもので、その理由を合理的に説明することは、今日のところではかなりむずかしい。