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『文芸復興の時代 世界の歴史7』社会思想社、1974年
6 “スーパーマン”レオナルド・ダ・ビンチ――ルネサンスの技術と科学――
6 「それでも地球は動く」
「魔術からの解放」の過程において、コペルニクス、ブルーノ、ガリレイ、ケプラーとつづく一連の天文学に関するものは、もっとも有名である。
コペルニクス(一四七三~一五四三)はポーランドの僧侶であったが、三十年以上も「天体の回転」の考えを発表できなかった。
その著書『天体回転論』に臨終の床にとどいた。
それは一六四三年のことである(完成されたのは、一五三〇年ごろとみられる)。
コペルニクス説は新旧両教会の猛攻撃を受けて葬られた。
ルターは、「聖書によれば、ヨシュアは静止することを地球には命じたけれど、太陽に命じたのではなかった」といい、カルバンも、「コペルニクスの権威を聖書の権威の上におけない」と反対した。
地球は宇宙の中心にあって動かず、そのまわりを太陽をはじめ、すべての天体が運動しているという古代のプトレマイオスの地球中心説(または天動説)はローマ教会の公認の学説とされ、聖書にもこの真実性を裏づける言葉があった。
これに対してコペルニクスは宇宙の中心は太陽であり、地球をふくめて惑星はそのまわりを円運動するという地動説をとなえたのであるから、教会の反対は察するにあまりがあろう。
しかし、コペルニクス説はひそかに各地で支持された。
イタリア人ジョルダノ・ブルーノ(一五四八~一六〇〇)はコペルニクス説を発展させ、無数の太陽系を考え、彗星を遊星の一種とし、エネルギー不滅の法則を予想した。
ブルーノは弾圧におびえながらも、博学と鬼才を愛されて、イギリスやフランスの同情者のあいだを転々としたが、ついにローマ教会に捕えられて火刑に処せられた。
このころローマ教会の、また新教各派によるキリスト教的な世界解釈は、根拠のないものであることがますますはっきりしてきていた。
とくに航海探検がマジェラン以後も積みかさねられ、地球の古代的・聖書的解釈は無残にうちくだかれた。
神学者たちの知恵はそれらを弾圧するか、ごまかすかでしかなかった。
紀元前四六年にカエサル(シーザー)がきめたという「ユリウス暦」は、一五八二年教皇グレゴリウス十三世(在位一五七二~八五、その死の直前、この教皇に大友、木村有馬の三大名が送った少年天正遣欧使節が、バチカン宮殿で面会した)によって現行「グレゴリオ暦」に改められた。
ユリウス暦では一年がやや長く、十日ほどじっさいに合わなくなっていた。
そのことは早くから問題になっていたが、教皇は目立たぬように、この年の十月五日を十五日とし、月名や二月に閏(うるう)年を設けるなどのユリウス暦を全面的に残し、四百年に三回閏年を省略することを定めた。
これにかぎっては教会の良識(プロテスタント諸国の同調は遅れた。教養文庫「エピソード科学誌Ⅳ」参照)と評価してよいことだが、科学はこういうゆっくりしたテンポでなく進歩した。
ちょうどそのころガリレオ・ガリレイ(一五六四~一六四二)はピサ大学の数学教師であった。
一六九〇年ガリレイは、重さの異なる錘(おもり)の落下速度が同じであるという公開実験を、ピサの斜塔で行なったと伝えられる(「エピソード科学誌Ⅱ」参照)。
この実験は、アリストテレスの「落下速度は重量に比例する」という考えを訂正した。
いまならそういうことなのだが、アリストテレスの学問(このあらゆる学問の権威は、また天動説をとっていた)に欠陥があったとなると、キリスト教神学全体がおかしくなるという不安が、教授たちをとらえた。
とにかくガリレイはけしがらぬということになったらしい。
一五九二年ガリレイはパドバ大学にうつった。
彼はここで望遠鏡を発明し、一六一〇年木星の衛星をみつけた。
それはコペルニクスの予言が適中したことでもあった。
しかし教授たちは望遠鏡をのぞくことさえ拒否した。
ガリレイはドイツの友人ケプラー(一五七一~一六三○)に手紙を書き、「新しい星を空から消すための魔法的な論証」を試みる学者たちのことを述べている。
じつはコペルニクス説そのものに対する、ローマ教会の正式な態度はきまっていなかった。
しかしガリレイの研究成果がはっきりするにつれて、教会の不安は高まり、ついに一六二六年コペルニクス説が決定的に禁止された。すなわち、つぎの二つの命題は異端とされた。
一、太陽は宇宙の中心で不動である。
一、地球は宇宙の中心ではなく、また不動でもなく、運動するもので、一日一回転するものである。
そしてガリレイは地動説を擁護することと、これを教授することを禁止するといいわたされた。
しかし彼はこれに屈せず、一六三二年『宇宙に関する二つの体系、プトレマイオス説とコペルニクス説』を発表する。
それは対話の形をかりて、地動説を主張しようとしたものである。
このガリレイを待ちうけていたのは、ローマの異端審問所における裁判であった。
一六三三年、ガリレイは屈服し、、自説の廃棄を誓わねばならなかった。
「われガリレイ、年七十歳、とらわれ人としてひざまずき、審問官諸氏の面前において聖書をとり、手をもってこれにふれつつ、地動説を放棄し、のろい、嫌悪するものなり。」
そのあとで彼が、「それでも地球は動く」といったという有名な話は、作りごとである。
老齢、すでに体力は衰え、リュウマチに苦しみ、目の悪い彼は、法廷にひざまずき、屈辱に身をふるわせながら、誓言するだけで精いっぱいだったはずである。
一方、ガリレイの友人、ドイツの科学者ヨハネス・ケプラーも地動説を信じ、その研究をつづけるうちに、新教徒であったため迫害されて、一六〇〇年プラハに移った。
そしてケプラーは、この地の天文台長で有名な学者ティコ・ブラーエ(一五四六~一六〇一)のもとで、これを助け、また彼の死後は天文台長となり、残された材料を生かして研究をつづけた。
この結果、一六一九年までに、惑星の運動に関する「ケプラーの三法則」が完成され、ここに近代天文学の基礎がすえられることとなった。
しかしケプラーは生活にはめぐまれず(郷里の母が魔女の容疑で投獄されるというような不幸もあった)、貧困のうちに世を去った。
ケプラーよりも年長だったガリレイはさらに長生きして、からだは不自由だったが、「頭はいそがしくて困る」というように、研究につとめた。
彼は、とくに力学上で「落体の法則」と「慣性の法則」をうちたて、近代力学の基礎をつくった。
そしてガリレイは一六三七年盲目になり、四二年一月に世を去ったが、この年十二月イギリスで、アイザック・ニュートンと名づけられた小さく弱々しい子供が生まれた。
コペルニクス、ケプラー、ガリレイなどによって動くことが知られた地球を、万有引力の法則という軌道にのせたのが、このニュートンであったことはいうまでもない。
そしてニュートンの八十五歳の生涯は、彼の先駆者たちの苦難からみれば、はるかに安らかで幸福なものであった。
ともかく天文学はキリスト教的宇宙観を傷つけたため、旧科学と新科学の対決の焦点になった。
しかし新しい科学は、技術者たちの圧倒的な協力と支持をもっていた。
教会が政治権力からしだいにひき離されるにしたがって、科学への圧迫は少しずつやわらいだが、それでもときどき再発した。
十九世紀になっても、ダーウィンの「進化論」への圧迫がみられたことは、周知のところであろう。
しかし自立した科学と、本稿でひとまず「魔術」と名づけた「政治と宗教」との関係は、科学史ということでなく、歴史全体のなかにおいてみると、そう簡単ではない。
「聖者の世紀」という言葉がある。十七世紀前半ローマ・カトリック地域では、きびしい戒律を再建した修道院、およびその指導者である聖人聖女が多数出現した。
またこの時期は「魔女裁判」がいわば異常発生したことで知られている。
これらが近代科学の夜明けと共存していることは、単なる「科学の勝利」の歴史の一コマでしかないのだろうか?
この問題は、近代科学への反省や不信という現代的な問題意識のもとで洗い直されようとしている……とだけつけ加えておこう。
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