
『文芸復興の時代 世界の歴史7』社会思想社、1974年
8 ヒューマニストの運命
6 六人も王妃をかえた国王
話はさかのぼる。
一五〇九年、即位後まもなく、十八歳のヘンリー八世は兄アーサーの未亡人、スペイン王女で二十四歳のキャサリンと結婚した。
一五〇一年兄嫁の晴れ着のすそを捧(ささ)げたのは、十歳のヘンリーであったが、この結婚後五ヵ月とたたないうちに、アーサーは病死したのである。
そして兄嫁と弟の結婚は、イギリスがスペインとの友好を求めた政略結婚であるが、広い教養、優雅な性格を持ったこの姉さん女房に、若い王はすっかり満足しきっていた。
しかしキャサリンが二十年近くヘンリーの側近にあるあいだに、この政略結婚の意味は失われていった。
しかもキャサリンは女子メアリーを一五二六年に生んだだけで、すでに四十二歳となった。
ヘンリーが待望する男子を生む見込みはないであろうし、また王はこれを、兄弟の妻をめとったことに対する天罰と思った。
そこで国王の気持ちはしだいに王妃の侍女で、フランス帰り、二十歳ばかりのアン・ブリンにひかれていった。
この若々しい肉体こそ、男子をヘンリーに与えてくれるであろう。
アン・ブリンはそれほど美しくはなかったが、ほっそりしたからだつきで、しんが強く、王妃になることを要求した。
近親結婚であるため、むりやりに教皇から許可をえて王妃としたキャサリンではあったが、一五二七年のいまでは、王は彼女をむりやりに離婚しなければならなくなった。
そこでカトリック教徒としてヘンリー八世は、ローマ教皇にキャサリンとの結婚無効宣言を求めた。
かつて一五二一年、ルターに反対する書を著わして、教皇から「カトリック信仰の守護者」の名を与えられたヘンリーは、この業績に対しても、自分の願いはかなえられるものと信じていた。
しかし一五二七年五月、神聖ローマ皇帝カール五世の軍はローマを占領し、ときの教皇クレメンス七世はその支配下にあった。
また教皇は宗教改革が進行するなかで、カトリック勢力の最大の支柱であるこのカール、キャサリンの甥(おい)にあたるこの皇帝との関係を悪化させるような離婚を認めるわけにはいかない。
そうかといって「カトリック信仰の守護者」を袖にしたくはない。
意志薄弱なことでは定評がある教皇はどうしたらよいか、当惑してしまった。
ヘンリーが二人の妻を持ってくれたらとか、自分に責任なく新しい結婚が成立するのであれば、どんなにうれしかろうなどというような教皇は、イギリスへ使者を送って、ヘンリーに離婚を思いとどまらせようとするとともに、一方ではキャサリンに尼僧院にはいることをすすめた。
なるほど、これで自然に離婚となるわけだ。
しかし王は承知しなかったし、キャサリンは「四肢を裂かれても」そんなことはしないと強硬で、教皇の窮余の一策もむなしかった。
そして王も王妃も、教皇庁の正式の決定を望んだ。
ますますカール五世に屈した教皇クレメンス七世は、ついに一五二九年七月、ヘンリーをローマの法廷によぶための使者をイギリスに送る。
教皇のこの処置は、ヘンリーに離婚を強行させるきっかけを与えた。
外国の法廷によびだされて裁判されることを、王はがまんできない。
王の側近にいて重用されていたトマス・クロムウェル(一四八五ごろ~一五四〇)も入れ知恵した。
「めんどうだからローマ教皇と手をおきりなさい。」
一九二九年、王はのちに「宗教改革議会」とよばれる議会を召集し、ローマ・カトリック教会から分離するための立法を進めた。
そしてヘンリーはすでに身ごもっているアンと、三三年はじめひそかに結婚する。
生まれてくる子供は、合法的なあとつぎでなければならない。
王の意を体したカンタベリー大司教クランマー(一四八九~一五三六)は、キャサリンとの結婚無効、アンとの結婚の有効を宣言した。
六月、アンは王妃として戴冠する。
しかし九月に誕生したのは皮肉なことに男子ではなく、王女であった(のちのエリザベス一世)。
一方、教皇がイギリス国王の要求に従わないことは、いよいよ明確になってきた。
のみならず、教皇は一五三三年クランマー、ヘンリー八世をあいついで破門した。
こうしてローマとの断絶が決定的となる。
一五三四年「国王至上法」が議会を通過し、王みずから「イギリス教会の地上における唯一最高の首長」となった。
これがイギリスの宗教改革であるが、それはルターやカルバンの改革のような新しい信仰内容をもたらしたものではなく、これまでイギリスの教会を支配していた権力、つまり教皇権を、ほかの権力、すなわち王権にかえたという点に特色がある。
またそれはこうした政治性とともに、経済的意味をももっていたが、それは一五三六年から四〇年にかけて、ヘンリーが多くの修道院を解散させ、その財産を収奪して国庫財政を豊かにした点にあらわれている。
ヘンリー八世はたいへん派手好みで、浪費では人後に落ちなかったし、そのうえ好戦的で戦費もかさみ、したがって王室財政は悪化していた。
そこで王は修道院がその堕落や特権のため、当時イギリス国民に評判が悪くなっていたところを利用したのだ。
「陛下を、キリスト教国の王さまのなかでいちばんのお金持ちにしてさしあげましょう。
修道院の財産を没収するのですな」
と王を喜ばせたトマス・クロムウェルは、全国の修道院を調査して、財産没収の口実をさがしだすとともに、多くのスパイを全国にばらまき、私語さえも記録させ、ひそかな反対や非難でもさがしだして、これを弾圧した。
彼のもとにイギリスでは一種の恐怖政治が行なわれ、エラスムスはそのありさまを評していった。
「イギリスでは、人びとはサソリがあらゆる石の下にひそんでいるような感じをもった。」
トマス・クロムウェルは小柄でがっちりした男であった。
顔つきはみにくく、目は半分閉じていて、なにを考えているのか、わからなかった。
ヘンリー八世は彼を軽蔑しながらも、有能なので利用した。
しかしのちにクロムウェルは王の怒りにふれて、死刑にされてしまった。
ところでイギリスの国民は成りあがり者で高慢なアンをきらい、貞淑なキャサリンに同情していたので、王の離婚そのものには賛成ではなかった。
しかしローマの離婚反対は国民感情を刺激し、すでに国民のなかに生じていた反教皇、反教会の気持ちを強めるにいたった。
そして金にこまっているヘンリーは、没収した修道院財産を、都市や農村の新興ブルジョワなどに売りとばした。
そこで彼らはこの宗教改革や王権の支持者となった。
こうしてイギリス宗教改革は、一種のナショナリズムを背景としていたといえよう。
ヘンリー八世の勝利のかげで、静かに「祈りと針仕事」に余生を送っていたキャサリンは、一五三六年一月、五十一歳で病死した。
彼女の地位を奪ったアン・ブリンは、この年五月彼女よりもはるかに不幸な死をとげた。
専制君主とは、なんという気まぐれな存在であろうか。男子を生まなかったアンに対する王の愛情は急速に失われ、彼女は姦通などの罪状で逮捕、処刑されてしまったのだ。
結婚のとき一役買ったクランマー大司教は、こんどは無効だと宣言した――
「それは魔力によって誘惑されたものであるから。」
ヘンリー八世の女性遍歴はその後もつづき、アンの刑死後一週間もたたないうちにジェーン・シーモアと結婚、彼女は平凡な女性だったが、待望の男子エドワードを生んだ。
一五三七年シーモアは病死し、その後一五四〇年ドイツのクレーフェ公ヨハンの娘アンが王妃となったが、数ヵ月で離婚された。
離婚後二ヵ月目に迎えられたという五番目の王妃キャサリン・ハワードも、四二年姦通罪で処刑され、その翌年結婚した六番目のキャサリン・パーにいたって、ようやく王妃の座も安定した。
一五四七年一月の王の死まで、美しく、教養があり、温和な六番目のキャサリンは、この専制王にかなりの影響をさえ与えたのである……。
それはともかく、このイギリス宗教改革がトマス・モアの運命を決したのだ。
