『文芸復興の時代 世界の歴史7』社会思想社、1974年
2 航海王という名の王子――ポルトガル夜話――
2 セウタ(イスラム海賊の本拠地)攻略
エンリケの父ジュアン一世の政治家としての立場は、はじめけっして楽でなかった。
彼は王族とはいえ、妾腹でポルトガルの大貴族たちからは内心軽んじられていた。
王室財政は戦争のため極度に悪化しており、ごたぶんにもれず、貨幣改鋳による利益に頼らねばならなかった。
リスボンの繁栄はめざましく、商人たちはたしかに新しい王家を支持していたが、封建領主としての王家は商人から上手に多くの税を吸い上げる習慣がなかった。
もともと封建領主は地主であり、農業から収入をあげるのがたてまえである。
しかしたとえば一三四五年王家が発見したカナリア諸島の場合、これはジェノバ商人への課税という独占的利益をもたらした。
ジュアン一世としては何かすばらしい騎士的な征服事業をやってのけ、その実績のうえに商業――流通関係を王家の独占にうつすことが望ましかった。
またポルトガルの農村は戦乱と領主たちの誅求(ちゅうきゅう=租税などの厳しい取りたて)で疲れはてており、貴族たちも、とくに若い層は征服の夢を追っていた。
そしてジュアン一世の若い王子たちはその急先鋒であった。
十五世紀にはいってから、北アフリカのイスラム世界は内乱状態になった。
そしてイスラム海賊の根拠地が、モロッコのセウタ(地中海入口のジブラルタル海峡の北アフリカ側)に移った。
セウタはアフリカのジブラルタルともいわれる要港で、二十世紀のスペイン内乱(一九三六~二九)のときも、反乱軍のフランコ将軍が作戦基地にしたところである。
海賊都市といっても、それはキリスト教徒の側からのことで、イスラム側からみればキリスト教徒が海賊という間柄である。
しかし盛大になったセウタの海賊は、キリスト教徒の船や南ヨーロッパの沿岸を襲撃し、そうでなくても、セウタに近づくキリスト教国の船に重税を課した。
セウタは真鍮器具製造、金、象牙、奴隷の取り引きがさかんで、近東から西アフリカにかけてのイスラム文化交流の一大中心をなしていた。
ポルトガルの公式の歴史において、このセウタヘの遠征計画のきまったようすが、こまかく書き残されている。
三人の王子が二十歳、十九歳、十七歳に達し、彼らを騎士にとりたてる儀式(馬上試合や大宴会をふくむ)を行なう計画がたてられた。
これがヨーロッパ中に招待状をばらまく大計画にふくれ上がり、費用の目算がたたなくなり、むしろ、模擬戦より実戦でセウタの攻略を考えたほうが、三王子に真に騎士的な手柄の機会と名誉をあたえ、また実益もあるのではないかということになった。
西ヨーロッパは多くの商品を用意することができるようになっていた。
フランスの武器、オランダ地方の毛織物、ジェノバの船、コルドバやポルトガルの皮革などを売って、アジアの絹や香料を買うと都合がよかったのだが、イスラム商人は黄金を要求した。
黄金こそは王家のもっとも欲しいものであった。
つぎにセウタの富は、イベリア半島南部に残存するグラナダのイスラム勢力をも支える力であり、セウタ攻略は、国土回復運動に寄与する十字軍活動という性格を当然もつべきであった。
ちょうど一四一四年に開かれたコンスタンツの公会議――宗教会議――(一四一八年まで)は、ヨーロッパの政治情勢にとり重要な意味をもっていた。
そもそも近代的な意味での国際会議は一六四八年、三十年戦争を終結させたウェストファリアの諸会議にはじまる。
十六世紀以前にあっては、公会議こそが国際会議の意味をもつ。コンスタンツの会議はそれまでの教会大分裂(一三七八~一四一七)(ローマと南フランスのアビニヨンに二人の教皇がいた)に終止符を打ち、教会の権威を回復するという希望をもたせた。
セウタの占領は新しい統一教皇により確固たる十字軍行為と認定され、王家の利益は保証されるであろうと期待された。
一四一四年九月二十六日付と一四一五年一月二十六日付のイギリス王ヘンリー五世(在位一四一三~二二)からの手紙には、合計八百の兵力をさし向けて協力するとある。
ポルトガル国内の募兵と船集めには、王子たちが超人的な協力をした。
若干の国外の騎士たちも参加した。準備は三年間にわたり、なにごとかが起こるという感じをかくすことは不可能であった。
とくにリスボンの造船は昼夜ぶっとおしでさかんであり、ジュアン一世は大艦隊をネーデルラント(オランダ)にむけるという噂(うわさ)を流し、オランダの外交官と組んで八百長(やおちょう)芝居の喧嘩をやったということが伝えられている。
一四一五年七月、準備ができたとき、船二百、人員五万(うち戦士二万)であったとされる。
以上はだいたい宮廷の歴史家の記述によるものだが、不自然な点があり、秘密が完全に保たれたとは考えにくい。
あっさりと「リスボン商人の要求に応じてセウタ攻略………」と要約している歴史家もいる。
七月十九日、フィリパは王子たちを激励しつつ病死した。
その六日後船団は出発し、八月二十日セウタ沖あいに集結、二十一日に上陸を開始した。上陸を予知していたイスラム軍が、一度はポルトガル軍を撃退したというイスラム側の記述と、まったくの奇襲で抵抗が数時間ですんだとするポルトガル側の記述が、矛盾するのはしかたのないことである。
エンリケ王子は城内に一番乗りし、他の王子たちもこれにつづいた。
同日夜までに酔ったような殺戮(さくりく)と掠奪(りゃくだつ)がつづき、三王子は価値ある男、名誉ある騎士としての働きを十二分に示した。
八月二十五日、三王子を騎士にとりたてる儀式が、イスラム寺院で行なわれた。
この場合の騎士はカバレイルスとよばれる大貴族を意味し、イギリスふうのナイト(地方名望家、小貴族)とも、イベリア半島一般のイダルゴとか、フィダルゴとよばれる小貴族的騎士(誇張すればドン・キホーテのタイプ)とはひとまず別種のものである。
三王子はポルトガルとしては最初の、イギリス王族ふうのデューク(公)として所領を与えられた。
セウタ攻略は、その掠奪の利益と三王子の武勇をふくめて、ヨーロッパで大評判になった。
ポルトガル軍は九月には早くも引き揚げ、わずかの守備隊を残すだけとなったが、ジブラルタル海峡の制海権は逆転し、ポルトガル海軍がイスラム船に対して海賊行為に出るようになった。
この遠征の経済的効果は、近視眼的に見るとむしろマイナスであった。
セウタの防衛には費用が多くかかり、またここにくる商人も激減したからである。
しかしセウタは北アフリカ全体についてのニュースの窓であった。
この征服じたいは、単純な掠奪行為以上の意味をあまりもたなかった。
にもかかわらずこの征服をきっかけにして、ポルトガルの海外発展がはじまったという事実に、世界史的なのっぴきのならぬ意味が与えられる。
三王子の武勇が高く評価され、教皇、神聖ローマ皇帝、イギリス王、カスティリャ王から傭兵隊長としての招きがあり、第二王子のペドロが一時実際にハンガリー王に仕えたりしたことは、こんにちでは忘れられている。
2 航海王という名の王子――ポルトガル夜話――
2 セウタ(イスラム海賊の本拠地)攻略
エンリケの父ジュアン一世の政治家としての立場は、はじめけっして楽でなかった。
彼は王族とはいえ、妾腹でポルトガルの大貴族たちからは内心軽んじられていた。
王室財政は戦争のため極度に悪化しており、ごたぶんにもれず、貨幣改鋳による利益に頼らねばならなかった。
リスボンの繁栄はめざましく、商人たちはたしかに新しい王家を支持していたが、封建領主としての王家は商人から上手に多くの税を吸い上げる習慣がなかった。
もともと封建領主は地主であり、農業から収入をあげるのがたてまえである。
しかしたとえば一三四五年王家が発見したカナリア諸島の場合、これはジェノバ商人への課税という独占的利益をもたらした。
ジュアン一世としては何かすばらしい騎士的な征服事業をやってのけ、その実績のうえに商業――流通関係を王家の独占にうつすことが望ましかった。
またポルトガルの農村は戦乱と領主たちの誅求(ちゅうきゅう=租税などの厳しい取りたて)で疲れはてており、貴族たちも、とくに若い層は征服の夢を追っていた。
そしてジュアン一世の若い王子たちはその急先鋒であった。
十五世紀にはいってから、北アフリカのイスラム世界は内乱状態になった。
そしてイスラム海賊の根拠地が、モロッコのセウタ(地中海入口のジブラルタル海峡の北アフリカ側)に移った。
セウタはアフリカのジブラルタルともいわれる要港で、二十世紀のスペイン内乱(一九三六~二九)のときも、反乱軍のフランコ将軍が作戦基地にしたところである。
海賊都市といっても、それはキリスト教徒の側からのことで、イスラム側からみればキリスト教徒が海賊という間柄である。
しかし盛大になったセウタの海賊は、キリスト教徒の船や南ヨーロッパの沿岸を襲撃し、そうでなくても、セウタに近づくキリスト教国の船に重税を課した。
セウタは真鍮器具製造、金、象牙、奴隷の取り引きがさかんで、近東から西アフリカにかけてのイスラム文化交流の一大中心をなしていた。
ポルトガルの公式の歴史において、このセウタヘの遠征計画のきまったようすが、こまかく書き残されている。
三人の王子が二十歳、十九歳、十七歳に達し、彼らを騎士にとりたてる儀式(馬上試合や大宴会をふくむ)を行なう計画がたてられた。
これがヨーロッパ中に招待状をばらまく大計画にふくれ上がり、費用の目算がたたなくなり、むしろ、模擬戦より実戦でセウタの攻略を考えたほうが、三王子に真に騎士的な手柄の機会と名誉をあたえ、また実益もあるのではないかということになった。
西ヨーロッパは多くの商品を用意することができるようになっていた。
フランスの武器、オランダ地方の毛織物、ジェノバの船、コルドバやポルトガルの皮革などを売って、アジアの絹や香料を買うと都合がよかったのだが、イスラム商人は黄金を要求した。
黄金こそは王家のもっとも欲しいものであった。
つぎにセウタの富は、イベリア半島南部に残存するグラナダのイスラム勢力をも支える力であり、セウタ攻略は、国土回復運動に寄与する十字軍活動という性格を当然もつべきであった。
ちょうど一四一四年に開かれたコンスタンツの公会議――宗教会議――(一四一八年まで)は、ヨーロッパの政治情勢にとり重要な意味をもっていた。
そもそも近代的な意味での国際会議は一六四八年、三十年戦争を終結させたウェストファリアの諸会議にはじまる。
十六世紀以前にあっては、公会議こそが国際会議の意味をもつ。コンスタンツの会議はそれまでの教会大分裂(一三七八~一四一七)(ローマと南フランスのアビニヨンに二人の教皇がいた)に終止符を打ち、教会の権威を回復するという希望をもたせた。
セウタの占領は新しい統一教皇により確固たる十字軍行為と認定され、王家の利益は保証されるであろうと期待された。
一四一四年九月二十六日付と一四一五年一月二十六日付のイギリス王ヘンリー五世(在位一四一三~二二)からの手紙には、合計八百の兵力をさし向けて協力するとある。
ポルトガル国内の募兵と船集めには、王子たちが超人的な協力をした。
若干の国外の騎士たちも参加した。準備は三年間にわたり、なにごとかが起こるという感じをかくすことは不可能であった。
とくにリスボンの造船は昼夜ぶっとおしでさかんであり、ジュアン一世は大艦隊をネーデルラント(オランダ)にむけるという噂(うわさ)を流し、オランダの外交官と組んで八百長(やおちょう)芝居の喧嘩をやったということが伝えられている。
一四一五年七月、準備ができたとき、船二百、人員五万(うち戦士二万)であったとされる。
以上はだいたい宮廷の歴史家の記述によるものだが、不自然な点があり、秘密が完全に保たれたとは考えにくい。
あっさりと「リスボン商人の要求に応じてセウタ攻略………」と要約している歴史家もいる。
七月十九日、フィリパは王子たちを激励しつつ病死した。
その六日後船団は出発し、八月二十日セウタ沖あいに集結、二十一日に上陸を開始した。上陸を予知していたイスラム軍が、一度はポルトガル軍を撃退したというイスラム側の記述と、まったくの奇襲で抵抗が数時間ですんだとするポルトガル側の記述が、矛盾するのはしかたのないことである。
エンリケ王子は城内に一番乗りし、他の王子たちもこれにつづいた。
同日夜までに酔ったような殺戮(さくりく)と掠奪(りゃくだつ)がつづき、三王子は価値ある男、名誉ある騎士としての働きを十二分に示した。
八月二十五日、三王子を騎士にとりたてる儀式が、イスラム寺院で行なわれた。
この場合の騎士はカバレイルスとよばれる大貴族を意味し、イギリスふうのナイト(地方名望家、小貴族)とも、イベリア半島一般のイダルゴとか、フィダルゴとよばれる小貴族的騎士(誇張すればドン・キホーテのタイプ)とはひとまず別種のものである。
三王子はポルトガルとしては最初の、イギリス王族ふうのデューク(公)として所領を与えられた。
セウタ攻略は、その掠奪の利益と三王子の武勇をふくめて、ヨーロッパで大評判になった。
ポルトガル軍は九月には早くも引き揚げ、わずかの守備隊を残すだけとなったが、ジブラルタル海峡の制海権は逆転し、ポルトガル海軍がイスラム船に対して海賊行為に出るようになった。
この遠征の経済的効果は、近視眼的に見るとむしろマイナスであった。
セウタの防衛には費用が多くかかり、またここにくる商人も激減したからである。
しかしセウタは北アフリカ全体についてのニュースの窓であった。
この征服じたいは、単純な掠奪行為以上の意味をあまりもたなかった。
にもかかわらずこの征服をきっかけにして、ポルトガルの海外発展がはじまったという事実に、世界史的なのっぴきのならぬ意味が与えられる。
三王子の武勇が高く評価され、教皇、神聖ローマ皇帝、イギリス王、カスティリャ王から傭兵隊長としての招きがあり、第二王子のペドロが一時実際にハンガリー王に仕えたりしたことは、こんにちでは忘れられている。