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5-10-2 パニック

2023-05-17 01:42:05 | 世界史
『中世ヨーロッパ 世界の歴史5』社会思想社、1974年
10 黒い死――恐怖のペスト
2 パニック

 考えてもみるがいい、四人のうちひとりが死ぬのだ。
 きのうまで元気だった身内のものが、きょうは全身膿(う)みただれて、土間のわらの上にころがってもがき苦しみ、翌日は黒ずんだ屍(しかばね)となって葬られるのだ。
 黒い死の不安が、町に村にひろがった。
 相手の正体のはっきりしている敵ならば、まだしも身を守るすべもある。
 だが、このようにみえない敵が相手では、人々はただ恐怖に脅えるほかなかった。
 悪魔の仕業だという発想はすぐに出てくる。
 また、神の怒りではないかとの畏れの念も、当時の人々にはごく自然だった。
 だから、芳香を放つアロエという薬用植物を大量に燃やしてみたりした。悪魔が空気を汚しているのだと考えたからである。
 聖体を護持して練り歩く行列が、さかんに町の通りを往来した。
 人々は神へのとりなしを、ありとあらゆる聖者に祈願した。
 実際、このときから十五、十六世紀にかけて、じつに多くの聖者がペスト治癒の責任をおしつけられる破目におちいったのである。
 聖セパススティアヌス、聖ロクス、聖アエギディウス、聖アントニウス、聖クリストフォルス、聖バレンティヌス、聖ハドリアヌス等々と、かぞえていけばきりがない。
 これら諸聖者のうち、へんないいかただが、いわば身に覚えがあったのは、聖ロクスだけなのである。
 彼は、一三二七年に死んだラングドック出身の聖者で、イタリアでベストの治癒にあたったことで知られている。
 こんなに集中的に多くの症例を観察できる機会があたえられたというのに、病気の正体がわからなかったとはなんということだろう。
 屍体のそばにねずみがちょろちょろしていたでもあろうに、ねずみのことは、ぜんぜん考えなかったとはなんということだろう。そう非難したくもなる。だが、その非難は不当であろう。
 多くの症例を覬察して、そこからひとつの結論をひき出すというのは、これは近代医学の方法論なのである。
 近代以前にそれを要求するのは、いわばないものねだりにほかならない。
 だいいち、当時の医学も、そう捨てたものではなかった。
 これが伝染性の疾患であるという認識はたしかにあり、その認識のうえに立って、当時の医学は、清潔と隔離を勧告している。
 ただ、この場合、信仰が制約になった。
 だから、市や縁日の催しを禁止しながら行列は許すとか、女への口づけはやめさせるが、聖遺物箱への口づけはこれを奨励するといった中途半端な処方箋(しょほうせん)が出されたのである。
 また、隔離の勧告は、なにをなにから隔離すべきかという的確な認識を欠いた。
 だから、よその人々に対しては市門を閉ざすが、門のすきまからもぐりこむねずみには、なんら関心をはらわないという結果に終わってしまったのであった。
 病人がでると、人々は病人を家の中に閉じこめ、戸口を厳重に釘づけにしてしまった。
 たとえ、病人もろとも悪魔を閉じこめてしまうのがねらいだと考えられていたにせよ、これも隔離のひとつの方法であったにはちがいない。
 死人がでた家は焼きはらった。
 まだ生きている瀕死(ひんし)の病人を焼いてしまったこともままあったとはいえ、たしかに、これも清潔の勧告の実践であったといえよう。
 事実、十七世紀のロンドンの大流行が鎮静したのは大火があったためだと考えられているのである。
 とはいえ、やはりこれはあまりにもむごい話しである。
 だが、愛する肉親もろともわが家を焼く炎を、悪魔を焼く炎とみて、聖者への祈願をこめながらふるえて立ちつくす人々の足もとを、ねずみどもが走りぬけはしなかったろうか。
 襟もとにモゾモゾはいまわる蚤どもがうるさいと、無意識のうちに指の爪で押しつぶしはしなかったろうか。
 翌日には、その彼らが、炎に焼いた肉親の苦しみを、われとわが身に知るのであった。
 「逃げよう!」それが合言葉になった。
 人々は、争って、まだ死神が立ちまわっていないといううわさの土地へ向かって逃げだした。
 白布で手足や顔をすっぽりおおい、妻子をひきつれた人びとの群れが、路上をゆきかった。
 彼らは東ときいて東に向かい、西ときいては、いまきた道をふたたびもどるのだった。
 フィレンツェのとある教会でたまたま知りあった若い女性七人と男性三人が、このおそるべき疫病の魔手からのがれようと、たがいに語らって、郊外の山紫水明の地の山荘に避難し、つれづれのなぐさめにもと、日々交代にテーマを出しあい、それぞれそのテーマにしたがって思いつくままに物語り、こうして一日に十話、十日に百話の物語集ができた、というのが、ボッカチオの『デカメロン』(百物語)の大筋である。
 だから、これもまた、ペストから逃げるという、当時の人々の追いつめられた果(は)ての行動の文学における表現であった。
 それにしては、なんとも風雅の趣(おもむき)の勝った話しではないか。
 これは、いってみれば、特権階級の余裕のあるふるまいであった。
 当時フィレンツェに住んでいたボッカチオ自身が、どのようにしてペストの魔手からのがれたのか、そのことについての証言はまったく残されていない。
 あるいは、『デカメロン』の幸福な十人の若者の行動は、かれ自身の経験の文学的変奏であったのかもしれぬ。
 その点はなんともいえない。
 だが、ともかく、ポッカチオもふくめて、当時の人々全員が逃げたのだった。
 逃げずに、まともに死神に立ち向かったものは、すべて敗北したのである。
 だから逃げなければならなかった。
 そして、十人の若者のような逃げかたのできたのは、これはやはりごく一部の人々にかぎられていたであろう。
 民衆の絶対多数は、ついに逃げきれずに、悲惨な死の待ちかまえるわなにかかったのである。
 このごく一部の人々のうちに、司祭や修道院長など、一般に高位聖職者が入っていた。
 これは、やはり悲しむべきことであるにちがいない。
 キリスト教会の蝶番(ちょうつがい=カルド)、すなわちローマ教会の番人である枢機卿(カルディナル)たちさえも、当時アヴィニョンにあったローマ教皇庁から、教皇クレメンス六世を見捨てて、さっさと逃げだしてしまったのである。
 民衆が修道院に保護をもとめても、修道院はかたく門戸を閉ざしていた。
 もっとも、なかの連中が全滅していたというケースもあったのである。
 瀕死(ひんし)の病人が、いまわのきわに罪の懺悔(ざんげ)をと司祭をもとめても、司祭は、すでに村にはいなかった。
 むろん、真に聖職者の名に値するものが、まったくいなかったわけではない。
たとえば、教皇クレメンス六世だが、彼は、この難句に教皇の座にあって、よく教会の人心指導の原則を守りとおした。彼は、後述する鞭打ち苦行の実修を信仰の誤りと判断し、これを異端として禁じた。
 この判断は正しかった。鞭打ち苦行は、この恐るべき災害のもたらした、いわば精神の破産の表現にほかならなかったのである。
 また教皇は、この疫病の流行はユダヤ人の仕業だとして、各地に展開されたユダヤ人迫害の動きを禁止し、ローマ教会領内に逃げこんだユダヤ人を保護している。これもまた、正しい判断、適切な処置であって、聖職者階層は、教皇クレメンス六世によって、からくも、その名誉をたもつことができたというべきであろう。
 鞭打ち苦行とユダヤ人狩り! じつにこのふたつの現象こそ、黒い死の跳梁(ちょうりょう)にうちのめされた当時の人びとの精神状況を、端的にあらわすものであったといえよう。
 病魔の荒れ狂う南フランス、南西ドイツ、ライン川流域、フランドル、ネーデルラント等々の各地に、十字架と革鞭を手に、讃美歌を歌いながら歩く、半裸の人々の群れが横行した。
 彼らは、日に二度、町の広場や村の辻々で、背中や胸の素肌を鞭打った。


教皇クレメンス六世

 さすがに、女性は人目のつかぬところにかくれて、これをやったという。
 鞭にはいくつもの結び目があり、そこには、鋭くとがった鉄片が仕込まれてあった。
 皮が裂け、血のしたたりおちるその凄惨な光景をみまもる周囲の人垣から突然とびだして、衣服をかなぐりすて、なにかに憑(つ)かれたように、鞭を手にする者がぞくぞくと出たという。
 彼らは、自分自身を罪あるものとして責めさいなみ、神の怒りをなだめようとしたのだった。
 自己懲罰を目的とするこの種の鞭打ち苦行は、じつはすでに十三世紀なかば以降、イタリア人にはおなじみのものであった。
 もともと苦行者の精神修養の手段としての鞭打ち行は、古く、初期キリスト教会の時代から知られていた。
 だが、十三世紀なかば以降にみられたそれは、はなはだしい教会の世俗化、聖職者階層の腐敗堕落に対する批判の動きとして出てきたものだと理解されている。
 だから、疫病大流行という危機にさいして、この運動がヨーロッパ一円にひろまったのは、きわめて当然のなりゆきであった。
 いったい、教会はなにをしているのか、聖職者たのむに足らず、といった気分が、彼ら鞭打ち苦行者たちの心の片隅あったにちがいない。
 彼らは、教会から離れ、聖職者を介さずに、直接、いわば神と交渉し、神の怒りをなだめ、世の中を平和にもどそうと考えていたのである。
 教会にとって、これは重大な脅威であった。
 教皇クレメンス六世は、これを異端の動きとして禁止し、フランス国王フィリップ六世は、彼らがフランス国内にはいることを禁じた。
 だが、教皇は、その教書に署名しながら、「それでは、いったい、教会は、民衆になにをしてやることができるのか」と、むなしい気分におそわれたにちがいない。
 鞭打ち苦行と同様、ユダヤ人狩りもまた、この時期に突発的にでてきた現象ではなかった。
 近々一世紀のあいだをとってみても、一二八八年には北フランスのトロワで十三人のユダヤ人が焼き殺された。
 一三九〇年には、ユダヤ人がイングランドから追放された。
 一三九八年にはドイツのニュールンベルクのユダヤ人村落が消滅した。
 一三〇六年には、フランスから追放された。
 一三二八年には、イベリア半鳥のナバール王国で集団虐殺がみられた。
 一三三〇年代には、ドイツのアルザス、シュバーベン、フランケンで迫害された。
 当時、一般のキリスト教徒のユダヤ人観は、フランス王ルイ九世聖王の言葉につくされているとよくいわれる。
 聖王ルイは、こういったという。
 「ユダヤ人とは議論すべきではない。剣を用いずして、ユダヤ教徒にキリスト教徒の法を守らせることはできない。ぐずぐずいったら、その腹にぐさっと剣をつきさせ」と。
 聖王ルイが、イスラム教徒に対する十字軍行で名高いキリスト教徒の名君であったことを想いおこすべきであろう。
 この言葉は、キリスト教に内在した非寛容の精神の端的な表現であった。
 異教に対する非寛容の精神が、重大な危機にあって節度を失うとき、そこに、この時期におけるユダヤ教徒の大量虐殺という事件が起きたのである。
 災厄の原因を、天体の配置や魔法使いの呪文にもとめる精神風土なのだった。
 ユダヤ人どもが泉や井戸に毒を入れたから死人がたくさん出るのだといううわさは、容易に人々の信ずるところとなった。
 ナルボンヌ、カルカソンヌ等、南フランスの諸都市、イベリア半島、ライン川流域の諸地方のユダヤ人たちが民衆に襲われ、あるいは焼き殺され、あるいはなぐり殺された。
 教皇クレメンス六世は、暴徒に警告を発して、アヴィニョンの教皇領に逃げこんだユダヤ人を保護した。
 イタリアのローマ教会領、および北イタリア諸地方は、ユダヤ人に対して比較的寛容であった。
 そのためユダヤ人たちは、アルプスを越えてイタリアに逃げこんだ。
 また、当時ポーランド王国は、ユダヤ人の移住をむしろ欸迎していた。
 このとき、ポーランドに大量移住したユダヤ人たちが、近世のロシア、ポーランドのユダヤ人たちの先祖ということになったのである。


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