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6-12-3 イスラムの富商

2023-08-15 01:48:16 | 世界史
『宋朝とモンゴル 世界の歴史6』社会思想社、1974年
12 元朝の支配
3 イスラムの富商

 キリスト教の教会は「十字寺」とよばれた。
 教勢がさかんになるにつれて、十字寺は大都や泉州だけでなく、杭州にも、鎮江(いまの南京の北方)にも、建てられてゆく。
 いうまでもなく、これらは元朝から公認されたものであった。
 元朝にあっては、ひとりの殉教者もなかったのである。

 西方から伝来した宗教としては、イスラム教があった。
 すでに唐代の初期から、イスラム教は伝えられている。
 唐末から宋代になると、イスラム商人は海路によって、しきりに江南の港に往来し、貿易をいとなんだ。
 南宋がモンゴルに圧迫されながらも、あれほど持ちこたえたのは、貿易活動に課した関税の収入が、莫大な額にのぼっていたためでもあった。
 元代には、陸路による東西の交通もさかんになったから、ペルシア人やアラブ人の渡来することも、すこぶる多い。
 彼らはおおむねイスラム教徒であった。
 そして、彼らの住みついたところには、イスラム寺院が建てられた。
 イスラム寺院は「礼拝堂」、または「回回(フイフイ)寺」とよばれた。
 回とは、がんらい回鶻(ウイグル)のことで、ウイグル人がイスラム教徒となったことから、中国ではイスラムのことを「回教」とよんだものである。
 さて、イスラムの「礼拝寺」では、五つのことを教えたという。
 それはイスラム教徒がまもるべき五つの信条にほかならなかった。
 五条とは、誠・礼・斎・済・遊である。誠とは、「物の終始」、すなわち唯一神アッラーの信仰にほかならない。
 礼とは「天理の節文、人事の儀則」で、一日に五回以上、祈祷し礼拝することである。
 つぎの斎とは「斎戒沐浴(さいかいもくよく)」のことで、信者は一日に何回も水をあびるほか、一年のうちイスラム暦の九月(ラマダーン)には、一ヵ月の断食をおこなわねばならない。
 済とは「その不足を補い、その不給を助ける」、すなわち神のために喜捨(きしゃ)することである。
 そして遊とは「西域にいたり、もって上天に格享する」、すなわち聖地メッカへの巡礼である。
 イスラム教徒は「豕(ぶた)肉を食べず、婚姻や喪葬も中国とは流儀がちがっていた。
 そして経典を誦し、斎を持し、清浄を重んじた。経典はみな蕃書であり、壁に面して礼拝し、仏像は立てない。
 ただ法号を発して、神祇(しんぎ)を祝賛するのみであった。」
 こうしたイスラム教徒がもっとも多く帰住したのは、やはり、宋代以来の貿易港である、杭州であり、広州であり、そして泉州であった。
 杭州は「キンザイ」とよばれた。
 南宋の都(臨安)がおかれたところであり、仮の都(行在=あんざい)という称呼が、なまったのであった。
 広州は「カンフウ」とよばれた。これは広府からきている。
 泉州は「ザイトン」とよばれた。ここには五代のころ、城壁のまわりに刺桐(しとう=ハリギリ)が植えつけられ、よって刺桐城ともよばれるようになる。
 この刺桐を、西方の人々が「ザイトン」と発音したわけであった。

 ところで泉州の港の繁栄について、マルコ・ポーロはつぎのように語っている。
 「ザイトンの港には、あらゆるインドの船がはいってきて、香料そのほかの高価な商品をはこんでくる。
 そしてマンジ(江南地方をさす=南宗の旧領)の諸地方の商人たちも、この港にあつまってくる。……
 ここからは、あらゆる商品がマンジの各地に送られてゆく。
 キリスト教国の需要をみたすために、アレクサンドリアそのほかの港に、胡椒(こしょう)船一隻が入港するのに対して、ザイトンの港には百隻、あるいはそれ以上の胡椒船がはいってくると言えよう。
 この港は、世界における二貿易港のひとつである。」(もう一つが、どこであるか不明)

 この泉州に、巨大な財産と勢力をもった商人がいた。
 蒲寿庚(ぼじゅこう)という、アラブ人であった。
 その蒲という姓も、アラブ人の名乗りに多い "Abu" の音をあらわしたもの、と考えられる。
 もっとも蒲寿庚とて、初めから富豪だったわけではない。
 出世のきっかけとなったのは、泉州に押しよせてきた海賊を、兄といっしょに撃退したことであった。
 そこで宋朝からみとめられ、泉州の提挙市舶(ていきょしはく)に任ぜられた。十三世紀なかばのことである。
 提挙市舶は、貿易に関するいっさいの事務をつかさどる。
 輸出入品を検査したり、関税を徴収したり、ことごとくその職掌であった。
 そこで、すこぶる役得が多い。貿易業者から多分の心づけを受けるばかりではない。
 はこんできた品を、むりに安価で買いうけて、転売する者さえあった。
 むかしから貿易に関係する役人は蓄財するものと、きまっていた。
 こうした役目を、蒲寿庚は三十年もつとめたのである。みずからの手で、海外貿易をいとなんだとも思われる。
 富裕になったのも、当然であった。
 おりから宋朝は亡国の淵(ふち)に立った。モンゴル軍の攻撃によって、首都の杭州(臨安)がおちいったのである(一二七六)。
 宋の遺臣たちは、帝室の一族を奉じて南方へのがれ、蒲寿庚をたよった。
 しかし蒲寿庚は動かなかった。
 敗残の宋軍は、軍費をまかなうも思うにまかせぬ。
 ついに蒲寿庚がにぎっていた船舶や資産を、強制的に徴発した。
 蒲寿庚は怒った。元軍に投降してしまった。
 かねてから元軍は、蒲寿庚の力を知って、投降をすすめていたのである。
 海に弱い元軍としては、海軍にあかるい蒲寿庚を味方につけることが、江南の平定にはどうしても必要であった。
 これを裏がえせば、蒲寿庚が元にくみしたことは、宋軍にとって無上の打撃となる。
 あくる年(一二七七)、宋軍の一隊(張世傑)が蒲寿庚を攻めた。
 ところで泉州には、宋室の一族がたくさん住んでいる。
 蒲寿庚は、これら趙氏の人々を、いっきょに殺してしまった。
 そして泉州を固守する一方、元軍の来援をもとめた。
 やがて元軍がくる。宋軍はしりぞいた。
 宋朝が完全にほろび去るのは、それから一年半のちのことである(一二七九)。
 こうして蒲寿庚は、元の江南平定のために大功を立てた。
 よって元も高い位官(福建の左丞=正二位)をさずけて、あつく遇する。
 さらに世祖フビライは、外国との貿易が、きわめて収益の大きいものであることに着目していた。
 貿易をいとなませるということになれば、蒲寿庚のような人物は、もっとも適任である。
 ここでも蒲寿庚は、フビライの命令をうけて、大いに活躍した。
 海外との貿易は再開され、元朝の一代を通じて、泉州をはじめ江南の諸港は、マルコ・ボーロが語ったように、大いに栄えたのであった。
 日本への遠征にあたって、やはり蒲寿庚は、江南における造船の一部分を受けもっている。
 このように蒲寿庚は、元朝に忠勤をはげんで重用された。
 一族の人たちも、その財力と権力によって、大いに勢力をふるった。
 しかし世間からは、すこぶる嫌われた。泉州の人たちは、蒲氏とまじわりをむすばなかったという。
 九十年にして元朝はほろび、明(みん)朝の天下となる。明の太祖(朱元璋)は、蒲氏一族の仕官を禁じた。
 彼らが元朝の威勢をかりて、おもうままにふるまってきたことに対し、報復したのであった。
 蒲氏の社会的地位は、いっきょに下落した。
 こうして蒲氏はしだいに衰え、ついに世間からわすれられるに及んだのである。
 蒲寿庚はアラブ人であった。したがってイスラム教徒であった。
 その一代には大きな活躍をしめしたにもかかわらず、後世には、その経歴も、血統すらも、知られなくなってしまった。
 その人を、わずかな記録の断片から発掘し、その生涯を浮きぼりにしたのは、桑原隲蔵(じつぞう)の名著『蒲寿庚の事蹟』である。




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