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6-5-1 外圧と内争

2023-06-23 09:34:58 | 世界史
『宋朝とモンゴル 世界の歴史6』社会思想社、1974年
5 外圧と内争
1 北宋の軍隊
 宋が建国したとき、北にも南にも、独立の国があった。
 分裂の時代は、なおつづいていた。
 しかし、すでに後周の世宗が南唐を攻め、領土を割譲させてからは、中原の王朝と周辺の国とでは力の差がはっきりしていた。
 もはや統一は、時問の問題であった。
 まず太祖は、荊南(けいなん)をほろぼす(九六三)。
 ついで後蜀をほろぼし、南へ兵をすすめて、南漢をほろぽした(九七一)。
 のこったのは、南方においてもっとも強力な南唐である。
 南唐は、江南の豊かな地を占め、産業が発達し、文化も発展していた。
 纏足(てんそく)の風習も、この国からおこったといわれている。その南唐も、九七五年には宋の軍門にくたった。
 ところで、これらの征戦に、太祖はいちども出かけていない。
 すべて配下の将軍にまかせた。
 後周の世宗が、みじかい治世のあいだに五回も親征したのとは、対照的であった。
 太祖が外征よりも、内政を充実することに重点をおいていたことにもよるであろう。
 しかし、あえて親征しなくとも、もはや成功することは目に見えていたのであった。
 ただ契丹をうしろだてとしている北漢には、みずから出陣した。世宗とおなじく、都の太原まで包囲したが、やはり征服するまでにはいたらなかった。
 よって統一のしごとは、つぎの太宗にのこされる。


 太宗は即位すると、その三年目に呉越をほろぼす(九七八)。
 ついで翌年には、北漢に親征して、ついにこれをほろぼした(九七九)。
 ここに分裂の時代は、ようやく終わりを告げ、中国の全土は宋朝のもとに統一されたのであった。
 しかし北辺の燕雲(えんうん)十六州は、依然として契丹の領有するところである。
 太宗は北漢をほろぼした勢いに乗じて、北伐の軍をすすめた。
 しかし契丹軍のために、みじめな敗北におわった。
 燕雲十六州をとりもどす望みは、またしても夢と消えた。
 宋朝の軍隊は、その兵力の量にもかかわらず、北方民族に対してはけっして強いとはいえなかった。
 このような征戦のあいたに、宋朝における兵員の数は、ふえる一方であった。
 太祖のときには三十七万八千であった軍隊が、太宗のときになると六十六万六千となり、三代目の真宗のときは九十一万二千、そして四代目の仁宗になると、ついに百万を突破して、百二十六万をかぞえるにいたった。
 もっとも、そのなかで戦闘部隊としての禁軍は、およそ半分である。
 のこりの半分は、廂軍(しょうぐん)とよばれて、土木工作などにたずさわる部隊であった。
 それも仁宗のころになると、禁軍がおよそ三分の二を占めるようになっている。
 こうした兵員はいわゆる傭兵(ようへい)であった。
 つまり国から給与をもらって、それで家族をやしなっていたのである。
 そのころの戸数をみると、太祖のときには約三百十万戸、真宗のときには八百七十万戸、そして仁宗のときには一千二百五十万戸ばかりが登録されている。
 したがって十戸たらずが兵士ひとりと、その家族をやしたっていた計算になるであろう。
 ところで宋朝では、民衆を「主戸(しゅこ)」と「客戸(きゃくこ)」にわけていた。
 主戸とは、もとから土地に住みついたものである。
 客戸とは、生活ができなくなって他郷にゆき、そこで生計をたてているもので、多くは佃戸(でんこ=小作農)傭われ人などであった。
 そこで両税をはじめ、ほとんどの負担は主戸にかけられている。
 そして宋朝の戸口調査では、三割を上まわる数が客戸となっていたから、実際には六戸たらずの主戸が、兵士ひとりと家族をやしたっていたのであった。
 したがって厖大(ぼうだい)な数の軍隊は、敗政を圧迫したばかりか、ともすれば主戸の生活をおびやかした。
 主戸こそは、さまざまの国家負担を提供するものとして、宋朝が存立してゆくうえに主柱となるべき存在だったのである。
 それなのに宋朝は、なぜこれほどの兵員をかかえていたのであろうか。
 租税や労役などの負担が重いと、農民は生活ができなくなり、土地をすてて流民と化する。
 そうした人たちは、ほうっておくと反乱の主体ともなりかねない。
 これを未然にふせぐため、兵員として吸収した。戦闘要員でもない廂軍は、はじめは藩鎮の軍団から戦力をうばうためにつくられた。
 しかも藩鎮が解体してからのちも、なお総兵員のなかで高い比率を占めている。
 それというのも、失業救済の意味をもっていたからであった。
 こうした国内の事情とともに、国外の事情がある。宋朝は、建国のときから、中国の統一に力をもちいるだけでなく、周辺からの攻撃にも対処しなければならなかった。
 北方には、契丹がいる。おりをみては、中国の内地に侵入してこようとしている。
 さらに西北には、あらたにチベット系のタングート族がおこり、やがて西夏を建国するにいたる。
 北と西北からの攻撃に、宋朝は対処しなければならなくなったのであった。





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