『宋朝とモンゴル 世界の歴史6』社会思想社、1974年
5 外圧と内争
1 北宋の軍隊
宋が建国したとき、北にも南にも、独立の国があった。
分裂の時代は、なおつづいていた。
しかし、すでに後周の世宗が南唐を攻め、領土を割譲させてからは、中原の王朝と周辺の国とでは力の差がはっきりしていた。
もはや統一は、時問の問題であった。
まず太祖は、荊南(けいなん)をほろぼす(九六三)。
ついで後蜀をほろぼし、南へ兵をすすめて、南漢をほろぽした(九七一)。
のこったのは、南方においてもっとも強力な南唐である。
南唐は、江南の豊かな地を占め、産業が発達し、文化も発展していた。
纏足(てんそく)の風習も、この国からおこったといわれている。その南唐も、九七五年には宋の軍門にくたった。
ところで、これらの征戦に、太祖はいちども出かけていない。
すべて配下の将軍にまかせた。
後周の世宗が、みじかい治世のあいだに五回も親征したのとは、対照的であった。
太祖が外征よりも、内政を充実することに重点をおいていたことにもよるであろう。
しかし、あえて親征しなくとも、もはや成功することは目に見えていたのであった。
ただ契丹をうしろだてとしている北漢には、みずから出陣した。世宗とおなじく、都の太原まで包囲したが、やはり征服するまでにはいたらなかった。
よって統一のしごとは、つぎの太宗にのこされる。
太宗は即位すると、その三年目に呉越をほろぼす(九七八)。
ついで翌年には、北漢に親征して、ついにこれをほろぼした(九七九)。
ここに分裂の時代は、ようやく終わりを告げ、中国の全土は宋朝のもとに統一されたのであった。
しかし北辺の燕雲(えんうん)十六州は、依然として契丹の領有するところである。
太宗は北漢をほろぼした勢いに乗じて、北伐の軍をすすめた。
しかし契丹軍のために、みじめな敗北におわった。
燕雲十六州をとりもどす望みは、またしても夢と消えた。
宋朝の軍隊は、その兵力の量にもかかわらず、北方民族に対してはけっして強いとはいえなかった。
このような征戦のあいたに、宋朝における兵員の数は、ふえる一方であった。
太祖のときには三十七万八千であった軍隊が、太宗のときになると六十六万六千となり、三代目の真宗のときは九十一万二千、そして四代目の仁宗になると、ついに百万を突破して、百二十六万をかぞえるにいたった。
もっとも、そのなかで戦闘部隊としての禁軍は、およそ半分である。
のこりの半分は、廂軍(しょうぐん)とよばれて、土木工作などにたずさわる部隊であった。
それも仁宗のころになると、禁軍がおよそ三分の二を占めるようになっている。
こうした兵員はいわゆる傭兵(ようへい)であった。
つまり国から給与をもらって、それで家族をやしなっていたのである。
そのころの戸数をみると、太祖のときには約三百十万戸、真宗のときには八百七十万戸、そして仁宗のときには一千二百五十万戸ばかりが登録されている。
したがって十戸たらずが兵士ひとりと、その家族をやしたっていた計算になるであろう。
ところで宋朝では、民衆を「主戸(しゅこ)」と「客戸(きゃくこ)」にわけていた。
主戸とは、もとから土地に住みついたものである。
客戸とは、生活ができなくなって他郷にゆき、そこで生計をたてているもので、多くは佃戸(でんこ=小作農)傭われ人などであった。
そこで両税をはじめ、ほとんどの負担は主戸にかけられている。
そして宋朝の戸口調査では、三割を上まわる数が客戸となっていたから、実際には六戸たらずの主戸が、兵士ひとりと家族をやしたっていたのであった。
したがって厖大(ぼうだい)な数の軍隊は、敗政を圧迫したばかりか、ともすれば主戸の生活をおびやかした。
主戸こそは、さまざまの国家負担を提供するものとして、宋朝が存立してゆくうえに主柱となるべき存在だったのである。
それなのに宋朝は、なぜこれほどの兵員をかかえていたのであろうか。
租税や労役などの負担が重いと、農民は生活ができなくなり、土地をすてて流民と化する。
そうした人たちは、ほうっておくと反乱の主体ともなりかねない。
これを未然にふせぐため、兵員として吸収した。戦闘要員でもない廂軍は、はじめは藩鎮の軍団から戦力をうばうためにつくられた。
しかも藩鎮が解体してからのちも、なお総兵員のなかで高い比率を占めている。
それというのも、失業救済の意味をもっていたからであった。
こうした国内の事情とともに、国外の事情がある。宋朝は、建国のときから、中国の統一に力をもちいるだけでなく、周辺からの攻撃にも対処しなければならなかった。
北方には、契丹がいる。おりをみては、中国の内地に侵入してこようとしている。
さらに西北には、あらたにチベット系のタングート族がおこり、やがて西夏を建国するにいたる。
北と西北からの攻撃に、宋朝は対処しなければならなくなったのであった。
5 外圧と内争
1 北宋の軍隊
宋が建国したとき、北にも南にも、独立の国があった。
分裂の時代は、なおつづいていた。
しかし、すでに後周の世宗が南唐を攻め、領土を割譲させてからは、中原の王朝と周辺の国とでは力の差がはっきりしていた。
もはや統一は、時問の問題であった。
まず太祖は、荊南(けいなん)をほろぼす(九六三)。
ついで後蜀をほろぼし、南へ兵をすすめて、南漢をほろぽした(九七一)。
のこったのは、南方においてもっとも強力な南唐である。
南唐は、江南の豊かな地を占め、産業が発達し、文化も発展していた。
纏足(てんそく)の風習も、この国からおこったといわれている。その南唐も、九七五年には宋の軍門にくたった。
ところで、これらの征戦に、太祖はいちども出かけていない。
すべて配下の将軍にまかせた。
後周の世宗が、みじかい治世のあいだに五回も親征したのとは、対照的であった。
太祖が外征よりも、内政を充実することに重点をおいていたことにもよるであろう。
しかし、あえて親征しなくとも、もはや成功することは目に見えていたのであった。
ただ契丹をうしろだてとしている北漢には、みずから出陣した。世宗とおなじく、都の太原まで包囲したが、やはり征服するまでにはいたらなかった。
よって統一のしごとは、つぎの太宗にのこされる。
太宗は即位すると、その三年目に呉越をほろぼす(九七八)。
ついで翌年には、北漢に親征して、ついにこれをほろぼした(九七九)。
ここに分裂の時代は、ようやく終わりを告げ、中国の全土は宋朝のもとに統一されたのであった。
しかし北辺の燕雲(えんうん)十六州は、依然として契丹の領有するところである。
太宗は北漢をほろぼした勢いに乗じて、北伐の軍をすすめた。
しかし契丹軍のために、みじめな敗北におわった。
燕雲十六州をとりもどす望みは、またしても夢と消えた。
宋朝の軍隊は、その兵力の量にもかかわらず、北方民族に対してはけっして強いとはいえなかった。
このような征戦のあいたに、宋朝における兵員の数は、ふえる一方であった。
太祖のときには三十七万八千であった軍隊が、太宗のときになると六十六万六千となり、三代目の真宗のときは九十一万二千、そして四代目の仁宗になると、ついに百万を突破して、百二十六万をかぞえるにいたった。
もっとも、そのなかで戦闘部隊としての禁軍は、およそ半分である。
のこりの半分は、廂軍(しょうぐん)とよばれて、土木工作などにたずさわる部隊であった。
それも仁宗のころになると、禁軍がおよそ三分の二を占めるようになっている。
こうした兵員はいわゆる傭兵(ようへい)であった。
つまり国から給与をもらって、それで家族をやしなっていたのである。
そのころの戸数をみると、太祖のときには約三百十万戸、真宗のときには八百七十万戸、そして仁宗のときには一千二百五十万戸ばかりが登録されている。
したがって十戸たらずが兵士ひとりと、その家族をやしたっていた計算になるであろう。
ところで宋朝では、民衆を「主戸(しゅこ)」と「客戸(きゃくこ)」にわけていた。
主戸とは、もとから土地に住みついたものである。
客戸とは、生活ができなくなって他郷にゆき、そこで生計をたてているもので、多くは佃戸(でんこ=小作農)傭われ人などであった。
そこで両税をはじめ、ほとんどの負担は主戸にかけられている。
そして宋朝の戸口調査では、三割を上まわる数が客戸となっていたから、実際には六戸たらずの主戸が、兵士ひとりと家族をやしたっていたのであった。
したがって厖大(ぼうだい)な数の軍隊は、敗政を圧迫したばかりか、ともすれば主戸の生活をおびやかした。
主戸こそは、さまざまの国家負担を提供するものとして、宋朝が存立してゆくうえに主柱となるべき存在だったのである。
それなのに宋朝は、なぜこれほどの兵員をかかえていたのであろうか。
租税や労役などの負担が重いと、農民は生活ができなくなり、土地をすてて流民と化する。
そうした人たちは、ほうっておくと反乱の主体ともなりかねない。
これを未然にふせぐため、兵員として吸収した。戦闘要員でもない廂軍は、はじめは藩鎮の軍団から戦力をうばうためにつくられた。
しかも藩鎮が解体してからのちも、なお総兵員のなかで高い比率を占めている。
それというのも、失業救済の意味をもっていたからであった。
こうした国内の事情とともに、国外の事情がある。宋朝は、建国のときから、中国の統一に力をもちいるだけでなく、周辺からの攻撃にも対処しなければならなかった。
北方には、契丹がいる。おりをみては、中国の内地に侵入してこようとしている。
さらに西北には、あらたにチベット系のタングート族がおこり、やがて西夏を建国するにいたる。
北と西北からの攻撃に、宋朝は対処しなければならなくなったのであった。