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『文芸復興の時代 世界の歴史7』社会思想社、1974年
4 フイレンツェの支配者――イタリア・ルネサンスの片影Ⅰ――
2 メディチ家の出現
フィレンツェではすでに一三〇〇年代に初期ルネサンス文化が発達し、『神曲』の詩聖ダンテ(一二六五~一三二一)、古典学者で詩人のペトラルカ(一三〇四~七四)、『デカメロン』の作で有名なボッカチオ(一三一三~七五)、近世イタリア絵画の祖といわれるジョットー(一二六六ごろ~一三三七)などがあらわれている。
『神曲』は、ダンテが古代ローマの詩人ベルギリウス(バージル)に案内されて、まず地獄・煉獄(れんごく)におもむき、さらに若くして世を去った恋人ベアトリーチェにみちびかれて天国を遍歴するという一大叙事詩である。
そこにはなんといっても中世思想の色が濃いが、新しい時代のめばえともいうべき個性的なものもうかがわれる。
そして中世の言葉であるラテン語ではなく、イタリア語で書かれていることは、近代国民文学の第一歩といわれる。
そこでダンテはイタリア統一をめざした彼の理想とあいまって、国家統一運動の象徴となっていった。
ペトラルカはラテン古文献に通じ、ギリシア・ヘブライ語研究にも手をつけた。
広く旅行し、「自然」への興味から登山を試み、アルピニストの先祖と考えられている。
そのイタリア語の『詩集』は、彼の「永遠の女性」ともいうべき美女ラウラに対する恋愛抒情詩集で、多くの詩人にとって模範となった。
ダンテの時代、フィレンツェではまた教皇派と皇帝派との政争がおこり、詩人もこれにまきこまれた。
そしてダンテはこの都市から追われたままで、「水清きアルノにのぞむ美しい花の都フィレンツェ」を慕いつつ、生涯を終え、『神曲』も流浪のあいだに書かれたものである。
一方、商工業市民たちは教皇派として、皇帝派である貴族勢力をおさえたが、こんどは市民たちのなかに「あぶらぎった大市民(ボポロ・グラッソ)」と「貧しい小市民(ポポロ・ミヌート)」との対立が生じた。
そして前者はしだいに後者をおさえ、一部の大市民が市政の実権をにぎるようになったが、これにつれて伝統的な市民皆兵制――自治都市を全市民の責任で守るという原則にたっていた――もくずれ、大市民の利益に奉仕する傭兵(ようへい)制が登場してきた。
一三七八年、下層民は羊毛業の職人である梳毛工(そもうこう=チオッピ)を中心に、付近の農民の一揆(いつき)に応じて、大市民の支配に反抗して立ちあがった。
しかしこの反乱の一時的な勝利、一種の人民政府のあっけない失敗ののち、はげしい弾圧と迫害のうちに、富裕な市民たちの支配が確立してしまった。
自治体として共和制の形式はとられているが、市政は富裕な市民からなる同業組合(織物業や金融業など)の代表によって動かされたのである。
このフィレンツェの金持ちのなかで、古くからの名家をしのいで、頭角(とうかく)をあらわしてきたのがメディチ家であった。メディチ家の先祖は、フィレンツェの北方の田舎の農民で、田地を売りはらい、ひともうけしようと町に出てきたものらしい。
その紋章のなかの赤い玉は薬屋の丸薬をしめすとか、金融関係の職業のならわしによったものだなどといわれている。
メディチ家の名が史上にあらわれるのはサルベストロ(?~一三八八)のときであるが、彼は「チオンピの乱」に加わって小市民たちを指導し、追放されたようである。
しかしこのため、のちのちまでメディチ家は民衆の味方だと考えられるようになり、またメディチの方でもこうした姿勢をとって、民衆の支持をえようとつとめた。
サルベストロののち、ジョバンニ・デ・メディチ(一三六〇~一四二九)にいたって、この一門の基礎は固められた。
彼は政務にたずさわったこともあったが、一方では商業や銀行業に専念しつつ財をきずいた。
メディチ家の銀行は十四世紀末に設立されたといわれるが、ジョバンニは十五世紀には一流の金融家となり、教皇庁を得意先にしていた。ジョバンニは頑丈で、浅黒い顔、田舎の地主のような風采(ふうさい)だが、インテリジェンスに富み、またおどけた一面もあった。
彼は公的には緊急の際に気前よく市当局に金を贈送したし、私的にはだれに対しても腰がひくく、親切であった。
持参金がなくて相手を見つけられない娘たちに、結婚の世話をしたりして、人気をえたこともある。
しかしむろん商人特有のぬけ目なさをそなえていたとみえ、金持ちの市民たちに新しい不動産税が課せられたとき、彼はいち早く不動産をすっかり換金していて、まったく損をしなかったこともあったという。
なおこのジョバンニの時代の画家マサッチオ(一四〇一~二八)は、二十七歳の若さで世を去ったが、美しい姿態、生気のある表情、自然な動作をもった人体像をもって、近代絵画の基礎となる写実主義をきり開いた。
また彼は遠近法の使用に精通したルネサンス最初の画家ともいわれる。
彼の急な死は、その才能をねたんだ者による毒殺ではないか、という噂をよんだほどであった。
一四二九年、ジョバンニに優(まさ)るとも劣らぬ才を持ったコジモ(一三八九~一四六四)が、四十歳をこした男ざかりでメディチ家の当主となり、親がふみ固めた道を慎重に歩んでいった。
一四三三年、政敵アルビッツィ家によって追放の憂き日を見たが、人気と財力を持つコジモは自信をもってこれにしたがった。はたして翌年、情勢の変化は彼をよび帰し、同時に権力を用意する。
彼自身は政府首席ともいうべき公的な地位についたのは短いあいだであるが、自分の意のままになる人びとを重要な地位につけ、実質的には一四六四年に世を去るまで三十年間、フィレンツェの政権はコジモ・デ・メディチににぎられたのである。
かつてある教皇がコジモについて語った。
「平和も戦争も法律も思うままにできる男、王という名だけが欠けている。」
まさに彼こそ、「無冠の帝王」であろうか。
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