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5-10-3 死の舞踏

2023-05-18 00:27:23 | 世界史
『中世ヨーロッパ 世界の歴史5』社会思想社、1974年
10 黒い死――恐怖のペスト
3 死の舞踏

 ロワールの本流の最上流オーベルニュ山地の南に、十一世紀に創建された古い修道院ラ・シェーズ・デュー(意味は「神の家」)がある。
 この修道院は、教皇クレメンス六世に関係のふかい修道院で、ゴシック様式による宏壮な付属教会堂が、教皇のきもいりで、一三四四年に着工され、黒死病の時期をへて、一三五二年に完成された。
 教皇の遺体は、ここに安置された黒大理石作りの石棺のなかに眠っている。
 一世紀おいて、一四六〇年代、教会堂内陣の壁に「死の舞踏」と呼ばれるフレスコ画がえがかれた。
 これは未完に終わったが、かえってそれだけに、「死の舞踏」というテーマのもつ凄みがよく感じとれると批評する人もいる。
 おそらく、教皇クレメンス六世と、このフレスコ画とのあいだには、直接のつながりはあるまい。
 だが、黒死病と「死の舞踏」とのあいだには、深い照応関係がある。
 教皇クレメンス六世を媒介項として、この両者がこの南フランスの「神の家」、ラ・シェーズ・デュー修道院においてつながっているという感じなのである。
 「死の舞踏」は、死者が生者につきまとう情景をえがいた絵である。
 なかば骸骨化した死者が、ダンスのステップをふむような足どりで、教皇を、皇帝を、貴族、修道士、日傭(ひやとい)人夫、幼児、白痴(はくち)を、その職業身分を問わずあらゆる人々を、こっちへこいといざない連れてゆく。
 この死の絵姿は死神ではない。手をひかれている生者それぞれの、未来の姿なのだ。
 生きている人間のおそるべき分身なのだ。
 「死の舞踏」図の前に立つとき、人々は、そこに自分自身の死の姿をみたのであった。
 当時、パリで、いちばん人気のあった墓地、イノッサン墓地の回廊の壁にも「死の舞踏」図がえがかれていた。
 このほうが、ラ・シェーズ・デューのそれよりも、ずっとポピュラーであった。
 この壁画は、一四二四年にえがかれたものだが、のち、十七世紀に回廊がとりこわされてしまったので、いまはもうこれをみるよしもない。
 だが、十五世紀の後半にパリの出版業者ギュヨ・マルジャンが、これをモデルにした木版画集『死の舞踏』を出版しているので、そのおもかげをしのぶことはできる。

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 イノッサン墓地は、当時、パリの人々の遊歩場の観を呈していた。
 市民たちはそぞろ歩きを楽しみ、商人が納骨堂のわきに店を出していた。そして民衆説教師の説教がひんぱんに行なわれていた。
 ひそかな楽しみを味わいたいとのぞむ若者も、ここにくれば用がたりた。
 墓地の三方をとりかこむ回廊の薄暗がりには、いかがわしい女たちがたむろしていたのである。
 その回廊の壁には「死の舞踏」図がえがかれ、回廊上部の納骨棚には、しゃれこうべの山が積みあげられていたのである。


ギュヨ・マルジャンの『死の舞踏』

 この墓地には埋葬希望者がはなはだ多く、ある期間たつと、骨は掘りだされ、墓石は処分されてしまうきまりであった。
 土にかえるいとまのなかった頭蓋骨、その他のかたい骨の処理に回廊が利用されたのである。
 市民の遊歩場の舞台装置としては、なんともうすきみのわるい光景ではないか。
 イノッサン墓地そのものが、十四、五世紀のヨーロッパの人々の精神状況をよく写しだす一幅の絵だった。
 日常の生活意識に、死のイメージがよくなじんでいた。
 「死の舞踏」図にえがかれているように、死者は、すぐまじかにいるのだった。
 おもいだしてもらいたい。
 イノッサン墓地に「死の舞踏」図のえがかれた年、一四二四年の数年前、パリはペストとおもねれる疫病の大流行にみまわれていたのだ。
 「黒死病」は一三四八年一回かぎりの経験ではなかった。
 「黒死病」は死の大饗宴であった。そして、死は、その後もなお、いじきたなく宴卓にしがみついていたのである。
 「死の舞踏」と同種のテーマに「三人の死者と三人の生者」がある。
 三人の若い貴人が三人の死者に会う。
 死者は若者たちに、かつては貴顕の座にあったこの世での前身を語り、遠からぬ先に、彼ら若者たちを待ちうけている死のことを教える、という骨子のテーマで、これは、すでに十三世紀以降、物語文学の分野でよく知られたテーマであった。
 これが、十四世紀後半以降、造型美術の分野にも知られるようになった。
 イノッサン墓地の付属教会堂入口の浮き彫りにもこのテーマがみられたというが、これは現在、残されていない。
 イタリアのピサのカンボ・サント修道院のフレスコ壁画にえがかれたものが、このテーマの表現された最古の例ということになっている。
 また、そのフレスコ画にも端的に表現されているように、肉体腐敗の図というのも、この時代、とくに好んで造型美術にとりあげられたテーマであった。
 手足は、けいれんしたように硬直し、口をぽっかりとあけ、むきだしの内臓には、うじ虫がからみあっている。
 そんなおぞましい死体のありさまが、じつにリアルに、墓石とか石棺の蓋(ふた)とかに彫りこまれた。
 あるいは、写本の飾り絵にえがかれ、木版画に刷られて、人々の好みにこたえたのだ。
 なぜ、そんなに死におびえ、肉体の腐敗にこだわったのだろうか。
 あまりにも現世的な死への関心ではないだろうか。
 なぜ、さらに一歩すすめて、腐敗それじたいも、また、過ぎゆく現象であり、腐りはてた肉体もいつかは土となり、花とも姿を変えると観じることはしなかったのだろうか。
 だが、こうした批判はさしひかえよう。「黒死病」以後、中世末期とは、そういう時代であった。
 「死の舞踏」のテーマは、はじめは舞台で上演されたものだという説がある。
 町の広場に設けられた木組みの上の片台で、仮装した死者が踊りくるう。そんな光景をながめ、墓地に足をのばしては、墓石に彫りこまれた肉体腐敗のさまのおぞましさに戦慄(せんりつ)する。
 いや、戦慄感をさえ、おぼえないほど死に対してなれっこになっていたのかもしれない。
 死に、いわばなれ親しんでいた時代、それが中世末期であった。





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