『文明のあけぼの 世界の歴史1』社会思想社、1974年
7-3 インダス文明の謎
インダス文明が知られるきっかけになったのは、象形文字らしいものを刻んだ印章のようなものがみつかったためであることは、さきに書いた。
これは「印章のようなもの」と書いたように、いわゆる印章(はんこ)であるかどうかはわからない。
むしろ護符(おまもり)ではないかと考えられる。
それは多く滑石(かっせき)でつくられ、四角であり、表面には牛、象、虎、野牛、犀(さい)などの動物や、想像上のふしぎな動物、神像らしいもの、また図案化された樹木などの図が彫りこまれている。
それらの動物類は単純化されているが、なかなか写実的で、巧妙である。
この印章のようなものに、象形文字が刻まれている。象形文字は全部で三百九十六個知られているが、いままでのところ、このインダス文字は解読されておらず、どういう系統の言葉を表わしているものかもわからない。
象形文字ではあるが、かなり抽象化もおこなわれており、何を表わしているのかわからないものも多い。
インダス文明人はこれらの印章あるいは護符を、かならず一つずつもっていたのではないかと思われるほどたくさん出土している。
また遠くメソポタミアのウル、キシュ、テル・アスマル、ラガシュなどでいくつかみつかっている。
したがってインダス文明はシュメル文明と、なんらかの関係があったことが知られる。
メソポタミアで発見されたインダスの印章は、インダス文明の年代決定にも役立っている。
インダス文明はまた、ペルシア湾のパーレン諸島とも関係がふかかったことが、これらの島から出土したものによってうかがえる。
しかしメソポタミア南部、パーレン諸島、インダス流域、この三つの地域のあいだの関係が、どのようなものであったかは、今のところまだよくわかっていないのである。
インダス文字を他の地域の同時代の象形文字とくらべたり、それらの関連を考えたり、いろいろに探究されているが、文字の系統も明らかでない。
しかしインダス文字解読のために多くの学者が、ひじょうな苦心をはらっているから、いつかは読み解けるかもしれない。
解読されれば、インダス文明そのものについても、種々のことがわかってくるにちがいない。
しかし、現在のところではインダス文明については、わからない謎がたくさんある。
まず第一に、インダス文明を築いたのはどういう人々であったのだろうか、また今日のインドの住民と彼らはどういう関係にあるのだろうかという謎がある。
インダス文明は、この世紀のはじめまで、ほとんど完全にその存在を忘れられていた。
それは、じつに完全な忘れられようで、他の地の忘れられた文明は、神話や伝説のなかに反映して、かすかな記憶となって残っていた場合もあったが、インダス文明の場合には、伝説すらなかった。
土地の人々に語り伝えられていることすらなかった。
このことは、インダス文明人と、その後のこの地方の住民とのあいだの断絶を表わしているかもしれない。
インダス文明人は、“ろくろ”を使って焼きの堅い陶器をつくることを知っていた。
土器の文様は、多く幾何学文で、赤地に黒で図案を描いたものや、クリームの地に、赤や黒で文様を描いたものがある。
これはこの地方特有のものだが、これらの彩文土器は、インダス文明が、西アジア、南ロシア、バルカン、トルキスタンから中国におよぶ広大な彩文土器文化圏に属していたことを示している。
そしてこの彩文土器文化圏のなかでもとくに、トルキスタンとイランの青銅器時代のはじめごろにつくられた彩文土器と関係が深い。
このことは、インダス都市文明は、パルチスタンからインダス流域にかけて広く存在した原始農村から発展してできたものではなく、外から刺激された結果出現したもの、あるいは外からはいってきた人によってもたらされたものと思われる。
発掘された遺骨からみると、インダス文明人はそうとう混血した人々のようである。
しかし主体をなしていた人々が、どのような系統の人であったかは、遺骨からはわからない。
インダス文明人がどのような人々であったかがわからないことも、彼らの文字の解読を困難にしている。
インダス文明では、また釉薬(うわぐすり)をかけた陶器もつくられている。
釉薬はメソポタミア、エジプトではずっと後のことであり、このこともインダス文明が高度に発達した文明であったことを教えている。
つぎの謎は、この文明はどうして滅びたかということである。
最近までは、インダス川の氾濫によって滅んだと考える学者が多かった。
モヘンジョ・ダロの遺跡は七層をなしているが、その層のなかに、三回の洪水のあとがある。
洪水がでるたびに、町の住民はよそに避難し、水がひくと帰ってきて町を建設しなおしたらしい。
堤防はそのために高さも幅も一二メートルもあるものが築かれている。
しかしとうとう三回目の大洪水で、町は放棄され滅んだのだと考えられていたのである。
しかし最近はモヘンジョ・ダロの滅亡を、外来人による攻撃と考え、それをアーリア人の侵入に帰す学者がでている。
アーリア人がこの地方にはいってきたのは、紀元前一六〇〇年ごろのこととされている。
そしてインダス文明が栄えたのは、さきにも述べたように最近では、紀元前二五〇〇年ごろから千年間ぐらいと考えられているので、アーリア人によるインダス文明破壊説は年代学的には無理がないのである。
またモヘンジョ・ダロのある家屋からは、たくさんの人骨が散乱した状態でみつかっている。
そのうちには、武器による傷跡らしいものがあるものもあった。
そのためこれをアーリア人の侵略による町の破壊・滅亡の証拠と考えるものもある。
このように考えて、西の方パルチスタン方面からはいってきたドラヴィダ人たちがインダス文明をつくり、それがのちに侵入してきたアーリア人によって破壊されたのだ、とする人もいる。
しかし、インダス文明と今日のインドのドラヴィダ人とのあいだにはあまりに断絶があり、この考えかたを支持するにはそうとう困難がある。
またインダス文明の滅亡は、かならずしも征服戦争によってとは断言できない。
あるいは地震だったのかもしれず、疫病や洪水による町の放棄だったかもしれないのである。
さらにもう一つの謎は、インダス都市の性格である。
それはこれらの遺跡には、神殿や宮殿と思われるような建物がないことである。
それらの建物はないが、はじめ述べたように都市のプランは立派であるし、下水その他の衛生設備はととのい、個人の家も立派なものであった。
これらのことから、インダス文明は、他の古代文明とはちがい、高等な市民生活がいとなまれ、王や神のような権威主義的な面が薄いと考えられてきた。
しかしアクロポリス的なものがあり、そこは城砦の役目をしていたが、同時に、公的な役割を果たす場所ともなっていた。
モヘンジョ・ダロの丘部には、用途の不明な、かなり大きな建物の遺跡もあり、また大浴場もあった。
それは一九二五年から二六年にかけて発掘された東西約三三メートル、南北五五メートルほどもある建物で、中央に中庭があり、そこに長さ一二メートル、幅約七メートルの大浴槽があった。
それには南北の両側にある階段によって降りられるようになっていた。
東に井戸があり、その水が浴槽にひかれ、汚水は西から流れだすようになっていた。
西をのぞく三方、ことに東側には小部屋がいくつもならんでいる。
さきに書いたように、ほとんどどの家にも浴室はあった。
それなのにどうして、こんなに立派な大きな公共浴場が必要だったのだろう。
これは、なにかこの町の宗教と関係があったのではなかろうか。
わが国で古来“みそぎ”という宗教的行事があったように、ここでは水浴が宗教的な行事であったのかもしれない。
そして大ぜいで集まって水浴をするお祭りもあったのかもしれない。
大浴場を発掘したマケーも、それがあまりに立派なので、なにか儀式用のものと考えている。
しかし個人の家の浴室にも、この大浴場にも祭壇や、神像はなかった。
しかし彼らはぜんぜん神像をもっていないわけではない。
さきに書いたように、彼らの印章には神像や聖獣などが刻まれていた。
また前述した用途不明の大きな建物からは地母神らしい小立像がいくつも発掘されている。
こうしたことから、インダス文明は宗教性が薄いとは、けっしていいきれない。
神殿も宮殿も、メソポタミアやエジプトなどとはちがった形で存在していたのかもしれない。
したがって神権政治的なものも、なかったとは断言できない。
発掘調査がすすむにつれ、インダス文明の範囲は、意外に広いことが明らかになってきた。
それは、すでに領土国家的なものであったとも考えられる。
アクロポリス的なものがあったことはまえに述べたが、それは城壁をめぐらしていた。
そこには、市民と隔絶した権力者がいて、そういう形で権力を誇示していたのかもしれない。
とにかく今日のところでは、インダス文明の創始者も、滅亡の原因も、その社会組織もよくわからず、謎にみちている。
彼らの文字が解読されれば、謎のいくつかは解明されるだろう。
いまのところでは、明らかなのは、かつてインダス流域に栄えた都市文明が、そうとう高度な異色のものであったということだけである。
7-3 インダス文明の謎
インダス文明が知られるきっかけになったのは、象形文字らしいものを刻んだ印章のようなものがみつかったためであることは、さきに書いた。
これは「印章のようなもの」と書いたように、いわゆる印章(はんこ)であるかどうかはわからない。
むしろ護符(おまもり)ではないかと考えられる。
それは多く滑石(かっせき)でつくられ、四角であり、表面には牛、象、虎、野牛、犀(さい)などの動物や、想像上のふしぎな動物、神像らしいもの、また図案化された樹木などの図が彫りこまれている。
それらの動物類は単純化されているが、なかなか写実的で、巧妙である。
この印章のようなものに、象形文字が刻まれている。象形文字は全部で三百九十六個知られているが、いままでのところ、このインダス文字は解読されておらず、どういう系統の言葉を表わしているものかもわからない。
象形文字ではあるが、かなり抽象化もおこなわれており、何を表わしているのかわからないものも多い。
インダス文明人はこれらの印章あるいは護符を、かならず一つずつもっていたのではないかと思われるほどたくさん出土している。
また遠くメソポタミアのウル、キシュ、テル・アスマル、ラガシュなどでいくつかみつかっている。
したがってインダス文明はシュメル文明と、なんらかの関係があったことが知られる。
メソポタミアで発見されたインダスの印章は、インダス文明の年代決定にも役立っている。
インダス文明はまた、ペルシア湾のパーレン諸島とも関係がふかかったことが、これらの島から出土したものによってうかがえる。
しかしメソポタミア南部、パーレン諸島、インダス流域、この三つの地域のあいだの関係が、どのようなものであったかは、今のところまだよくわかっていないのである。
インダス文字を他の地域の同時代の象形文字とくらべたり、それらの関連を考えたり、いろいろに探究されているが、文字の系統も明らかでない。
しかしインダス文字解読のために多くの学者が、ひじょうな苦心をはらっているから、いつかは読み解けるかもしれない。
解読されれば、インダス文明そのものについても、種々のことがわかってくるにちがいない。
しかし、現在のところではインダス文明については、わからない謎がたくさんある。
まず第一に、インダス文明を築いたのはどういう人々であったのだろうか、また今日のインドの住民と彼らはどういう関係にあるのだろうかという謎がある。
インダス文明は、この世紀のはじめまで、ほとんど完全にその存在を忘れられていた。
それは、じつに完全な忘れられようで、他の地の忘れられた文明は、神話や伝説のなかに反映して、かすかな記憶となって残っていた場合もあったが、インダス文明の場合には、伝説すらなかった。
土地の人々に語り伝えられていることすらなかった。
このことは、インダス文明人と、その後のこの地方の住民とのあいだの断絶を表わしているかもしれない。
インダス文明人は、“ろくろ”を使って焼きの堅い陶器をつくることを知っていた。
土器の文様は、多く幾何学文で、赤地に黒で図案を描いたものや、クリームの地に、赤や黒で文様を描いたものがある。
これはこの地方特有のものだが、これらの彩文土器は、インダス文明が、西アジア、南ロシア、バルカン、トルキスタンから中国におよぶ広大な彩文土器文化圏に属していたことを示している。
そしてこの彩文土器文化圏のなかでもとくに、トルキスタンとイランの青銅器時代のはじめごろにつくられた彩文土器と関係が深い。
このことは、インダス都市文明は、パルチスタンからインダス流域にかけて広く存在した原始農村から発展してできたものではなく、外から刺激された結果出現したもの、あるいは外からはいってきた人によってもたらされたものと思われる。
発掘された遺骨からみると、インダス文明人はそうとう混血した人々のようである。
しかし主体をなしていた人々が、どのような系統の人であったかは、遺骨からはわからない。
インダス文明人がどのような人々であったかがわからないことも、彼らの文字の解読を困難にしている。
インダス文明では、また釉薬(うわぐすり)をかけた陶器もつくられている。
釉薬はメソポタミア、エジプトではずっと後のことであり、このこともインダス文明が高度に発達した文明であったことを教えている。
つぎの謎は、この文明はどうして滅びたかということである。
最近までは、インダス川の氾濫によって滅んだと考える学者が多かった。
モヘンジョ・ダロの遺跡は七層をなしているが、その層のなかに、三回の洪水のあとがある。
洪水がでるたびに、町の住民はよそに避難し、水がひくと帰ってきて町を建設しなおしたらしい。
堤防はそのために高さも幅も一二メートルもあるものが築かれている。
しかしとうとう三回目の大洪水で、町は放棄され滅んだのだと考えられていたのである。
しかし最近はモヘンジョ・ダロの滅亡を、外来人による攻撃と考え、それをアーリア人の侵入に帰す学者がでている。
アーリア人がこの地方にはいってきたのは、紀元前一六〇〇年ごろのこととされている。
そしてインダス文明が栄えたのは、さきにも述べたように最近では、紀元前二五〇〇年ごろから千年間ぐらいと考えられているので、アーリア人によるインダス文明破壊説は年代学的には無理がないのである。
またモヘンジョ・ダロのある家屋からは、たくさんの人骨が散乱した状態でみつかっている。
そのうちには、武器による傷跡らしいものがあるものもあった。
そのためこれをアーリア人の侵略による町の破壊・滅亡の証拠と考えるものもある。
このように考えて、西の方パルチスタン方面からはいってきたドラヴィダ人たちがインダス文明をつくり、それがのちに侵入してきたアーリア人によって破壊されたのだ、とする人もいる。
しかし、インダス文明と今日のインドのドラヴィダ人とのあいだにはあまりに断絶があり、この考えかたを支持するにはそうとう困難がある。
またインダス文明の滅亡は、かならずしも征服戦争によってとは断言できない。
あるいは地震だったのかもしれず、疫病や洪水による町の放棄だったかもしれないのである。
さらにもう一つの謎は、インダス都市の性格である。
それはこれらの遺跡には、神殿や宮殿と思われるような建物がないことである。
それらの建物はないが、はじめ述べたように都市のプランは立派であるし、下水その他の衛生設備はととのい、個人の家も立派なものであった。
これらのことから、インダス文明は、他の古代文明とはちがい、高等な市民生活がいとなまれ、王や神のような権威主義的な面が薄いと考えられてきた。
しかしアクロポリス的なものがあり、そこは城砦の役目をしていたが、同時に、公的な役割を果たす場所ともなっていた。
モヘンジョ・ダロの丘部には、用途の不明な、かなり大きな建物の遺跡もあり、また大浴場もあった。
それは一九二五年から二六年にかけて発掘された東西約三三メートル、南北五五メートルほどもある建物で、中央に中庭があり、そこに長さ一二メートル、幅約七メートルの大浴槽があった。
それには南北の両側にある階段によって降りられるようになっていた。
東に井戸があり、その水が浴槽にひかれ、汚水は西から流れだすようになっていた。
西をのぞく三方、ことに東側には小部屋がいくつもならんでいる。
さきに書いたように、ほとんどどの家にも浴室はあった。
それなのにどうして、こんなに立派な大きな公共浴場が必要だったのだろう。
これは、なにかこの町の宗教と関係があったのではなかろうか。
わが国で古来“みそぎ”という宗教的行事があったように、ここでは水浴が宗教的な行事であったのかもしれない。
そして大ぜいで集まって水浴をするお祭りもあったのかもしれない。
大浴場を発掘したマケーも、それがあまりに立派なので、なにか儀式用のものと考えている。
しかし個人の家の浴室にも、この大浴場にも祭壇や、神像はなかった。
しかし彼らはぜんぜん神像をもっていないわけではない。
さきに書いたように、彼らの印章には神像や聖獣などが刻まれていた。
また前述した用途不明の大きな建物からは地母神らしい小立像がいくつも発掘されている。
こうしたことから、インダス文明は宗教性が薄いとは、けっしていいきれない。
神殿も宮殿も、メソポタミアやエジプトなどとはちがった形で存在していたのかもしれない。
したがって神権政治的なものも、なかったとは断言できない。
発掘調査がすすむにつれ、インダス文明の範囲は、意外に広いことが明らかになってきた。
それは、すでに領土国家的なものであったとも考えられる。
アクロポリス的なものがあったことはまえに述べたが、それは城壁をめぐらしていた。
そこには、市民と隔絶した権力者がいて、そういう形で権力を誇示していたのかもしれない。
とにかく今日のところでは、インダス文明の創始者も、滅亡の原因も、その社会組織もよくわからず、謎にみちている。
彼らの文字が解読されれば、謎のいくつかは解明されるだろう。
いまのところでは、明らかなのは、かつてインダス流域に栄えた都市文明が、そうとう高度な異色のものであったということだけである。