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『救われる人の数の少なさ』2:ポルト・マウリチオの聖レオナルドの説教

2022-11-23 01:28:37 | 地獄(2)
ポルト・マウリチオの聖レオナルドの説教『救われる人の数の少なさ』2

(極端な数字が出てきますが、常にそうなのではなく、たまにそのようになることもある、くらいに理解すると受け入れやすいのではないかと思います。しかし、信じる義務はないにせよ、一度は知り、頭の片隅に入れておいた方がいい説教だとは思いました)

◆4、人生の様々な状態における救い

 しかし、ああ、私は全てをこの方法で一般的に語ることによって私の言いたいことの要点を逃していることに気づきます。ですから、この真理を人々のいろいろな状態に適用しましょう。そうすれば、あなたは、信仰に関する理由付け、経験、そして一般常識となっているところのものをも捨てなければならないことを、あるいはカトリック信者のより多くの人達が滅びに至るだろうことを認めざるを得ないことを、理解するようになるでしょう。

 この世界に、神の代理人である司祭の職位ほど、より高い考えと共にあり、救われることにより近く、魂の清さにおいてより有利だと思われる職位は他にあるでしょうか。 誰か、最初の一瞥において司祭達のほとんどが善いばかりではなく完璧でさえあると思わない人はいるでしょうか。 しかし私は、聖ヒエロニムスが「たとえ世界が司祭で満ちていたとしても、100人の内でかろうじて1人だけが、その地位に相応しい生き方をしているに過ぎない」と言うのを聞く時、あるいは神のしもべが啓示を受けて、毎日地獄に落ちる司祭の数が非常に多いので、彼には地上に誰かが残されることなど不可能に思えた、などと証言するのを聞く時、あるいは聖クリゾストムが泣き叫びながら「私には、多くの司祭達が救われるとは思えない。それどころか、滅ぼされる司祭の数の方が多いとしか思えない」と言うのを聞く時、ゾッとしないではいられません。

 さらに高い所を見ましょう。聖なる教会の高位聖職者達、霊魂達を世話する責任のある司牧者達を見ましょう。彼らの中で、滅ぼされる人達の数より救われる人達の数の方が多いでしょうか。カンタンプレに聞いて下さい。

 彼はあなたに一つの出来事を話します。そしてあなたはそこから結論を導くことができます。

 ある時、パリで教会会議が開かれ、そこに霊魂達を世話する責任のある多くの高位聖職者達と司祭達が参加していました。王や王子もその集会に色を添えるために来ていました。そしてそこには有名な宣教者が説教をするために招かれていましたが、彼が説教の準備をしている時、恐ろしい悪魔が彼に現われて言いました、「お前の本を横に置いておけ。もしお前がこれら王子や高位聖職者どもにためになる説教をしたいのだとしても、お前は彼らにわれわれの陣営のことを語ることで満足しなければならない。『われわれ暗黒の王子達は、王子、高位聖職者、霊魂の牧者、お前達に感謝する。お前達の怠慢によって多くの信者達が地獄に落ちているからだ。またわれわれは、お前達のこの貢献の故に、お前達に渡す報酬を用意している。お前達が地獄でわれわれに会う時のために』」。

 人を指導する立場にあるあなたは災い! もしこれほど多くの人達があなたの誤りによって滅びるなら、あなた自身には何が起こるでしょうか。 もし神の教会の中の一番良い霊魂の人達の中からほんの少数しか救われないなら、あなた自身には何が起こるでしょうか。 全ての階層の人々のことを考えて下さい、男と女、あらゆる状況を。夫、妻、未亡人、若い女性、若い男性、兵士、商人、職人、富める者と貧しき者、貴族と庶民。これら全ての中のとても悪い生き方をしている人達のことで、私達は何を言うべきでしょうか。

 聖ヴィンセンチオ・フェレルが語る次の物語は、あなたがそれについてどう考えられるかを示しています。彼はこう書いています。

 リヨンの助祭長であった人が、その任務を断念し、償いを果すために砂漠に退いた。そして聖ベルナルドが死んだのと同日同時刻に彼も死んだ。その死後、彼は彼の司教に現われ、そして言った、「モンシニョール、どうか知ってください。私が死んだ正にその時に、33000人の人達が死にました。この数の中から、ベルナルドと私が直ぐに天国に行きました。3人が煉獄に行きました。そして他の者は皆地獄に落ちました。」

 私達の年代記は、さらに恐ろしい出来事に言及しています。その学識の高さと聖性でよく知られた私達の兄弟の一人が、ドイツで説教をしていました。彼は肉欲の罪の忌まわしさについてあまりに力強く話したので、ある一人の婦人が悲しみのあまり皆の前で倒れて死んだようになりました。そしてやがて意識の返った彼女は言いました、

「私が神の法廷の前に立った時、地上の世界各地から6万人の人達が到着しました。その数の中から3人の人達が煉獄に行くことによって救われ、残りの全ての人達は滅ぼされました」。

 おお、神の裁きの深淵! 3万人の中から僅か5人が救われました! 6万人の中から僅か3人が天国に行きました! 私の話を聴いている罪人であるあなた方よ、あなた方はご自分がどの分類の中に数えられると思いますか... どうですか... どう思いますか...

 私はあなた方のほとんどが頭を垂れ、驚きと恐れに満たされているのを見ます。しかし、茫然自失するのはやめて、そして自惚れる代わりに、私達の恐れから幾らかの利益を引き出しましょう。天国に至る道には無垢と悔恨の二つの道がある、というのは真理ではないでしょうか。

 さて、もし私が皆さんに、これら二つの道の内のどちらかを選ぶ人がごく少数であることを証明すれば、合理的な人としてあなたは、救われる人はごく僅かであると結論するでしょう。では、証明します。

 人は何歳の時に、どんな職業の中で、あるいはどんな状況の中で、悪人の数が善人の数の百倍どころではないということに気づき、そしてまた一般に「善人は非常に稀で、悪人は非常に多い」と言えることに気づくのでしょうか? 私達は私達の時代についてサルヴィアヌスが彼の時代について言ったと同様に「あらゆる種類の悪行に没頭している無数の罪人達を探すのは、数少ない善人を見つけることより簡単である」と言うことができます。

 果してどれだけの召使いが、完全に正直者で、彼らの義務に忠実でしょうか。 果してどれだけの商人が、彼の商売において公平で公正でしょうか。 果してどれだけの職人が、誠実な仕事をし、信頼が置けますか。 果してどれだけの店員が、公平で、真面目でしょうか。 果してどれだけの法律家が、公明正大さを手放しませんか。 果してどれだけの兵士が、無実を踏みつけにしませんか。 果してどれだけの主人が、彼らに仕える人達の報酬を不当に保留しませんか。 あるいは目下の者を抑圧しようとしませんか? 至る所で、善人は稀であり、悪人はずっと多いのです。

 一体誰が、この時代において、成人男性達の中にこれほどの自由主義思想があることを、若い女性達の中にこれほどの放縦があることを、婦人達の中にこれほどの高慢があることを、貴族達の中にこれほどの放蕩があることを、中産階級にこれほどの腐敗があることを、国民の中にこれほどの得手勝手さがあることを、貧しい人達の中にもこれほどの厚かましさがあることを、知らないでしょうか。 一体誰が、ダヴィドが彼の時代について言ったと同じように「あらゆる者がみな道を踏み外した... 善をなすものは一人もいない。ただの一人もいない」[詩篇14:3] と言えないと思うでしょうか。

 通りと広場に行って下さい。宮殿と家に行って下さい。都市と田園地方に行って下さい。裁判所とその他の法執行機関に行って下さい。そして神の神殿にさえ行って下さい。あなたはどこに美徳を見つけますか。「ああ!」とサルヴィアヌスは叫びます、「悪を避けるごく僅かな人達を除けば、悪の巣窟ではないとしても、キリスト教徒の集会は一体、何なのだろうか」

 至る所で私達が見るのは、これ総て、自己本位、野心、貪欲、そして贅沢です。男達の大部分はみだらな悪癖で汚れていませんか。 聖ヨハネがこう言う時、彼は正しくないですか。「全世界──もしこれほど汚れた何かがそう呼ばれ得るならば──は邪悪さの中に据え付けられている」。

 あなたに語りかけているのは私ではありません。証拠が、あなたに、これほど悪い生き方をしている人々の中からごく僅かな人達しか救われないということを信じるしかないようにさせるのです。

 しかし、あなたは言うでしょう、「償いは有益に無垢の損失を修復することができるのではありませんか」と。私は、それは真実であると認めます。

 しかし私はまた、償いは実際にはあまりに困難なものであり、私達はその習慣をあまりに完全に失っており、そしてまたそれが罪人達にあまりに酷く濫用されているので、それだけでその道を通して救われる人はごく僅かであることをあなたに信じさせるには十分なほどであることを知っています。ああ、なんと急で、狭く、棘だらけで、見るだに恐ろしく、登るに険しい道でしょう! 私達が見る至る所に、血の轍が見え、悲痛な記憶を呼び起こすあれこれが見えます。多くの人は正にその光景だけで弱ります。多くの人は正にその出発点で退きます。多くの人は道半ばにして疲労によって落ちます。そして多くの人は哀れにもとうとう諦めます。その中に死ぬまで踏みとどまる人はどんなに少ないことか!

 聖アンブロシウスは、目的に適った償いをやりおおせた人を見つけるより、無垢を保った人を見つける方がたやすい、と言っています。

 あなたが告解の秘跡を考えるなら、そこにはとても多くの歪められた告白、とても多くの周到な弁解、とても多くの欺瞞的な悔悛、とても多くの間違った約束、とても多くの無益な裁決、とても多くの無効な赦免があります!

 あなたは、誰かが不純な罪を犯したことで自分自身を訴える告解をし、しかもまだその同じ罪を誘引する機会に執着しているのを見る時、その告解を有効なものだと見なしますか? あるいは、誰かが明らかな不正の罪を犯したことで自分自身を訴える告解をし、しかもその罪を償うために何の補償もする気がない時は? あるいは、誰かが告解に行った直後に再び同じ罪に落ちた時は? おお、これほど偉大な秘跡に対する何と恐ろしい濫用であることか! ある人は破門制裁を回避するために告解をし、別の人は悔悛者としての評判を取るために告解をします。ある人は罪悪感から逃れるために自分から罪を取り除こうとし、別の人は羞恥心から罪を隠します。ある人は悪意によって不完全な告解をし、別の人は習慣的に自分の罪をあらわにします。ある人は秘跡の本当の存在目的をわかっていませんし、別の人は必要とされる悲しみを欠いていますし、また別の人は確かな目的感を持っていません。哀れな聴罪司祭達、あなたは数多いる告解者達に、冒涜的な告解を含まぬところの、根拠のない赦免を含まぬところの、幻想的な苦行を含まぬところの正しい決意と行為を運ぶために、どんな努力を傾けていますか?

 今や、救われるキリスト教徒の数は、滅ぼされるキリスト教徒の数より多い、と信ずる人々はどこにいるでしょうか? 彼らは彼らのその意見を根拠付けようとしてこのように言うでしょうか?「大人のカトリック信者の大部分は、教会の秘跡を受けて彼らのベッドの中で死にます。それゆえ、ほとんどの大人のカトリック信者達は救われます。」おお、なんと素晴らしい推理でしょうか!

 しかし、あなたはこれとは全く正反対のことを言わなければなりません。大部分の大人のカトリック信者達は死の床にあって良い告解をしないので、彼らのほとんどは滅ぼされます。私はそれが「一層確かなこと」だと申し上げます。

 なぜならば、元気に生きている時に良い告解をしなかった人というのは、瀕死の床にある時、重苦しい胸、不安定な頭、混乱する精神を抱えて、良い告解をするには更に一層厳しい時を過ごさねばならないからです。その時、彼は様々なものによって邪魔されます。まだ残っている執着によって、まざまざと浮かんでくる情景によって、染み付いた習慣によって、そして結局のところ彼を地獄に投げ込むためにあらゆる手段を探している悪魔達によって、邪魔されます。

 さて、もしあなたがこれら全ての間違った悔悛者達に予期外に罪の中に死んで行く罪人達を加えるなら──医師の無知のために、あるいは身内の人達の間違いのために、あるいは中毒のために、地震に埋められて、脳卒中のために、転落して、戦場で闘いに負けるか罠にかかるかして、雷に打たれて、焼死して、溺死して──これらの人達を加えるなら、あなたは殆どの大人のキリスト教徒が滅ぼされると結論せざるを得ないのではないでしょうか?

 それは聖クリゾストムの推理です。この聖人は、殆どのキリスト教徒はその生涯を通じて地獄への道を辿っている、と言っています。それでは何故、あなたは、地獄に行く人達がそれほど多いことを聞いてそんなに驚くのですか? ドアを開けるためには、そのドアに通じた道を通って行かなければなりません。あなたはこのように力強い推理に対して何と答えなければならないでしょうか?

 あなたが私に与えようとする答えは、神の御憐れみは偉大である、というものです。そうです、神を恐れる人達にとってはその通りです。しかし預言書は言っています、「しかし、神を恐れぬ人達には神の裁きは過酷である。それは全ての頑なな罪人達を有罪と定める」。

 そこで、あなたは私に言うでしょう、「それでは、天国は、もしそれがキリスト教徒のためのものでないとしたら、誰のためのものですか?」と。それはキリスト教徒のためのものです、もちろんです。でも、それは人格を汚さずにキリスト教徒として生きた人達のためのものです。更に、もしあなたが、神の恩寵の中に死を遂げた大人のカトリック信者達の数の中に洗礼を受けた後に死んだり物心つく前に死んだりした無数の子供達を加えるなら、使徒聖ヨハネが救われた人々について「私は、誰も数えられぬほどの無数の人々を見た」[黙示録7:9] と証言するのを聞いても驚かないことでしょう。

 そしてこれは、カトリック信者の中で救われる人々は滅ぼされる人々より多いのだと思いたがる人々を錯覚させているところのものです。もしその数に、無垢の衣を保った大人達、またそれを汚してしまった後で償いの涙でそれを洗った大人達の数を加えれば、救われる人達の数は確かに多いのです。それは聖ヨハネの「私は無数の人々を見た」という言葉を説明するものです。

 また、他の私達の主の御言葉「多くの人々が東からも西からも来て、天の御国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に祝宴の席につくであろう」[マタイ8:11] を説明し、また、この考えに賛成して普通引き合いに出される他の数字をも説明するものです。しかしながら、もしカトリックの大人達のことを言うなら、経験、推理、権威者達の言葉、妥当さ、そして聖書の言葉など全てが、滅ぼされる人々の数は非常に多いということを証明することに同意しています。もちろん、これらのために天国は空っぽであると信じてはなりません。それどころか、それはとても人口の多い王国です。

 もし滅ぼされた人達が「海の砂のように無数」であるとするなら、救われた人達は「空の星のように無数」なのです。つまり、両方とも、その規模は非常に違いますが、数え切れないほど多数であるのです。

 ある日、聖ヨハネ・クリゾストムは、コンスタンチノープルの大聖堂で説教をしていて、この規模のことを考えた時、恐怖によって震えざるを得なくなり、聴衆に問いかけました、「あなた方は、この多くの人々の中からどれだけの人達が救われると思いますか?」。そして彼は答えを待たずに続けました、「このように多い何千人もの人々の中に、私達は救われる人を百人見つけられるかどうかでしょう。しかし、私は百という数さえ疑っています」。

 なんと恐ろしいことでしょうか! この偉大な聖人は、それほど多くの人達の中から救われる人の数はかろうじて百であろうと信じました。そして、なお、彼はその百という数に確信がありませんでした。私の話を聞いているあなたに何が起こりますか? 偉大なる神よ、私はこのことを震えることなしには考えることができません! 兄弟の皆さん、救霊の問題は極めて困難なのです。何故なら、神学者達の格言に従えば、終わりの時が大きな努力を要求する時、その要求に応えられるのはごく僅かの人だからです。

 このような理由から、天使的博士である聖トマスも、彼の巨大な博識の中であらゆる賛否両論を検討した後に、非常に多くのカトリック信者達が滅ぼされるであろうと最終的に結論しています。彼は言います、「永遠の至福は自然的状態を超えるものなので(特に最初の聖寵が奪われてからは)、救われる人の数は少数である」。

 さて、それで、自己愛と一緒になってあなたを盲目にしている目隠しを、あなたの目から取り除いて下さい。それは神の正義に関する非常に間違った考えをあなたに与えることによって、あなたをこれほど明かな真理から遠ざけてきました。私達の主イエズス・キリストは「正しき父よ、この世はあなたを知りません」[ヨハネ17:25] と言いました。彼は「全能の父、最も善く、憐れみ深い父」とは言いませんでした。彼は「正しき父」と言ったのです。

 しかし、天主の全ての御性質の中で、この正義というものほどよく認識されていないものはありません。なぜなら、人々は自分が経験することを恐れているものを信ずることを拒否するものだからです。しかし、あなたの目から覆いを外し、涙と共に言って下さい、「ああ! カトリック信者の多くが、今生きている人達の中から、おそらくこの集会の中にいる人達の中からさえも、多くの人々が滅ぼされるだろう!」と。他のどんな主題が、これよりもあなたの涙に相応しいでしょうか。

 クセルクセス王は、丘の上から戦闘隊形を取っている彼の10万の兵士を見て、彼ら全ての中で100年の人生を生きる者は1人もないだろうことを思って涙を抑えることができませんでした 。しかし、これほど多くのカトリック信者達の中からとても多くの人達が滅ぼされることを考える時、私達は彼以上に泣く理由を持っているのではないでしょうか。 この考えは私達の目を涙で溢れさせる筈ではないでしょうか。

 あるいは少なくともその考えは、アウグスチノ会士である聖ドミニコの尊者マルセルスによって感じられた同情の思いを、私達の心にも運ぶ筈ではありませんか。

 ある日彼が永遠の苦しみについて黙想している時、天主は彼に如何に多くの霊魂がその瞬間にも地獄に落ちているかをお見せになりました。そして、2万2千の神に見捨てられた者達が非常に広い道を互いにぶつかり合いながら深い裂け目に向かって走っている光景をお見せになりました。神のしもべはその光景に麻痺したようになって叫びました、「ああ、なんという数だろう! なんという数だろう! そしてまだ続いている! ああ、イエズス! ああ、イエズス! なんという狂気だろう!」私にエレミアの言葉を繰り返させて下さい、「だれが、私の頭を、水の泉に、私の目を、涙の池に、かえるだろうか。 そうなれば、ひるも、よるも、私は、泣くだろう! 民の娘の、殺されたもののために」[エレミアの書 8:23] 。

 哀れな霊魂達! どのようにしてあなた方は地獄に向かってそれほど急いで走ることができるのでしょうか? どうぞお願いですから立ち止まって、私の話をほんのしばらくの間聞いて下さい! 全永遠に向かって救われるということと滅ぼされるということがどういうことかを、あなたが理解するにせよ、またそうでないにせよ。もし、あなたがそれを理解し、それにも拘らず、今日生き方を変え、良い告解をしてこの世を踏みつけにし、一言で言えば救われる数少ない人々の中に数えられるためにあらゆる努力をしようと決心しないならば、私は言います、あなたは信仰を持っていない人です。もしあなたが理解しないならば、あなたまだ少しは許されます。なぜなら、その時、あなたはどうにかしているのでしょうから。全永遠に向かって救われるということと、全永遠に向かって滅ぼされてしまうことという、取り返しのつかない重大な二つのことがある時に、一方を避け他方を確実なものにするためにあらゆる努力をすることをしないなどということは、全くもって考えられないことです。

(続く)





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