『文芸復興の時代 世界の歴史7』社会思想社、1974年
3 大航海時代
3 マジェランの世界一周
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ポルトガル王家が新領土の保証を、絶えずローマ教皇に求めていたことは前に書いた。
一四八八年バルトロメウ・ディアスが喜望峰を発見した。
その帰路は海岸づたいではなく、北北西にアフリカ大陸後頭部に直航している。
もはや大西洋はポルトガルにとって、使いやすい海となりつつあった。
さらにアフリカ東岸のようすも、陸路の調査とディアスの航海でだいたい見当がついていた。
あとは船の改良など準備をととのえて、アフリカ東岸とインドへの航海に出かければよいと思っているところへ、降ってわいたコロンブスの「インド発見」のショックである。
コロンブスの新世界は一四九三年、教皇アレクサンデル六世によってスペイン領とみとめられた。
どんな認めかたかというと、地球の両極をつなぎ、ベルデ岬とアゾレス諸島のやや西を通過する半円周線を想定して、この線から西をスペイン領、東をポルトガル頷とした。この「教皇子午線」は、翌一四九四年両国代表のトルデシリャスの会談で改訂され、ブラジルを通過することになった。これは史上最初の幾何学的国境線である。
こんにちからみるとばかげた気前のよさで現実性にとぼしいし、また幾何学的な線の実測は技術的に不可能であったが、まだ宗教改革以前のことではあり、教皇のこの決定はひとまずヨーロッパでは有効であった。
ポルトガルがブラジルから大西洋・アフリカ・インド洋・インドネシア、スペインがアメリカ・太平洋・フィリピンという大まかな割り当てになって行く根拠は、このトルデシリャス協定にあり、現在の世界地図にもその痕跡がはっきりと見られる。
わが日本がまだ接触もないのに、ことわりもなくスペイン領に入れられていたり、人口密度も文化程度も高いアジア地域が、あっさりポルトガルに進呈されているトルデシリャス協定は、いわば十字軍的な観念の延長上にあった。
宗教改革以後とくにイギリスとオランダがこの協定に拘束されず、大西洋とインド洋になぐりこみをかけることになる。
これらの攻勢に耐えることのできた地域はアジアだけであり、アメリカ大陸はキリスト教世界になり、アフリカ大陸は奴隷の産地となってまつたく停滞した。
ここで、マジェラン(ポルトガル名マガリャンイス、一四八〇ごろ~一五二一)の世界一周(一五一九~二二)について述べておこう。
トルデシリャス協定による最初の地球の裏側確認の意味があるからである。
マジェランはポルトガル王家の小姓であったが、二十五歳ぐらいに達した一五〇五年から東アフリカやインド洋の航路に勤務し、一五一一年マラッカに達し、香料の産地モルッカ諸島(香料群島=フィリピン南方)探検に関係した。
もしモルッ力諸島に到達していたとすると、マジェラン戦死の地の経線より東にいたことになる。
そこでマジェランその人が若いときから戦死直前までかかって、「世界一周」をなしとげたという説が出てくる。
この説は現在ではあまり支持されないようだが、重要な事実をふくんでいる。
マジェランのいとこにあたる人物がモルッカ諸島に行っており、その情報にもとづいて、マジェランが世界一周というアイディアをもったからである。
スペイン人バルボアは、一五一二年最初に太平洋を見たヨーロッパ人であるが、太平洋の大きさは確認されていなかったし、想像さえされていなかった。
マジェランの知識は、じつはコロンブスと大差がなく、アメリカ大陸の西側の海をすこし航海すれはモルッカ諸島に行けるというものだったのである。
マジェランはこのプランをポルトガル王に採用してもらおうとしたが失敗し、スペインに渡った。
そして神聖ローマ皇帝(カール五世)になったばかりのスペイン王カルロス一世(在位一五一六~五六)から特許を得、一五一九年八月セビリヤの港を出発した。
船は五隻で、旗艦は「トリニダード号」であった。
七五トンから一二〇トンまでの船団で、乗組員は二百七十人ほどであった。
船の速力が異なるので船団の統一にはとくに神経をつかい、マジェランは行く先を秘密にし、旗艦に追尾することだけを命じた。
大きさも速力もちがう船をまとめて航海する点において、マジェランの指揮はすばらしく、強い確信をもってことに当たり、部下を威圧し、心服させた。
船団は十二月十三日、今のリオ・デ・ジャネイロに到着した。
この場所はポルトガル王の領土としてすでに知られていた。
十三日間休んで出帆し、翌一五二〇年一月ラ・プラタ川に着いた。
それまでこの川は海峡と思われており、ここから大陸の西海岸に出られる予定だったが、これが川だとわかった。
しかも陸地は限りなく南極の方向につづいている。
しかしマジェランは絶望しなかった。
彼の一行はさらに南下をつづけ、サン・ブリアンと名づけた港に着いた。
ここまで、寒さ、吹雪、烈風、怒濤(どとう)に苦しめられ、短い距離なのに二ヵ月かかった。
そして、ここで八月二十日まで越冬した。
このあいだに前途の不安から暴動がおこったが、マジェランは断固たる決意と巧妙な作戦でこれを鎬圧し、指導者だけを死刑または追放に処した。
また越冬中一隻が沈没し、船団は四隻になった。
サン・フリアン港でつきあった原住民は、背がおそろしく高く、足が大きかった。
これがパタゴニア(大足)人で、新石器時代に当たる貧しい生活をしていた。
マジェラン(パタゴニア)海峡の発見は簡単でなかった。
サンタ・クルス川で二ヵ月休養し、十月に深く黒い海峡を見つけたが、偵察しながらこれを抜けるのに約一ヵ月かかり、このあいだに一隻は不安にかられて脱走、帰国してしまった。
一五二〇年十一月二十八日、三隻は大きな海に出た。うってかわって天候にめぐまれ、波静かであった。
マジェランみずからが命名したという「太平洋」である。
これから西へ三ヵ月以上の航海であった。
まさかこんな遠いとは――。
それはしかし死の漂流ではなく、目的をもった航海であった。
虫のついた乾パンと腐った水、ついには船具の皮や鋸屑やねずみで生命をつないだ。
歯茎が腫れる壊血病で死者が二十人も出た。
全員が多少とも病気になった。
しかし西への航海は磁針を修正しながら正確につづけられた。
冷静なマジェランの指揮は船団員の信頼をむしろ強めたらしい。
一五二一年三月六日、おそらくグアム島と思われる島で原住民と戦闘をまじえ、三月十六日フィリピン群島のレイテ湾入口にあるスルアン島に着き、原住民と友好関係にはいることに成功した。
フィリピン群島の名は、十六世紀後半のスペイン王フェリペ二世の名に由来するから、当時はまだない。
しかしこの地域はすでに、東南アジアの商人の往来のあった地域である。マジェランのつれていたスマトラ出身の奴隷が、通訳として役立った。
群島の中にはいり、有力な王のいるセブ島に四月七日入港した。そしてマラッカのポルトガル人の王より、もっとはるかに強力なスペイン王から派遣されたと伝え、大砲を発射して威力を示した。
セブの王をはじめ、多数の住民のキリスト教への改宗が大規模に行なわれ、この地のスペイン領化、現地人のスペイン王への忠誠の誓いが順調に行なわれた。
マジェランは調子に乗りすぎ、四月二十七日土曜日(航海日誌より)、マタン島に不用意な討伐を行なった。
原住民の策略にひっかかり、マジェランは十二人の部下とともに戦死した。
つづいて原住民に殺される船員が続出し、船団は人員不足となり、一隻を焼いてわずか二隻となって南下した。
目標はあくまでモルッ力諸島であった。
交易と海賊をつづけながら十一月、モルッカのハマルヘラ島のイスラム君主との取り引きに成功した。
これはポルトガルの独占貿易へのはっきりした割りこみであった。
じつはマジェランの航海はポルトガル王にとって、まさにこういう割りこみの可能性を意味しいてた。
しかもマジェランは、もとポルトガルのサンティアゴ騎士団長であり、王の重臣の一人でさえある。
この反逆者を捕えよという命令がインド洋一帯にも出ていた。
マジェランは死んでしまっていたが、この疲れはてた二隻を、ポルトガル海軍がだまって見過ごすとも思われなかった。
旗艦トリニダード号は損傷はなはだしく、五十名の船員とともにハマルヘラ島に残留し、けっきょくポルトガル海軍に捕えられた。
香料を満載して十二月二十一日帰国のため出帆できたのは、船員四十七名、奴隷十三名によるビクトリア号だけであった。
これを指揮したのは、まえにマジェランに反抗したデル・カノである。
この航海も苦しかった。
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東アフリカのポルトガル領モザンピクに寄港すれば捕えられるというので、むりをして喜望峰をまわり、二十数名が死んだ。
さらに十数名がポルトガル官憲に捕えられ、ボロボロのビクトリア号がセビリヤの港に着いたのは一五二二年九月八日――地球の自転一回分西に動いたので、航海日誌の日付は一日早くなっていた――であり、船員は病人ばかりのわずか十八人で、さながら幽霊のようであった。
しかし持ち帰った丁子(ちょうじ)、肉桂(にっけい)、肉豆蒄(にくずく)、白檀(びゃくたん)などの香料は、五隻の船団を用意した総費用をはるかに上まわる利益を生んだという。
そしてマジェランにかわって、栄誉と富とを独占したのはデル・カノであった。
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3 大航海時代
3 マジェランの世界一周
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ポルトガル王家が新領土の保証を、絶えずローマ教皇に求めていたことは前に書いた。
一四八八年バルトロメウ・ディアスが喜望峰を発見した。
その帰路は海岸づたいではなく、北北西にアフリカ大陸後頭部に直航している。
もはや大西洋はポルトガルにとって、使いやすい海となりつつあった。
さらにアフリカ東岸のようすも、陸路の調査とディアスの航海でだいたい見当がついていた。
あとは船の改良など準備をととのえて、アフリカ東岸とインドへの航海に出かければよいと思っているところへ、降ってわいたコロンブスの「インド発見」のショックである。
コロンブスの新世界は一四九三年、教皇アレクサンデル六世によってスペイン領とみとめられた。
どんな認めかたかというと、地球の両極をつなぎ、ベルデ岬とアゾレス諸島のやや西を通過する半円周線を想定して、この線から西をスペイン領、東をポルトガル頷とした。この「教皇子午線」は、翌一四九四年両国代表のトルデシリャスの会談で改訂され、ブラジルを通過することになった。これは史上最初の幾何学的国境線である。
こんにちからみるとばかげた気前のよさで現実性にとぼしいし、また幾何学的な線の実測は技術的に不可能であったが、まだ宗教改革以前のことではあり、教皇のこの決定はひとまずヨーロッパでは有効であった。
ポルトガルがブラジルから大西洋・アフリカ・インド洋・インドネシア、スペインがアメリカ・太平洋・フィリピンという大まかな割り当てになって行く根拠は、このトルデシリャス協定にあり、現在の世界地図にもその痕跡がはっきりと見られる。
わが日本がまだ接触もないのに、ことわりもなくスペイン領に入れられていたり、人口密度も文化程度も高いアジア地域が、あっさりポルトガルに進呈されているトルデシリャス協定は、いわば十字軍的な観念の延長上にあった。
宗教改革以後とくにイギリスとオランダがこの協定に拘束されず、大西洋とインド洋になぐりこみをかけることになる。
これらの攻勢に耐えることのできた地域はアジアだけであり、アメリカ大陸はキリスト教世界になり、アフリカ大陸は奴隷の産地となってまつたく停滞した。
ここで、マジェラン(ポルトガル名マガリャンイス、一四八〇ごろ~一五二一)の世界一周(一五一九~二二)について述べておこう。
トルデシリャス協定による最初の地球の裏側確認の意味があるからである。
マジェランはポルトガル王家の小姓であったが、二十五歳ぐらいに達した一五〇五年から東アフリカやインド洋の航路に勤務し、一五一一年マラッカに達し、香料の産地モルッカ諸島(香料群島=フィリピン南方)探検に関係した。
もしモルッ力諸島に到達していたとすると、マジェラン戦死の地の経線より東にいたことになる。
そこでマジェランその人が若いときから戦死直前までかかって、「世界一周」をなしとげたという説が出てくる。
この説は現在ではあまり支持されないようだが、重要な事実をふくんでいる。
マジェランのいとこにあたる人物がモルッカ諸島に行っており、その情報にもとづいて、マジェランが世界一周というアイディアをもったからである。
スペイン人バルボアは、一五一二年最初に太平洋を見たヨーロッパ人であるが、太平洋の大きさは確認されていなかったし、想像さえされていなかった。
マジェランの知識は、じつはコロンブスと大差がなく、アメリカ大陸の西側の海をすこし航海すれはモルッカ諸島に行けるというものだったのである。
マジェランはこのプランをポルトガル王に採用してもらおうとしたが失敗し、スペインに渡った。
そして神聖ローマ皇帝(カール五世)になったばかりのスペイン王カルロス一世(在位一五一六~五六)から特許を得、一五一九年八月セビリヤの港を出発した。
船は五隻で、旗艦は「トリニダード号」であった。
七五トンから一二〇トンまでの船団で、乗組員は二百七十人ほどであった。
船の速力が異なるので船団の統一にはとくに神経をつかい、マジェランは行く先を秘密にし、旗艦に追尾することだけを命じた。
大きさも速力もちがう船をまとめて航海する点において、マジェランの指揮はすばらしく、強い確信をもってことに当たり、部下を威圧し、心服させた。
船団は十二月十三日、今のリオ・デ・ジャネイロに到着した。
この場所はポルトガル王の領土としてすでに知られていた。
十三日間休んで出帆し、翌一五二〇年一月ラ・プラタ川に着いた。
それまでこの川は海峡と思われており、ここから大陸の西海岸に出られる予定だったが、これが川だとわかった。
しかも陸地は限りなく南極の方向につづいている。
しかしマジェランは絶望しなかった。
彼の一行はさらに南下をつづけ、サン・ブリアンと名づけた港に着いた。
ここまで、寒さ、吹雪、烈風、怒濤(どとう)に苦しめられ、短い距離なのに二ヵ月かかった。
そして、ここで八月二十日まで越冬した。
このあいだに前途の不安から暴動がおこったが、マジェランは断固たる決意と巧妙な作戦でこれを鎬圧し、指導者だけを死刑または追放に処した。
また越冬中一隻が沈没し、船団は四隻になった。
サン・フリアン港でつきあった原住民は、背がおそろしく高く、足が大きかった。
これがパタゴニア(大足)人で、新石器時代に当たる貧しい生活をしていた。
マジェラン(パタゴニア)海峡の発見は簡単でなかった。
サンタ・クルス川で二ヵ月休養し、十月に深く黒い海峡を見つけたが、偵察しながらこれを抜けるのに約一ヵ月かかり、このあいだに一隻は不安にかられて脱走、帰国してしまった。
一五二〇年十一月二十八日、三隻は大きな海に出た。うってかわって天候にめぐまれ、波静かであった。
マジェランみずからが命名したという「太平洋」である。
これから西へ三ヵ月以上の航海であった。
まさかこんな遠いとは――。
それはしかし死の漂流ではなく、目的をもった航海であった。
虫のついた乾パンと腐った水、ついには船具の皮や鋸屑やねずみで生命をつないだ。
歯茎が腫れる壊血病で死者が二十人も出た。
全員が多少とも病気になった。
しかし西への航海は磁針を修正しながら正確につづけられた。
冷静なマジェランの指揮は船団員の信頼をむしろ強めたらしい。
一五二一年三月六日、おそらくグアム島と思われる島で原住民と戦闘をまじえ、三月十六日フィリピン群島のレイテ湾入口にあるスルアン島に着き、原住民と友好関係にはいることに成功した。
フィリピン群島の名は、十六世紀後半のスペイン王フェリペ二世の名に由来するから、当時はまだない。
しかしこの地域はすでに、東南アジアの商人の往来のあった地域である。マジェランのつれていたスマトラ出身の奴隷が、通訳として役立った。
群島の中にはいり、有力な王のいるセブ島に四月七日入港した。そしてマラッカのポルトガル人の王より、もっとはるかに強力なスペイン王から派遣されたと伝え、大砲を発射して威力を示した。
セブの王をはじめ、多数の住民のキリスト教への改宗が大規模に行なわれ、この地のスペイン領化、現地人のスペイン王への忠誠の誓いが順調に行なわれた。
マジェランは調子に乗りすぎ、四月二十七日土曜日(航海日誌より)、マタン島に不用意な討伐を行なった。
原住民の策略にひっかかり、マジェランは十二人の部下とともに戦死した。
つづいて原住民に殺される船員が続出し、船団は人員不足となり、一隻を焼いてわずか二隻となって南下した。
目標はあくまでモルッ力諸島であった。
交易と海賊をつづけながら十一月、モルッカのハマルヘラ島のイスラム君主との取り引きに成功した。
これはポルトガルの独占貿易へのはっきりした割りこみであった。
じつはマジェランの航海はポルトガル王にとって、まさにこういう割りこみの可能性を意味しいてた。
しかもマジェランは、もとポルトガルのサンティアゴ騎士団長であり、王の重臣の一人でさえある。
この反逆者を捕えよという命令がインド洋一帯にも出ていた。
マジェランは死んでしまっていたが、この疲れはてた二隻を、ポルトガル海軍がだまって見過ごすとも思われなかった。
旗艦トリニダード号は損傷はなはだしく、五十名の船員とともにハマルヘラ島に残留し、けっきょくポルトガル海軍に捕えられた。
香料を満載して十二月二十一日帰国のため出帆できたのは、船員四十七名、奴隷十三名によるビクトリア号だけであった。
これを指揮したのは、まえにマジェランに反抗したデル・カノである。
この航海も苦しかった。
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東アフリカのポルトガル領モザンピクに寄港すれば捕えられるというので、むりをして喜望峰をまわり、二十数名が死んだ。
さらに十数名がポルトガル官憲に捕えられ、ボロボロのビクトリア号がセビリヤの港に着いたのは一五二二年九月八日――地球の自転一回分西に動いたので、航海日誌の日付は一日早くなっていた――であり、船員は病人ばかりのわずか十八人で、さながら幽霊のようであった。
しかし持ち帰った丁子(ちょうじ)、肉桂(にっけい)、肉豆蒄(にくずく)、白檀(びゃくたん)などの香料は、五隻の船団を用意した総費用をはるかに上まわる利益を生んだという。
そしてマジェランにかわって、栄誉と富とを独占したのはデル・カノであった。
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