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8-8-1 日本の朝鮮侵攻

2024-01-13 11:58:52 | 世界史

『アジア専制帝国 世界の歴史8』社会思想社、1974年
8 日本の朝鮮侵攻
1 日本国関白秀吉の書

 朝鮮の宣祖二十年(一五八七)は、明の万暦十五年、日本の天正十五年にあたる。
 この年、日本からの使者が朝鮮におもむいた。
 九州の平定をなしとげた豊臣秀吉が、対馬(つしま)の宗(そう)氏を通じて国書をもたらし、朝鮮の入貢(服属して、貢物をおさめること)をうながしたものであった。
 このときの国書は伝わっていない。しかし朝鮮の記緑によれば、
 「書辞、はなはだ倨(きょ=おごり高ぶる)、天下は朕(ちん)の一握(いちあく)に帰すの語があった」。

 秀吉からの国書に接して、朝鮮の宮廷においては、硬軟さまざまの意見がでた。
 日本の使者を斬って、これを明国へおくれ、と主張する者がある。
 明朝の保護をもとめ、かつ激(げき)を琉球や西南の諸国にとばし、さらに水軍をととのえて牽制(けんせい)すべし、というのであった。
 しかし強硬論はしりぞけられた。
 国王の宣祖は、大義をもってあつかうことに決し、よって答書をあたえたが、入貢の使者を発することは承知しなかった。
 翌年の末、秀吉はふたたび使者をつかわした。
 こんどは宗義智(そうよしとも)みずからおもむいた。
 朝鮮においては、またも議論が百出した。
 評議をくりかえした結果、ようやく一つの案におちつく。
 かつて朝鮮人のなかで、日本人(倭寇)をみちびいて掠奪した者がある。
 それらの者を捕えて送還してくれれば、使者をだそう、というのであった。
 その報告に接すると秀吉は、ただちに朝鮮の要求に応じた。
 倭寇によって捕えられてきた朝鮮人百六十名をも、いっしょに送還させた。
 ついに朝鮮も、使者を発せざるをえない。
 天正十八年(一五九〇)七月、秀吉は小田原の北条氏をほろぼして、全国の統一を完成した。
 そして十一月、朝鮮の使者一行を、京都の聚楽第(じゅらくだい)において引見した。
 「秀吉は小男でみにくく、色は黒くて面やつれし、とくに変わったところもない。
 ただ、わずかに眼光がきらめき、人を射るように感ぜられた。……
 わが(朝鮮の)使者を引見するにも、その礼式はきわめて簡単である。
 しばらくすると秀吉は、立って内に入った。席にある者は、だれも動かない。
 すると、にわかに便服(べんぷく=普段着)をきた者が、小児をだいて内からあらわれ、堂中をあるきまわっている。
 よく見れば、秀吉であった。座中の者はひれ伏しているばかりである。
 ややあって柱の外まで出てゆき、わが国の楽士たちを招いていろいろ演奏させ、これを聴いた。
 小児が衣の上に小使をもらした。秀吉は笑って侍者をよんだ。
 女がひとり、声にこたえて走り出てきた。
 その子をわたし、ほかの衣にかえた。
 すべて思いのままにふるまい、かたわらに人がいないかのようであった。」

 こうして使者たちは帰国して国王に復命する。
 そのとき秀吉が国王におくった返書の書き出しは「日本国関白秀吉、書を朝鮮国王閣下にたてまつる」としていた。
 国王に対する敬称は「殿下」でなければならぬ。それを、あえて「閣下」と称した。
 しかも秀吉じしんは関白であるから「殿下」とよばれていたのである。
 まさしく対等以下のあつかいであった。かくて述べる。
 「ひそかに予の事蹟(じせき)を按ずるに、卑陋(ひろう=卑しい)の小臣なり。
 しかりといえども予は、かつて托胎(たくたい)のときにあたり(胎内にあったとき)、慈母に日輪の懐中に入るを夢みたり。
 相士(そうし=占いの者)いわく、日光のおよふところ照臨(しょうりん)せざることなし。
 壮年には、かならず八表(八方の遠い果て、全世界)の仁風を聞き、四海の威名をこうむること、それ何ぞ疑わんや、と。」

 こうして秀吉は、ついに天下を得たという。しかし人生は古来百年にみたぬ。
 どうして久しく鬱鬱(うつうつ)として此の地に居ることができようか。よって――
 「ただちに大明国に入り、わが国の風俗を四百余州に易(か)え、帝都の政化を億万斯年にほどこさんこと、方寸の中にありづ貴国は先駆して入朝せり。
 遠慮(えんりょ=遠い将来まで見通した深い考え)あるによって、近憂なきものか。……
 予の大明(だいめい)に入るの日、士卒をひきいて軍営に臨(のぞ)まば、いよいよ隣盟を修むベきなり。
 予の願いは他(ほか)なし、ただ佳名を三国にあらわさんのみ。」

 この書が朝鮮の官廷にとどいたのは、宣祖二十四年(一五九一、天正十九)三月のことである。
 朝鮮では秀吉の書をみて驚いた。そして大騒ぎになった。
 どうやら秀吉は、このたびの遣使をもって、朝鮮が入貢してきたものと思いこんでいるらしい。
 その上で、明国に出兵しようと述べ、朝鮮を経由することまで示している。
 いったい秀吉は、ほんとうに兵をだす気でいるのか。
 もはや事態は明国とのことにかかわっている。日本の意図を、さっそく明国へ報じなければならぬであろう。
 しかし、ここでも反対があった。
 もし、ありのままを報告すると「かえって倭国と通信したことで、罪に問われるかも知れぬ」というのであった。
 結局、明国へも使者を発することに決せられる。
 それとともに「日本関白殿下」に答書をしたため、日本からおもむいてきていた使者に託した。
 朝鮮にとって明朝は「上国」である。
 その「上国に討ち入ろうと欲して、われに党とならんことを望」んでも、したがうことはできない。
 しかも明朝は天下を支配して、威徳は遠くおよび、内外において拒否するものはない。
 朝鮮は、その藩封をまもって内服し、君父と臣子の間柄をなしていること、天下ともに知るところである。
 君父をおいて、隣国に党することができようか。
 朝鮮の人は、もとより礼儀をもち、君父をたっとぶことを知っている。
 この国書が、はたして秀吉のもとまで達せられたか、どうか。それは不明である。
 すくなくとも対馬の宗氏は、朝鮮のかたい態度を知った。そして窮地に立った。
 かねてから宗氏は、朝鮮との関係がふかく、朝鮮との貿易によって財政を維持してきた。
 それゆえに、このたびの交渉も、秀吉に命ぜられるまま、もっぱら宗氏があたってきた。
 当主の義智みずから、二度まで使者に立った。
 宗氏としては、何とかして朝鮮との交戦はさけたい。
 もし戦火をまじえるようなことになれば、もちろん貿易どころの話ではない。
 戦争をさけたいきもちは、博多や堺の商人にとっても同様であった。
 秀吉の幕下(ばくか)にあって、かれらの立場を代弁するのが、小西行長であった。
 そして宗義智の妻は、行長の娘である。
 ここに至って義智は、三たび朝鮮にわたり、釜山(ふざん)におもむいて、最後の交渉をこころみた。
 その態度は一貫している。もはや秀吉の明国へ出兵しようとする意図を、くつがえすことはできない。
 その上は、朝鮮がなかに立って、日本と明国との間を取りなしてもらうこと、それのみであった。
 すべてが破れた場合は、朝鮮に日本軍の通過をみとめてもらうほかはない。
 しかし朝鮮としても、明朝に属している以上は、こうした要求を入れることはできない相談であった。
 義智は、むなしく帰国した。
 おなじ年の八月、秀吉はいよいよ明国への討入りを号令し、明年をもって進発することを達した。
 年の末には関白の職も秀次にゆずり、みずからは太閤(たいこう)の称をもちいる。





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