『アジア専制帝国 世界の歴史8』社会思想社、1974年
8 日本の朝鮮侵攻
1 日本国関白秀吉の書
朝鮮の宣祖二十年(一五八七)は、明の万暦十五年、日本の天正十五年にあたる。
この年、日本からの使者が朝鮮におもむいた。
九州の平定をなしとげた豊臣秀吉が、対馬(つしま)の宗(そう)氏を通じて国書をもたらし、朝鮮の入貢(服属して、貢物をおさめること)をうながしたものであった。
このときの国書は伝わっていない。しかし朝鮮の記緑によれば、
「書辞、はなはだ倨(きょ=おごり高ぶる)、天下は朕(ちん)の一握(いちあく)に帰すの語があった」。
秀吉からの国書に接して、朝鮮の宮廷においては、硬軟さまざまの意見がでた。
日本の使者を斬って、これを明国へおくれ、と主張する者がある。
明朝の保護をもとめ、かつ激(げき)を琉球や西南の諸国にとばし、さらに水軍をととのえて牽制(けんせい)すべし、というのであった。
しかし強硬論はしりぞけられた。
国王の宣祖は、大義をもってあつかうことに決し、よって答書をあたえたが、入貢の使者を発することは承知しなかった。
翌年の末、秀吉はふたたび使者をつかわした。
こんどは宗義智(そうよしとも)みずからおもむいた。
朝鮮においては、またも議論が百出した。
評議をくりかえした結果、ようやく一つの案におちつく。
かつて朝鮮人のなかで、日本人(倭寇)をみちびいて掠奪した者がある。
それらの者を捕えて送還してくれれば、使者をだそう、というのであった。
その報告に接すると秀吉は、ただちに朝鮮の要求に応じた。
倭寇によって捕えられてきた朝鮮人百六十名をも、いっしょに送還させた。
ついに朝鮮も、使者を発せざるをえない。
天正十八年(一五九〇)七月、秀吉は小田原の北条氏をほろぼして、全国の統一を完成した。
そして十一月、朝鮮の使者一行を、京都の聚楽第(じゅらくだい)において引見した。
「秀吉は小男でみにくく、色は黒くて面やつれし、とくに変わったところもない。
ただ、わずかに眼光がきらめき、人を射るように感ぜられた。……
わが(朝鮮の)使者を引見するにも、その礼式はきわめて簡単である。
しばらくすると秀吉は、立って内に入った。席にある者は、だれも動かない。
すると、にわかに便服(べんぷく=普段着)をきた者が、小児をだいて内からあらわれ、堂中をあるきまわっている。
よく見れば、秀吉であった。座中の者はひれ伏しているばかりである。
ややあって柱の外まで出てゆき、わが国の楽士たちを招いていろいろ演奏させ、これを聴いた。
小児が衣の上に小使をもらした。秀吉は笑って侍者をよんだ。
女がひとり、声にこたえて走り出てきた。
その子をわたし、ほかの衣にかえた。
すべて思いのままにふるまい、かたわらに人がいないかのようであった。」
こうして使者たちは帰国して国王に復命する。
そのとき秀吉が国王におくった返書の書き出しは「日本国関白秀吉、書を朝鮮国王閣下にたてまつる」としていた。
国王に対する敬称は「殿下」でなければならぬ。それを、あえて「閣下」と称した。
しかも秀吉じしんは関白であるから「殿下」とよばれていたのである。
まさしく対等以下のあつかいであった。かくて述べる。
「ひそかに予の事蹟(じせき)を按ずるに、卑陋(ひろう=卑しい)の小臣なり。
しかりといえども予は、かつて托胎(たくたい)のときにあたり(胎内にあったとき)、慈母に日輪の懐中に入るを夢みたり。
相士(そうし=占いの者)いわく、日光のおよふところ照臨(しょうりん)せざることなし。
壮年には、かならず八表(八方の遠い果て、全世界)の仁風を聞き、四海の威名をこうむること、それ何ぞ疑わんや、と。」
こうして秀吉は、ついに天下を得たという。しかし人生は古来百年にみたぬ。
どうして久しく鬱鬱(うつうつ)として此の地に居ることができようか。よって――
「ただちに大明国に入り、わが国の風俗を四百余州に易(か)え、帝都の政化を億万斯年にほどこさんこと、方寸の中にありづ貴国は先駆して入朝せり。
遠慮(えんりょ=遠い将来まで見通した深い考え)あるによって、近憂なきものか。……
予の大明(だいめい)に入るの日、士卒をひきいて軍営に臨(のぞ)まば、いよいよ隣盟を修むベきなり。
予の願いは他(ほか)なし、ただ佳名を三国にあらわさんのみ。」
この書が朝鮮の官廷にとどいたのは、宣祖二十四年(一五九一、天正十九)三月のことである。
朝鮮では秀吉の書をみて驚いた。そして大騒ぎになった。
どうやら秀吉は、このたびの遣使をもって、朝鮮が入貢してきたものと思いこんでいるらしい。
その上で、明国に出兵しようと述べ、朝鮮を経由することまで示している。
いったい秀吉は、ほんとうに兵をだす気でいるのか。
もはや事態は明国とのことにかかわっている。日本の意図を、さっそく明国へ報じなければならぬであろう。
しかし、ここでも反対があった。
もし、ありのままを報告すると「かえって倭国と通信したことで、罪に問われるかも知れぬ」というのであった。
結局、明国へも使者を発することに決せられる。
それとともに「日本関白殿下」に答書をしたため、日本からおもむいてきていた使者に託した。
朝鮮にとって明朝は「上国」である。
その「上国に討ち入ろうと欲して、われに党とならんことを望」んでも、したがうことはできない。
しかも明朝は天下を支配して、威徳は遠くおよび、内外において拒否するものはない。
朝鮮は、その藩封をまもって内服し、君父と臣子の間柄をなしていること、天下ともに知るところである。
君父をおいて、隣国に党することができようか。
朝鮮の人は、もとより礼儀をもち、君父をたっとぶことを知っている。
この国書が、はたして秀吉のもとまで達せられたか、どうか。それは不明である。
すくなくとも対馬の宗氏は、朝鮮のかたい態度を知った。そして窮地に立った。
かねてから宗氏は、朝鮮との関係がふかく、朝鮮との貿易によって財政を維持してきた。
それゆえに、このたびの交渉も、秀吉に命ぜられるまま、もっぱら宗氏があたってきた。
当主の義智みずから、二度まで使者に立った。
宗氏としては、何とかして朝鮮との交戦はさけたい。
もし戦火をまじえるようなことになれば、もちろん貿易どころの話ではない。
戦争をさけたいきもちは、博多や堺の商人にとっても同様であった。
秀吉の幕下(ばくか)にあって、かれらの立場を代弁するのが、小西行長であった。
そして宗義智の妻は、行長の娘である。
ここに至って義智は、三たび朝鮮にわたり、釜山(ふざん)におもむいて、最後の交渉をこころみた。
その態度は一貫している。もはや秀吉の明国へ出兵しようとする意図を、くつがえすことはできない。
その上は、朝鮮がなかに立って、日本と明国との間を取りなしてもらうこと、それのみであった。
すべてが破れた場合は、朝鮮に日本軍の通過をみとめてもらうほかはない。
しかし朝鮮としても、明朝に属している以上は、こうした要求を入れることはできない相談であった。
義智は、むなしく帰国した。
おなじ年の八月、秀吉はいよいよ明国への討入りを号令し、明年をもって進発することを達した。
年の末には関白の職も秀次にゆずり、みずからは太閤(たいこう)の称をもちいる。