『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
4 イギリスの王政復古から名誉革命へ
5 王の交替
王と国教会との争いは、「寛容宣言」をめぐって最高潮に達する。
一六八八年王は、六月の第一日曜と第二日曜に、教区教会の説教壇の上で、「寛容宣言」を読みあげることを命じた。
しかし聖職者のなかには、良心にもとづいて、「寛容宣言」を拒否するものがあらわれた。
カンタベリーの大主教サンクロフトほか六名の主教が、聖職者に「寛容宣言」を読み上げることを強制しないように請願した。
王は、他に対するみせしめとして、この七名を煽動(せんどう)罪で訴える。
しかしロンドンの陪審員は無罪を宣し、彼らが釈放されたとき、ロンドンの民衆の興奮はすさまじいものであった。
こうしてジェームズは、ホイッグ党はもとより、カトリシズムとむすびついたことで、トーリー党、さらにイギリス国教会まで敵にまわすことになり、王権の地盤は極度に狹くなってしまった。
しかし当時、革命がおこらなかったのは、ジェームズには王子がなく、王のあとには、オランダ総督で新教徒のウィレム三世に嫁している王女メアリーが即位し、ジェームズがカトリシズムのために行なったことを、全部廃棄するであろうと考えられたからである。
ところが一六八八年六月十日、王太子が出生したのだ。
これは、完全に人びとの希望をうちくだいた。
一六八八年六月三十日、七主教が釈放されたと同じ日、おもな国教徒、トーリーおよびホイッグ党員の署名のある招聘(しょうへい)状が、ウィレム三世に送られた。
「我々は日ましに悪い状態におちいり、みずからの立場を守ることが困難になっております。
人民はみな、その信仰、自由、財産にかんし政府のいまのやり方に満足しておりません。
二十名の人民のうち、十九名までが変化を欲しております。貴族やジェントルマンの大部分も同じように不満であります。我々は殿下が上陸されるとき、かならず殿下のもとに馳(は)せ参じ、全力をつくして、殿下をお迎えする準備をさせておきます。」
一六八八年十一月五日、ウィレム三世はイギリス西南部、デビンシアのトーベーに上陸した。
軍にもみすてられたジェームズ二世は、情勢に望みがないことをさとるとともに、亡命を決意した。
しかし王はケント州で捕えられ、ロンドンに送りかえされてきた。
当時ウィンザーにいたウィレム三世は、むしろジェームズが亡命してくれるほうが好都合であった。
そこで彼は王と会談することを拒否し、王が漁船に乗ってフランスにのがれることを黙認したのである。
翌八九年一月十二日、召集された暫定議会は、
「ジェームズ二世王は政務を放棄し、そのため王位は空位である。」と宣言する。
ウィレム三世は、メアリーを傷つけてまでも王冠をうける気持ちはなく、共同統治が望ましいと考えた。
それで事態はつぎのように進んだ。暫定議会は「権利宣言」を起草し、ジェームズを非難した――
「新教および王国の法律と自由とを破棄し、根絶しようとくわだてた。」
そしてウィレム二世およびメアリーが、「権利宣言」中の王権に対する制限を承認したのち、議会は両者に共同統治者として王冠をささげた。
これがイギリス王ウィリアム三世(=ウィレム二世)とメアリー二世の即位である。
一六八八~八九年のこの変革は、一滴の血も流されなかったので「名誉革命」とよばれる。
そこではトーリー党とホイッグ党とが結合し、革命が社会の深層におよばず宮廷を中心とする上層部の勢力交替にとどまったが、立憲王制への道がひらかれることとなった。
トーリー党とホイッグ党とは、ジェームズ二世の絶対主義、カトリシズムに対する反感と、モンマスの乱にみられるような人民蜂起に対する危惧によって、結ばれていたといえよう。