『アジア専制帝国 世界の歴史8』社会思想社、1974年
9 後金から大清ヘ
4 満州(マンジュ)と大清
天命十一年(一六二六)八月、太祖ヌルハチは、後継者をきめることもなく世を去った。
ヌルハチの長子アンバ・ペイレの子、ヨトとサハリヤンの二兄弟は、父ベイレに告げた。
「およそ一国をなす者において、ハンなきことは、一日たりとも許さるべきでない。
よろしく、すみやかに大計を定めるべきである。
さいわいドゥイチ・ペイレは才徳世にすぐれ、先帝の心を心とし、衆みな喜び服している。
すみやかに大位を継ぐべき人である。」
これを聞いた父ベイレは、
「われも、またこれを考えていた。
なんじらの言は、天人ともにいれるところであり、だれか賛成しないものがあろう」
といって、後継者と定めた。
あくる日、諸王や諸大臣を役所にあつめ、ドゥイチ・ペイレをハンに推戴せんとの議を、諸王に告げた。
みな喜んで「よし」といい、決定した。
後金第二代のハンは、かくしてドゥイチ・ペイレ(ホンタイジ)と決定し、翌年、天聴と改元した。
かれこそヌルハチの第八子、大清第二代の太宗である。ときに、三十四歳の壮年であった。
ヌルハチ在世中のかれは、兄のアンバ・ペイレ、マングールタイ・ペレイ、従兄でヌルハチの弟の子アミン・ペレイとともに四大王に列して、重きをなしていた。ドゥイチ・ペイレとは第四王を意味する。
兄たちをさしおいて、ハンに推戴された太宗の立場は、微妙であった。
翌年元旦の拝賀に関する史書の記載に、「元来、満州国の礼では、叩頭(こうとう=おじぎ)するとき、アンバ・ペイレ、アミン・ベイレとマッグールタイ・ペイレの三王を兄とうやまって、ハンの両側にすわらせた。
いかなる場所においてもハンとならんですわらせ、下座にすわらせないことになっていた」と見えている。
その一端をしめすものといえよう。もとより賢明なる太宗が、みずからこの方法をとらせたというが。
「ハンとはいえ、その実は一旗の王にすぎず」とまでいわれた太宗であるが、即位してからのちは、先帝の遺業をちゃくちゃくとすすめ、後金国の難局を克服しつつ、ハンとしての実権を確立した。
太宗の意気ごみは、天聴元年(一六二七)正月、かつて先帝が屈辱をなめた寧遠城の袁都堂におくった書のなかに、すでにあらわれている。
「満州国のハンの書を、袁大人におくる。われら両国が戦うにいたったのは、なんじらの遼東や瀋陽にいた官人らが、なんじらの皇帝を、はるか上天の人として、みずからも天人のようにふるまい、天が生んだ異国のハンをハンと思わずに侮蔑するのに耐えられず、天にうったえて戦いを始めたのである。
公明正大なる天は、国の大小を見ずして、事の是非を見、われらを是とした。」
こうした堂々たる書きだしに始まって、先帝の掲げた「七大恨」に言及し、最後に述べた。
「いま、なんじらがわれらの是(ぜ)なるを知り、両国の和合を望むならば、その礼として金十万両・銀百万両・緞(たん=厚手の織物)十万・毛青布千万をわれにあたえよ。
和合が成立したのちは、毎年、両国間の贈答の礼として、真珠十・貂(てん)皮千・人参一千斤をわれらはおくる。
なんじらは、金一万両・銀十万両・緞十万・毛青布三十万をおくってこい。
このように相互に贈答し、両国の和合が成れば天地に誓約し、道義をかたく守って暮らしたい。
この言を、袁大人よ、なんじは皇帝に代奏せよ。
もしこれを聞かなければ、なんじらは、なお戦いを欲するものとみなそう。」
もとより、このような要求を明側が受けいれるはずはない。太宗の打診に対する明の態度はつめたかった。
太宗もまた、それを予期していたことであろう。
しかし先帝の晩年から、後金国は再建の途上にあり、その社会や経済の安定には遠かった。
そうした時期に即位した太宗の地位も、決して安全ではない。
難局をきりぬけるには、まず明朝との修好と、交易の再開を打診しつつ、別の策をもあわせ用いることが必要であった。
その場合、弱味をみせることは禁物である。
手の出るようにほしい明朝との交易ではあるが、太宗は高踏的な態度をもって内外にみずからの威をしめそうとした。
交渉は、ながびくであろう。
その間に朝鮮を。それが、明を釘づけにしつつすすめる別の策であった、というのはうがちすぎか。
ともあれ太宗は、おなじ年、ただちに朝鮮征討の軍をだし、朝鮮王を屈服させて、両国間の交易の道をひらいた。
先帝のなしえなかった遺業の一つである。
先帝の晩年、後金国における社会的不安の一要素に、漢人の問題があった。
先帝のきびしい漢人検別策のあとを受けた太宗は、転じて漢人の懐柔策にでた。
先帝のおこなった一荘十三男七牛の編成を改革し、一部の五男五牛を分離して漢人村落をつくり、漢人の官僚に管轄させて、満人のかってな出入を禁じたのである。
一般に史家は、これを満漢別住策というが、同時にそれは、漢人の二分策でもあった。
これまた先帝のなしえなかった遺業である。
いっぼう、西方モンゴルへの威嚇もすすめられた。もとより、それは遼河から西方へ進出することによって、先帝のときからはじまったものである。
太宗のそれは、さらに西圧を強めつつ山海関の西方の長城の突破口を確保しようとの、両策をもつものであった。
ここにおいて太宗の策は、先帝の晩年における部下の上書を思いおこさせる。
そればかりではない。
史書の伝えるところによれば、瀋陽への遷都を断行したのは、そこが明とモンゴルと朝鮮を征するに便利な地の利をもち、かつ山河の資源に富むというためであった。
これは理由が薄弱であるとも思われよう。
しかし、ここにこそ大きな意味があったことを、太宗の行動はうらづけているのであった。
この結果は、みごとに実をかすんだ。太宗は朝鮮との交易の道をひらき、山海関の明軍を釘づけにした。
また西方より南下して、明の皇城をおびやかし、さらに内モンゴルの勢力を崩壊させた。
天聴九年(一六三五)、太宗は内モンゴルの征討によって、大元の伝統をつぐ証拠とされる玉璽(印)をえた。
翌年(一六三六)太宗はあらためて大清国を建設し、崇徳と改元した。
まさにそれは、満・蒙・漢の三民族を包含した新国家の樹立を意味する。太宗は、それにふさわしく、侮辱的にとられる女直の名をやめ、自民族をマンシュ(満州)とよぶことにした。
のこる処は明皇帝との対決である。