『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年
5 呉越の抗争
1 闔廬(こうりょ)の即位
晋と楚とが対立し、たがいに覇(は)を争っているあいだに、新しい勢力が長江の下流、江南の地におこってきた。
いまの蘇州を本拠とした呉(ご)の国である。土地柄にふさわしく、舟軍を主とした水上の合戦に長じていた。
こうした呉の興隆は、前六世紀の初めごろのこととかんがえられる。
当時の王の名は、寿夢(じゅぼう)といった。
寿夢には四人の子があったが、末子の季札(きさつ)はもっとも賢く、国人のあいだにも人望が高かった。
寿夢も、季札に位をゆずろうとした。しかし季札は固く辞してうけなかった。
そこで寿夢が死ぬと、長子の諸樊(しょはん)があとをついだ。諸樊は太子を立てなかった。
王位を順次に弟につがせて、季札におよぼそうとしたのであった。
それから三十四年、呉の王位は諸樊から次弟の余祭へ、さらに三弟の余昧(よまい)へと伝えられた。
その余昧も死んで、いよいよ季札が立つべきであった。
しかし季札は、またも辞退して逃げ去った。
国人はやむをえず、余眛の子の僚(りょう)をたてて王とした。
諸樊の子に、光(こう)という者があった。
楚と戦って功をたて、すぐれた将軍として頭角をあらわしてきていた。
しかも、その父は、季札に王位を伝えようとして、まず立ったのである。
いま、季札が立たぬのならば、自分こそ王たるべきであろう、こう考えて公子光は、ひそかに賢士を召しかかえ、王位をえる機会をまった。
そこへあらわれたのが、伍子胥(ごししょ)である。
故国の楚を追われ、呉に亡命してきたのであった。
伍子胥は、名を員(いん)という。子胥は字(よびな)である。
その父は楚の太子に仕えていたが、たまたま楚の平王は、あらたに秦の国からむかえた若い公女への愛におぼれ、そのうんだ子に跡をつがせようとして、太子をうとんずるようになる。
そこへ讒言(ざんげん)をする者があらわれた。
太子が王をうらんで反乱をおこそうとしている、というのであった。平王は怒って、太子を殺そうとした。
急を知って太子はのがれることができたが、子胥の父と兄はとらえられ、殺されてしまった。
子胥のみが身を全うして、太子を迫った。
しかし楚の太子も、鄭(てい)の国に行きついたところで、国を乗っとる陰謀をくわだて、それが発覚して、殺された。
伍子胥は太子の子をともなって、またも逃げださねばならなかった。
こうして子胥は呉の国へはいったのである。ときに呉では王僚の五年(前五二二)であった。
伍子胥は、公子の光(こう)に国を奪う野心のあることをみぬいた。
そこで専諸(せんしょ)という勇士を手にいれ、光に推挙した。
光はよろこんで子胥を賓客としてむかえいれた。
しかも子胥はしりぞいて田野に耕し、専諸が事をなす日をまっていた。
七年たった。楚では平王が死んだ。ついで楚の王となったのが昭王である。秦の公女がうんだ子である。
その翌年、楚の国内に乱がおこったのに乗じて、呉王僚は二人の弟に大軍をさずけ、楚にさしむけた。
また、季札を晋につかねして、諸侯の動きをうかがわせた。
しかるに楚へ攻めいった呉軍は、背後を絶たれて進退するところをうしなった。
公子光にとって、目的をとげるには絶好の機会である。
光は王を自宅に招いた。地下の密室に武装した兵を隠している。
いっぽう、招きに応じた王も、道路に兵をつらね、王宮から光の家にいたるまで、門にも階段にも戸口にも、さらに酒席にも、くまなく親近の者を配した。
いずれにも両刃(もろは)の剣をもたせて、左右から護衛させた。宴が進むと、光は足が痛くなったと称して席をたち、地下室に去った。ややあって、一人の男が進みでてきた。専諸であった。
焼き魚を大皿の上に盛ってささげている。もとより身には寸鉄もおびていない。
王の前に進むと、焼き魚の腹中から匕首(あいくち)を取りだし、王の胸をふかく刺した。
同時に専諸も、術士たちの剣をうけて胸をつらぬかれた。地下の密室からは、いっせいに光の兵士たちがおどりでた。こうして公子光は王僚を倒し、みずから立って王となったのである。
すなわち呉王闔廬(こうりょ)と称した。
闔廬は望みをはたすと、専諸の子を召しだして、卿(けい=総理大臣)の位につけた。
5 呉越の抗争
1 闔廬(こうりょ)の即位
晋と楚とが対立し、たがいに覇(は)を争っているあいだに、新しい勢力が長江の下流、江南の地におこってきた。
いまの蘇州を本拠とした呉(ご)の国である。土地柄にふさわしく、舟軍を主とした水上の合戦に長じていた。
こうした呉の興隆は、前六世紀の初めごろのこととかんがえられる。
当時の王の名は、寿夢(じゅぼう)といった。
寿夢には四人の子があったが、末子の季札(きさつ)はもっとも賢く、国人のあいだにも人望が高かった。
寿夢も、季札に位をゆずろうとした。しかし季札は固く辞してうけなかった。
そこで寿夢が死ぬと、長子の諸樊(しょはん)があとをついだ。諸樊は太子を立てなかった。
王位を順次に弟につがせて、季札におよぼそうとしたのであった。
それから三十四年、呉の王位は諸樊から次弟の余祭へ、さらに三弟の余昧(よまい)へと伝えられた。
その余昧も死んで、いよいよ季札が立つべきであった。
しかし季札は、またも辞退して逃げ去った。
国人はやむをえず、余眛の子の僚(りょう)をたてて王とした。
諸樊の子に、光(こう)という者があった。
楚と戦って功をたて、すぐれた将軍として頭角をあらわしてきていた。
しかも、その父は、季札に王位を伝えようとして、まず立ったのである。
いま、季札が立たぬのならば、自分こそ王たるべきであろう、こう考えて公子光は、ひそかに賢士を召しかかえ、王位をえる機会をまった。
そこへあらわれたのが、伍子胥(ごししょ)である。
故国の楚を追われ、呉に亡命してきたのであった。
伍子胥は、名を員(いん)という。子胥は字(よびな)である。
その父は楚の太子に仕えていたが、たまたま楚の平王は、あらたに秦の国からむかえた若い公女への愛におぼれ、そのうんだ子に跡をつがせようとして、太子をうとんずるようになる。
そこへ讒言(ざんげん)をする者があらわれた。
太子が王をうらんで反乱をおこそうとしている、というのであった。平王は怒って、太子を殺そうとした。
急を知って太子はのがれることができたが、子胥の父と兄はとらえられ、殺されてしまった。
子胥のみが身を全うして、太子を迫った。
しかし楚の太子も、鄭(てい)の国に行きついたところで、国を乗っとる陰謀をくわだて、それが発覚して、殺された。
伍子胥は太子の子をともなって、またも逃げださねばならなかった。
こうして子胥は呉の国へはいったのである。ときに呉では王僚の五年(前五二二)であった。
伍子胥は、公子の光(こう)に国を奪う野心のあることをみぬいた。
そこで専諸(せんしょ)という勇士を手にいれ、光に推挙した。
光はよろこんで子胥を賓客としてむかえいれた。
しかも子胥はしりぞいて田野に耕し、専諸が事をなす日をまっていた。
七年たった。楚では平王が死んだ。ついで楚の王となったのが昭王である。秦の公女がうんだ子である。
その翌年、楚の国内に乱がおこったのに乗じて、呉王僚は二人の弟に大軍をさずけ、楚にさしむけた。
また、季札を晋につかねして、諸侯の動きをうかがわせた。
しかるに楚へ攻めいった呉軍は、背後を絶たれて進退するところをうしなった。
公子光にとって、目的をとげるには絶好の機会である。
光は王を自宅に招いた。地下の密室に武装した兵を隠している。
いっぽう、招きに応じた王も、道路に兵をつらね、王宮から光の家にいたるまで、門にも階段にも戸口にも、さらに酒席にも、くまなく親近の者を配した。
いずれにも両刃(もろは)の剣をもたせて、左右から護衛させた。宴が進むと、光は足が痛くなったと称して席をたち、地下室に去った。ややあって、一人の男が進みでてきた。専諸であった。
焼き魚を大皿の上に盛ってささげている。もとより身には寸鉄もおびていない。
王の前に進むと、焼き魚の腹中から匕首(あいくち)を取りだし、王の胸をふかく刺した。
同時に専諸も、術士たちの剣をうけて胸をつらぬかれた。地下の密室からは、いっせいに光の兵士たちがおどりでた。こうして公子光は王僚を倒し、みずから立って王となったのである。
すなわち呉王闔廬(こうりょ)と称した。
闔廬は望みをはたすと、専諸の子を召しだして、卿(けい=総理大臣)の位につけた。