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7-6-3 万能の技術家

2023-09-26 00:10:22 | 世界史


『文芸復興の時代 世界の歴史7』社会思想社、1974年
6 “スーパーマン”レオナルド・ダ・ビンチ――ルネサンスの技術と科学――
3 万能の技術家

 レオナルドは「万能の天才」とよばれる。
 それが「画家でありながらなんでもできた」という意味に受け取られたのもむりはない。
 しかしレオナルドの生涯をたどってみると、彼は「絵も上手だった技術家」である。
 レオナルドは一四五二年、フィレンツェに近いビンチという村で生まれた。
 父ピエロは地主で公証人の仕事もし、フィレンツェ市内にも関係をもっていた。
 レオナルドはピエロのかりそめの恋から生まれた私生児であった。
 ベロッキオの弟子になったのは、フィレンツェのギルドの規定により、十四歳から十六歳のあいだであったと推定されている。
 ベロッキオは親方であり、親方の組合がギルドである。
 職人はギルドを通してしか、仕事をさせてもらえない。
 親方のベロッキオは彫刻家として知られ、十五世紀に盛んになった青銅像の鋳造技術に秀でていた。
 こんにちの彫刻家は鋳造をいっさい専門家にまかせている。
 これは生け花の師匠が、金属粉の吹きつけを全部花屋に一任しているのに似ている。
 これを芸術家の堕落というふうに考えることもできるが、それよりもこの時代は花屋のみがあって、生け花の師匠はいなかったと考えたほうがわかりやすいだろう。
 そもそもフィレンツェの画工ギルドは、技術的なことはなんでも引き受けていた。
 土木、建築、彫刻、絵画……とにかくなんでも手仕事ならば、プロである以上できないとはいえないのである。
 馬の鞍もつくったし、水道工事もやった。
 ベロッキオも彫刻家としで知られているが、絵も描いたし、なんでもやった。
 レオナルドの修業時代の勉強の内容がさっぱりわからず、研究者を悩ませていたが、最近ではむしろ、レオナルドがあまりにも当時としてはあたりまえの職人修業をやっていたため、記録がないのだと考えられている。
 そこで「イタリアの画家」とか「彫刻家」というわくを取りはらって、「技術家」という大きなわくを考えてみよう。
 中世美術を代表するゴシックの大建築には、設計者のわかっていないものが多い。
 絵描きだけが作者の個人名を知られる機会を早くもったが、多くの技術者は優れた技術をもちながら名も知られず、つつましやかな生涯を終わっているのである。
 レオナルドに先だって「万能の天才」といわれたアルベルティ(一四○四~七二)は有名で、建築学、絵画論の著書があり、建築家、画家、彫刻家としても知られ、ラテン語、外国語、法律、物理、天文、機械、医学、数学を学び、詩、劇、歴史、小説、哲学や科学の論文を書き、音楽では作曲をし、足が速く、両足をそろえて他人の頭の上を飛び越し、貨幣をだれよりも高く空に投げ上げ、あばれ馬をしずめ、犬に芸をしこむのが上手で、靴直しまで自分でやった。
 しかしアルベルティはいわばこんにちでいう都市計画学者であり、彫刻家ドナテロや建築家ブルネレスキと親交を結び、またおそらく青年時代のベロッキオとも接している。

 アルベルティの『建築論』は未完だったが、その死後一四八五年に印刷された。その古代建築の魅力にとりつかれた好みは、ルネサンスの建築に事実上大きく影響した。
 アルベルティが技術家たちの職人仕事に精通していたため影響力があったのである。
 彼の未完の『建築論』はたぶん総合的な「技術論」をめざしていたと研究者はいう。
 万能の天才があこがれの対象になる時代であったという点で、アルベルティとレオナルドは結びつく。
 しかしレオナルドはアルベルティのような知識人ではなく、職人ギルド出身のひとである。
 職人ギルドの巨匠でも、美術上の名声をあげなかったひとはあまり知られていないが、彼らの地位はルネサンス・イタリアにおいては重要である。たとえばロレンツォ・ディ・ピエトロ(一四二一~八〇)ははじめ青銅鋳造の修業をし、晩年は建築とくに要塞の構築の大家になり、多数の作品を残している。
 ピエトロの弟子だったこともあり、絵画の作品も残しているフランチェスコ・ディ・ジョルジオ(一四三九~一五○二?)は最近注目されはじめた建築家で、技術畑出身として驚くべき万能ぶりをそなえていた。
 著書に『一般および軍事建築論』があり、十九世紀に出版されたが、それよりもシェナやバティカンにある未刊の手稿が研究者を驚かせている。
 それらは著名なレオナルドの手記に似て、卓抜なアイディアにみちている。
 フランチェスコ・ディ・ジョルジオは、じつはイタリアの各都市からひっぱりだこの名声をもつ美術家兼技術者なのであった。

 レオナルドは一四八二年フィレンツェからミラノに移った。
 ベロッキオのもとで、メディチ家のロレンツォに仕えていたが、レオナルドはロレンツォから「音楽家」としてみとめられていただけで、あまり実力を発揮できなかった。
 レオナルドの心にはおそらくフランチェスコ・ディ・ジョルジオの名声が大きな誘惑として燃えていたのであろう。
 ミラノに着いてまもなく、音楽家レオナルドが主人である独裁者スフォルツァ家のルドビコ・モロに宛てた凄い手紙が残っている。
 そこにはルネサンス人にふさわしい自己確信がみちみちているではないか。
 「軽くて強い橋をつくる。兵士や馬に浮き袋をつけ、川の水をへらして前進する。また敵の橋をこわす。」
 「地下道によって敵の城を爆破する。」
 「敵に弾丸の雨を降らせる軽い大砲をつくる。」
 「音をたてないで地下道を掘る。」
 「じょうぶで安全な戦車をつくる。」
 「美しい形をした、有力な珍しいいろいろな大砲をつくる。」
 「石投げ機、火焔放射器、そのほか驚くべき作用をもつふしぎな兵器をつくる。」
 「平和のときには、私は建築と運河工事についてだれにも劣らないりっぱな仕事をします。」
 「また私は大理石や青銅の彫刻をつくります。そして絵をかくことでもだれにも負けません。」

 レオナルドは一五〇〇年までミラノで暮らした。
 ミラノはフィレンツェと同じく港をもたない都市共和国で、絹織物・毛織物工業の盛んなところであった。
 傭兵を使った戦争の多い時代である。
 傭兵はドイツやスイスからきた者が多く、敵味方になっても、たがいに生命がけにはならない。
 何千という軍隊が戦って死者わずか一、二人というのがあったともいわれる。
 馬をむやみに走らせたり、大声ばかりあげて、勇ましそうに戦うだけであるから、その真の勇気に大きな期待はもてない。
 各都市の支配者はそのために、軍事技術の向上に大きな関心をもっていた。
 したがってレオナルドはこの点を強調したのである。
 傭兵隊長出身の独裁者ルドビコはレオナルドを採用し、重く用い、また自由な時間をも与えた。
 これはレオナルドにとってフィレンツェ画工組合からの脱退、注文の受けられない孤独な技術者の道、そして個人として自分を信頼してくれる主人を選ぶことであった。
 それは成功であった。
 だから二十年もミラノにいたのである。
 ミラノ時代のレオナルドの仕事は、軍事技師としての従軍、測量と地図の製作、起重機の工夫、運河掘り、そして宮廷の娯楽の総指揮から台所に至るまでの細かい世話であった。
 「最後の晩餐」と「ブランチェスコ・スフォルツァ(ルドビコの先代)青銅騎馬像」の制作が、これに並行した。
 「青銅騎馬像」は惜しくも戦争で失われたが、そのため彼は馬についてあらゆる研究を行ない、街路で危険をおかして、暴れ馬を近くで観察したりした。
 また彼が人間と馬の足をくらべて研究したことは、比較解剖学上で有名になっている。
 彼の動物や植物に対する関心は、学者的な立場に高められた。

 さらにレオナルドは暇をみつけては、多くの機械装置を工夫した。
 巧妙な歯車装置、ボールベアリング、各種のポンプ、パナマ運河の開門(一九一四年完成)に似た装置などが知られている。
 とくに「水の性質」や「滑車」の研究は深められている。
 またルドビコが招いた数学者パチオリと親交を結び、数学にも熱中した(パチオリはベネチアの商人の習慣を解説して「複式簿記」の考え方を最初に完成したひととして知られている)。
 またレオナルドは下水のある都市計画をも考えており、いわばアルベルティとフランチェスコ・ディ・ジョルジオの双方の資質を兼ねるような万能ぶりに近づく。
 しかしアルベルティの教養は主として読書と対話から成り立っており、その意味でレオナルドは、フランチェスコ・ディ・ジョルジオのほうにはるかに近い。
 仕事と自然に沈潜(ちんせん=没頭)する技術家は、知識人のように古代文化の影響を直接には受けなかった。
 たとえばレオナルドは教会の目をぬすんで、生涯に約三十体の人体解剖を試み、当時としてもっとも正確な解剖学的なスケッチを残した。
 このやりかたが技術者たちの人体研究であった。ギリシアから持ち帰られる古代彫刻のコレクションは、教会の反対にもかかわらず、高僧・貴族・富豪の新しい流行の趣味になっており、これが中世を通じてのヌードへの無条件のためらいを、緩和していたことはたしかである。
 しかし技術家たちへの古代美術の影響はけっして大きくはなかった。




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