『宋朝とモンゴル 世界の歴史6』社会思想社、1974年
10 大モンゴル
2 西夏へ、金へ
「チンギス汗の名声をきいて、我らはおそれていた。
いま、威霊(みいつ)ある汝が、みずからここまで来られて、威霊をおそれた。
おそれて、我らタングートの民(西夏)は、汝の右の手となって力を添えよう。
しかし、我らは動かぬ住地ある(定住の)、築いた城あるものである。
伴(とも)となっても、すばやい出征におもむくとき、するどい戦いをたたかうとき、追いつくことはできぬ。
たたかうことはできぬ。
チンギス汗よ、恩賜あれば、我らタングートの民は、たくさんのラクダを出して、たてまつろう。
毛の糸を織りなして、反物(たんもの)としてたてまつろう。
鷹(たか)狩りの鷹をならして、あつめて、そのなかの良いものをささげることにしよう。」
西夏とて、過去二百年余りも強勢をほこった国である。
はげしく抵抗したけれども、国都がかこまれ、水攻めにあってはどうすることもできなかった。
国王は、王女を献じ、みつぎものをささげることを約束して、降伏した。
チンギス汗は、追うことができぬほどのラクダを引きつれてモンゴルの本土に凱施(がいせん)した。
さて、このつぎは、金の帝国である。
金(きん)こそは、モンゴルの民族にとっても、チンギス汗にとっても、遠いむかしからの宿敵であった。
戦いをしかけるための名分は、そなわっている。
復讐のたたかいをいどむのだ、と言って、チンギス汗は士気を鼓舞した。
こうして一二一一年、チンギス汗は、その四子をともない、大軍をひきいて南下した。
その国都(中都、いまの北京)を攻めたてた末、ついに金の皇帝が降伏を申しいれたのは、四年目の春のことであった。
金の皇帝はチンギス汗に対して、金銀や絹帛のほか、皇女をささげ、三千頭の馬を贈る。
この条件をいれて、チンギス汗は軍をまとめ、北へ引きあげた。
モンゴルにとって、国都を攻略するよりも、たくさんの財物をえることが重要、と考えたのであった。
ところで金国では、モンゴル軍が去ってしまうと、ただちに国都を汴(べん)京(開封)へうつした。
中都(北京)では、モンゴル軍をふせぎきれないからである。
チンギス汗は怒った。
遷都したのは、和議をやぶって戦いをつづけるため、と考えた。
ふたたび大軍を発する。
あくる一二一五年五月、モンゴル軍は中都をおとしいれた。
黄河から北方の地一帯も、ことごとくモンゴルの兵馬にふみにじられた。
二度目の遠征でうばいとった財宝も、おびただしい。
しかし何にもまして貴重なものを、このたびの遠征はチンギス汗にもたらした。
それは、中都に籠城していたひとりの青年であった。
年は二十六歳、それでいて儒仏道(じゅぶつぞう)の三教をはじめ、あらゆる学に通じている。
堂々たる体躯(たいく)、大きな頭、そして長く美しい髯、すでに老成の風があった。
青年の名は、耶律楚材(やりつそざい)。その姓からわかるように、契丹(きったん=遼)帝室の一族である。
遼がほろんだ後、その一家は金国につかえて高官となった。
楚材もまた、金の官吏として中都にいたのである。
これを召しよせて、チンギス汗は言った。
「遼と金とは、仇敵の間がらだ。わしは、いま金を破り、汝のかたきをうってやったぞ。」
すると楚材は、すこしも臆せず、大きな声で答えた。
「私の祖先も、私の父も、みな金の朝廷に仕えてきました。
ひとたび臣下となったからには、どうして二心をいだいて、主君にかたきをかえすことができましょうや。」
チンギス汗は、この答えがすっかり気にいってしまった。
偉大な英雄は、ただちに青年の人柄と学識を見ぬいたのである。
これより、チンギス汗は楚材をながく左右におき、その政治の相談あいてとしたのであった。
10 大モンゴル
2 西夏へ、金へ
「チンギス汗の名声をきいて、我らはおそれていた。
いま、威霊(みいつ)ある汝が、みずからここまで来られて、威霊をおそれた。
おそれて、我らタングートの民(西夏)は、汝の右の手となって力を添えよう。
しかし、我らは動かぬ住地ある(定住の)、築いた城あるものである。
伴(とも)となっても、すばやい出征におもむくとき、するどい戦いをたたかうとき、追いつくことはできぬ。
たたかうことはできぬ。
チンギス汗よ、恩賜あれば、我らタングートの民は、たくさんのラクダを出して、たてまつろう。
毛の糸を織りなして、反物(たんもの)としてたてまつろう。
鷹(たか)狩りの鷹をならして、あつめて、そのなかの良いものをささげることにしよう。」
西夏とて、過去二百年余りも強勢をほこった国である。
はげしく抵抗したけれども、国都がかこまれ、水攻めにあってはどうすることもできなかった。
国王は、王女を献じ、みつぎものをささげることを約束して、降伏した。
チンギス汗は、追うことができぬほどのラクダを引きつれてモンゴルの本土に凱施(がいせん)した。
さて、このつぎは、金の帝国である。
金(きん)こそは、モンゴルの民族にとっても、チンギス汗にとっても、遠いむかしからの宿敵であった。
戦いをしかけるための名分は、そなわっている。
復讐のたたかいをいどむのだ、と言って、チンギス汗は士気を鼓舞した。
こうして一二一一年、チンギス汗は、その四子をともない、大軍をひきいて南下した。
その国都(中都、いまの北京)を攻めたてた末、ついに金の皇帝が降伏を申しいれたのは、四年目の春のことであった。
金の皇帝はチンギス汗に対して、金銀や絹帛のほか、皇女をささげ、三千頭の馬を贈る。
この条件をいれて、チンギス汗は軍をまとめ、北へ引きあげた。
モンゴルにとって、国都を攻略するよりも、たくさんの財物をえることが重要、と考えたのであった。
ところで金国では、モンゴル軍が去ってしまうと、ただちに国都を汴(べん)京(開封)へうつした。
中都(北京)では、モンゴル軍をふせぎきれないからである。
チンギス汗は怒った。
遷都したのは、和議をやぶって戦いをつづけるため、と考えた。
ふたたび大軍を発する。
あくる一二一五年五月、モンゴル軍は中都をおとしいれた。
黄河から北方の地一帯も、ことごとくモンゴルの兵馬にふみにじられた。
二度目の遠征でうばいとった財宝も、おびただしい。
しかし何にもまして貴重なものを、このたびの遠征はチンギス汗にもたらした。
それは、中都に籠城していたひとりの青年であった。
年は二十六歳、それでいて儒仏道(じゅぶつぞう)の三教をはじめ、あらゆる学に通じている。
堂々たる体躯(たいく)、大きな頭、そして長く美しい髯、すでに老成の風があった。
青年の名は、耶律楚材(やりつそざい)。その姓からわかるように、契丹(きったん=遼)帝室の一族である。
遼がほろんだ後、その一家は金国につかえて高官となった。
楚材もまた、金の官吏として中都にいたのである。
これを召しよせて、チンギス汗は言った。
「遼と金とは、仇敵の間がらだ。わしは、いま金を破り、汝のかたきをうってやったぞ。」
すると楚材は、すこしも臆せず、大きな声で答えた。
「私の祖先も、私の父も、みな金の朝廷に仕えてきました。
ひとたび臣下となったからには、どうして二心をいだいて、主君にかたきをかえすことができましょうや。」
チンギス汗は、この答えがすっかり気にいってしまった。
偉大な英雄は、ただちに青年の人柄と学識を見ぬいたのである。
これより、チンギス汗は楚材をながく左右におき、その政治の相談あいてとしたのであった。