『アジア専制帝国 世界の歴史8』社会思想社、1974年
11 台湾の鄭氏政権
2 国姓爺(こくせんや)の奮戦
さてオランダ人の進出にさきだって、台湾に拠っていた海賊の首領に、顔思斉という者があった。
日本へも往来し、いわゆる倭寇と結託して大陸の沿岸をあらしまわる。
そこで日本甲螺(こうら)と袮した。甲螺とは、日本語のカシラであり、つまり頭目である。
その仲間に鄭芝龍(ていしりゅう)がいた。やはり日本へはしばしば往来している。
平戸(ひらど、長崎県)に居をかまえていたこともあり、その地の女性(田川氏の娘)との間に一六二四年、男子をもうけた。
その子が、のちの鄭成功であり、幼名を福松といった。
生まれたのは、わが寛永元年にあたっている。
オランダ人がゼーランディア城をきずいたのも、この年のことである。
その翌年、顔思斉が死んだ。あとをついで、鄭芝龍が日本甲螺と称した。
福松の母子を平戸にのこし、とおく南海の島まで、そのころの東西洋(東南アジアからインド)をまたにかけて活躍した。
ついに明朝も、その実力をみとめざるをえなくなった。
明朝は、鄭芝龍に都督総兵官という職をさずけた。
これは芝龍(しりゅう)が、明朝に服属をちかうかわりに、海上におけるいっさいの権限をみとめられたものにほかならなかった。
ときに崇禎三年(一六三〇)であり、七歳になっていた福松は、母にわかれて、泉州のちかくに居城をかまえた父のもとにおもむいた。それから十四年にして、明朝は倒れた(一六四四)。
しかし満州人の清朝にしたがうことをきらった明朝の遺臣たちは、それぞれ帝室の一族を擁立して、復明(ふくみん)の戦いをつづけた。
唐王も、その一人である。洪武帝の九世の孫であり、清軍に追われると福州におもむき、鄭芝龍をたよった。
よって芝龍は、唐王を帝位につかせ、年号を立てて隆武と袮した(一六四五)。
すでに福松も、りっぱな青年に成長している。
これを見ると唐王は大いによろこび、明の帝室の「朱(しゅ)」姓をたまわり、成功の名をあたえた。
これによって鄭成功は「国姓爺(こくせんや)」とよばれるにいたる。
しかし清軍の南下は、いよいよはげしい。
唐王も、帝位についてから一年あまりにして、清軍に捕えられてしまった(やがて殺される)。鄭芝龍も、このとき清軍のまねきに応じて、降伏した。
鄭成功は、これにしたがわず、あくまでも明朝の復興をちかった。
志をおなじくする遺臣たちは、あらたに永明王を立てて、皇帝とし、年号を永暦と称した。
しかし永明王も、広東(カントン)から広西(カンシー)へ、さらに雲南へと、清軍に追われて転々としなければならなかった。
その間、明朝の遺臣のなかには、日本に軍隊の派遣や、武器の供給をもとめた者がいる。おりから三代将軍家光の時代であった。
幕府においては、さまざまの論議があったが、ついに軍隊も武器もおくらぬことに決せられた。すでに鎖国の令が発せられてから、十年になっていた。
復明をめざすについて、最後の望みも消えた。
しかも鄭成功は、ひとりアモイ(廈門)に拠って、意気すこぶるさかんである。
雲南の永明王は、はるかに延平(えんぺい)郡王という爵位をおくった。
いわば明朝の一族たる待遇をあたえたわけであった。
福建の海上をおさえて、力をたくわえた鄭成功は、一六五八年から五九年にかけて、いよいよ南京の攻略にむかった。
鄭成功のひきいる水軍は、長江をさかのぼって、南京をめざす。
その威容に、長江の南北は大いに震動した。
七月、南京をかこんだ。付近の州県は、いそいで成功のもとに通じてきた。
しかし、ここで成功は油断したのである。
部将のなかには、南京を急襲すべしと主張する者があった。それを成功は無視した。
逆に清軍が、南京の城中から突出し、不意をついて成功の軍をやぶった。
ここにいたって、成功も退却せざるをえない。いったん成功になびいた州県も、また清朝に帰してしまった。
そして成功は、ふたたびアモイをまもるのみとなる。
大陸への反攻の夢は、むなしくなった。しかも不運は成功だけのことではない。
雲南の永明王も、この年のはじめに清軍の攻撃にたえきれず、ビルマに走っていたのである。
雲南の経略にあたったのが、呉三桂であった。
そして呉三桂は、そのまま雲南にとどまって平西王に封ぜられる。
いっぼう永明王はビルマに入ってから三年たらず、ついに捕えられて、雲南におくられた。
かくて呉三桂によって殺される。ときに清朝では康煕元年(一六六二)、明朝の血統をひくものは、ことごとく絶えた。
もはや健在なのは、ひとりアモイの鄭成功ばかりである。なお清朝に屈しようとはしない。
しかも、アモイは根拠地として不十分であるとし、台湾への進攻をもくろんでいた。