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4-14-4 長安風俗さまざま

2023-03-09 20:27:46 | 世界史
『六朝と隋唐帝国 世界の歴史4』社会思想社、1974年
14 大唐の長安
4 長安風俗さまざま

 「貴人の御饌(ぎょせん=食べもの)はことごとく胡食を用い、士女みな、ついに胡服を衣(き)る」とは、唐代のことを述べた歴史書(旧唐書=くとうじょ)が記すところである。
 このように唐代では、衣食のうえにおいてもイラン系のものをはじめ、ひろく北方民族の風俗が流入していた。
 古くは中国でも、日本人とおなじように、床(ゆか)の上にすわっていた。
 それが隋唐のころには、椅子に腰かけるようになっている。
 はじめ椅子は「胡床(こしょう)」と称したように、イラン系の風俗であった。
 隋の文帝は胡の字がついているのをきらって、「交床(こうしょう)」というようにあらためたという。
 わが国でも、いまは椅子の生活に変化しつつある。
 それにともなって家庭のなかには、衣食住にさまざまな変化がおこっている。
 このことから考えても、椅子の生活をはじめたことは、大きな生活の変化であったことがわかるであろう。
 白楽天は「時世粧(じせいしょう)」と題する詩のなかで、当世ふうの化粧についてえがき、黒い油を唇にさし、かいた眉は八の字形のさがり眉、化粧あがりの顔は泣きづらだ、とぼろくそにけなした。
 その詩の末尾にいう。
元和粧梳君記取
髻椎面赭非華風 元和(げんな=憲宗の年号)の粧(化粧)梳(そ=髪形)は君よ記取(きしゅ=心にしるす)せよ
髻椎(けいすい=蛮族ふうのさいづちまげ)面赭(めんしゃ=チベット風の赤化粧)は華風(中国ふう)にあらざるを

 唐代においては化粧まで、外国ふうの流行が一世を風靡(ふうぴ)していたのである。
 玄宗の寵臣であった王鉷(こう)は、豪華をきわめた生活をしていたが、玄宗の命令によって自殺させられた。
 あとで、その家をしらべると「自雨亭(じうてい)」というものがあった。
 これは屋根の上に水をひいて、これを流し、夏でも秋のように涼しかったという。
 シリアや小アジア方面にこういう構造の家が多く、東はイランの方面にまでひろまっていたから、それが伝わったものであろうといわれている。
 しかし唐代でも、外国ふうのものばかりが幅をきかせたわけではない。
 純中国ふうのものとして、喫茶の流行があった。喫茶は、まさしく中国ではじまったものである。
 漢代(前二世紀~二世紀)には、すでに茶の木の生育に適した長江の沿岸で飲まれていたと思われる。
 そののち三国から南北朝の時代(三~六世紀)にかけて、長江の沿岸では貴人の飲料として用いられた。
 茶果(茶と木の実)という言葉もある。
 北魏の孝文帝は、南朝より帰順した人に、茗飲(めいいん=茶にこと)と酪奬(らくしょう=ミルク)と、どちらがうまいかとたずねたという。
 すでに北朝でも、南方の茶のうまいことを知っていたのであった。
 また荼の色と酒の色が似ているので、酒の飲めない人が荼を酒とごまかして飲んでいた話もある。
 唐代になると、これが庶民の飲みものにまでなった。安史の乱のころ(八世紀なかば)、陸羽(りくう)のあらわした「茶経(ちゃきょう)」という書物には、長安や洛陽において、茶が軒なみの飲料となったことが記されている。
 また各地に茶店のあったことも、陸羽と同時代の人の『封氏聞(ふうしぶん)見記(けんき)』という書物に見えている。
 しかし、この荼はいまの抹茶(まっちゃ)とも煎茶(せんちゃ)ともちがったものであった。
 その製法は『茶経』にくわしく記されている。
 まず摘(つ)みとった茶葉を「せいろう」でむす。
 むしおわると臼にいれてつき、茶団子(ちゃだんご)をつくる。
 それを円形や花形などの型にいれて、たたいて固め、天日でかわかす。
 かわくと「きり」で穴をあけ、細い竹にさして、「焙(ばい)」という炉(ろ)でさらに乾煉させる。
 これでいちおうできあがったことになり、炭火の乾燥設備のある保存器に貯蔵しておく。
 そして飲む直前に取り出し、もういちど薬研(やげん)にかけて粉末にするのである。
 できあがった荼を飲むには、二十四器といわれる「風炉(ふろ)」以下の茶器で点(た)てて飲む。
 湯をわかし、湯の沸騰を一沸、二沸、二沸と分け、一沸のときに、上に浮かぶ水膜をすてて、塩味をつける。
 二沸のときに湯を一瓢(しゃく)くみだしておき、竹夾(ちくきょう=竹はし)で湯をかきまわしながら、さきほどできあがった茶をいれると、湯の沸騰によって茶が点(た)つ。
 いま使うような茶筅(ちゃせん)は用いない。
 三沸になると、さましておいた一瓢を入れて沸騰をとめ、茶の華をそだてて、茶碗(ちゃわん)にくんで飲むという次第である。
 こうした点(た)てかたをみても、すでに茶をのむ礼式のあったことが、うかがわれよう。
 『封氏聞見記』には「陸羽によって、茶道(さどう)が大いにおこなわれた」と記されている。
 わが国の茶道の起源も、じつにここにあった。



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