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7-14-2 毒殺される皇妃たち

2023-11-20 17:24:42 | 世界史

『文芸復興の時代 世界の歴史7』社会思想社、1974年
14 イワン雷帝
2 毒殺される皇妃たち

 イワンとソフィアのあいたにうまれた息子がワシーリー三世(在一五〇五~三三)で、彼はその父をしのぐ専制君主となり、ために大貴族(旧諸公たち)との対立がようやくはげしくなる。
 「ロシア貴族」とひとくちにいっても、これは二つにわけられる。
 その上層は「大貴族」で、キエフ・ルス以来の諸公や、ロシアに帰化したタタールの王族の末裔(まつえい)などがこれにはいり、日本でいえばさしずめ徳川時代の「大名」がこれにあたる。
 彼らは「世襲地」をもち、モスクワ公とは同輩ないし競争者(ライバル)の関係にあった。
 これにたいして貴族の下層は「士族(ドボリアン)」とよばれ、諸公の宮廷(ドボール)につかえる家臣、ないし大公に直属する旗本で、彼らは期限つき(ふつう一代かぎり)の「知行地」をもらい、西欧の「騎士(ナイト)」、日本の「武士」に相当する身分層であった。
 ところで、これまでのロシアの政治のありかたは、「大公(クニヤージ)は大貴族(ボヤール)とともに考える」というのがしきたりで、この「考える」というロシア語から、のちに「議会」を意味する「ズーマ」という言葉が生まれる。
 つまり国政の最高機関は「大貴族会議」で、これはかなり古くからロシアに存在した。
 モスクワ時代になるとそのメンバーも数十名にふえ、士族の一部や書記官も参加する。
 これはクレムリン宮殿で、ツァーリの臨席のもとにひらかれ、「夏は日の出を合図に、冬はまだ夜の明けそめぬうちから」はじまり、朝食から昼食のあいだ、「五、六時間にわたって」つづけられ、昼食後、夕方まで議員たちは「長い昼寝」をとり、それから「鐘の音」でおこされ、ふたたび集合して会議を続行するといったぐあいであった。

 そして、このズーマの下に「プリカース」(命令の意)とよばれる諸官庁があり、その数約三十で、これが中央政府であり、その各員官は「ズーマ」の書記官が兼務することになっていた。
 ところがワシーリー三世やその息子のイワン四世(雷帝)(在位一五三三~八四)は、大貴族(ボヤール)を毛ぎらいし、ズーマと協議することをやめて、いわゆる「側近政治」を行なった。
 そこで羽振りをきかせてくるのが「成り上がりもの」とよばれる皇妃の一族である。
 そのころのロシアには、皇妃を公募する風習があった。
 全国の大貴族に勅令が出され、妙齢の美女をもつ親たちは各地の代官のもとに届け出ること、もし「隠しだて」などすれば、厳罰に処するというのであった。
 そこでワシーリーのときには千五百名の処女が集められ、それより五百名が選らばれてモスクワに送られ、ここで第二次、第三次の詮衡(せんこう)をへて十名にしぼられ、それから官廷の医師と産婆がテストして、もっとも健康で美しい娘が一人皇妃となるのである。
 人並はずれて早熟であったといわれるイワン雷帝も、まだ未成年の十七歳にして、やはり同じような方法で皇妃をえらんでいる。
 ところで、娘が皇妃になるとその一族には権勢と栄達への道が開かれることとなり、ワシーリーの治世にはグリンスキー家、イワン雷帝の時代にはロマノフ家(これはのちのロシアの新王朝になる)、その子のフョードル帝(在位一五八四~九八)のときにはゴズノフ家(その代表がのちのツァーリ僧称者ポリス・ゴズノフ)がそれぞれに権力の座にすわった。
 しかし、これはやがて皇妃のポストそのものが大貴族たちの陰謀の対象となり、皇妃はしばしば生命の危険にさらされた。
 つまり、ツァーリの知らないうちに皇妃が毒殺される事件が頻発し、イワン雷帝はその母エレーナと最初の妻アナスターシアをそれで失い、その後にめとった第二、第三、第四の妻も不思議に早死にしており、雷帝自身もその死因に大きな疑問をもっていた。





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