『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
3 イギリスのピューリタン革命
1 北方の王
一六〇三年三月二十四日、処女女王エリザベスが没すると、スコットランド王スチュアート家のジェームズ六世が血縁によって、ジェームズ一世としてイギリス王を兼ねることになった。
当時、王はすでに三十六歳、経験に富み、プロテスタントエリザベスの没後、大陸からのカトリック教徒侵入のうわさにおののいていた国民は、新王を歓呼して迎えた。しかし、期待に反した国王であった。
ジェームズは、若いころ、長老派の神学者として有名なブカナン(一五〇六~八二)から教育をうけ、古典、近代語、哲学、神学につうじていたが、イギリスにきて、いちばんのみこみにくいものは議会の存在であった。
スコットランドにも議会はあったが、無力で、王権の単なる道具にすぎなかったのである。
このため、王は、エリザベスのようにじょうずに議会を操縦することができなかったばかりか、議会そのものを否定する王権神授説のような、イギリス人になじめず、危険とも思われる思想を唱えた。
スコットランドにいるとき、王は『自由なる君主国の真の法』(一五九八)という論文を書き、君主はあらゆる制限から自由であり、地上における神の代理で、議会の唯一の権限は勧告することであると主張した。そしてイギリス王に即位後、一六○九年、議会でつぎのような演説を行なった。
「王が神とよばれるのは正しい。そのわけは、王が地上において神の権力にも似た権力を、ふるっているからである。王はすべての臣民のあらゆる場合の裁き手であり、しかも神以外の何ものにも責任を負わない。」
ジェームズ一世は神経質、臆病な性格だったが、理論上ではずいぶん気が強かったわけだ。
この王権神授説に対して、イギリス人民は抵抗の理論をもっていた。
王権神授説が外来の新しい理論であったのに対し、これはイギリス古来のコモン・ローの理論である。
コモン・ローは「普通法」などと訳されているが、地方的慣習法に対する「一般的慣習法」を意味し、イギリス古来の慣習や判例によって発達した法律のことである。
当時、最大の法学者で、コモン・ロー裁判所の首席判事であったエドワード・コーク(一五五二~一六三四)は、コモン・ローこそ国王や議会などに優越する最高のものであるという立場をとった。
そして「法の優越」を主張し、君主が法の上に立つというジェームズ一世の考え方に、まっこうから反対した。
こうしてジェームズ一世は王権神授説を、人民はコモン・ローをそれぞれよりどころとして対立し、議会は両者の正面衝突の場所となって荒れた。
王は二十二年の治世のあいだに議会を四回ひらいたが、議会で攻撃をうけて、都合が悪くなるとこれを解散し、ときには反対するものを投獄することさえした。
一六二一年の第三議会のときのことである。
ジェームズは、外交政策上の批判をうけると、外交は王の大権事項であり、「議会の特権はわが祖先の恩恵に由来する」と称して、外交論議を封じようとした。
議会ではコーダらが、「抗議文」を発表して、主張する。
「議会の特権は、イギリス臣民の昔からの疑うべがらざる生得権であり、遺産である。
国王、国家、国防、国教会にかんする事項は、議会で論議するにふさわしい問題である。」
争いははげしくなり、ついに議会が解散させられた。激怒しているジェームズは、さらに議会の記録の提出を命じ、抗議文をのせた部分をずたずたに引き裂いた。
こうしてステュアート朝の議会は、これまでのデューター朝の「従順議会」に対し、「荒れる議会」ともいうべきものであった。
この傾向は、一六二五年、ジェームズ一世のあとをついだチャールズ一世の治世になっても、改まるどころか、ますますひどくなった。
王は容貌もすぐれ、威厳に満ち、ファン・ダイクやルーベンスを宮廷に招くなど、美術を愛したが、感情的で偏見がつよく、気がよく変わった。
王は即位の年、最初の議会で、予定の七分の一しか課税が承認されないと、これを解散した。
その後は議会の承認なくかってに関税をとりたて、富豪に献金を強い、ロンドンその他の港市に沿岸防備のためと称して、船舶や船員を提供することを命じた。
これが「船舶税」である。
もっとも人民を憤慨させたのは公債を強制したことで、これに応じなかった富豪が、王の令状一本で監禁された。
王は経費節約のためには、兵士を世帯主の承諾なく民家に無料宿泊させ、また軍法を軍人ばかりでなく、一般人にもおよぼし、いたるところで人権が侵害された。
しかし強制公債の募集がうまくゆかなかったため、チャールズ一世はやむなく一六二八年議会をひらいたが、議会ではコーダらが中心となって「権利の請願」を起草し、議会の決議として王に提出した。
これは「我々の至高の主たる国王陛下に対し、議会に召集された聖俗の貴族ならびに庶民はうやうやしく奏上したてまつる」という「請願」の形式をとり、古い権利の確認をもとめたもので、新しい権利の承認をもとめたものではない。
「一 今後何人(なんびと)も、議会制定法による一般的な同意なしにはいかなる贈与、公債、献金、税金そのほか同種の負担をなし、あるいはこれに応ずるよう強制されない。
二 いかなる自由人も理由を示さずに、拘禁または拘留されない。
三 陛下は陸海軍兵士を立ち退かせ、陛下の人民は将来かかる重荷を負わされない。
四 軍法による裁判についての命令書は取り消され、無効とされる。」
「権利の請願」は、財産や人権を守ることを企図したもので、中世の「マグナ・カルタ」、名誉革命のときの「権利章典」とともに、イギリス憲政史で有名なものである。
3 イギリスのピューリタン革命
1 北方の王
一六〇三年三月二十四日、処女女王エリザベスが没すると、スコットランド王スチュアート家のジェームズ六世が血縁によって、ジェームズ一世としてイギリス王を兼ねることになった。
当時、王はすでに三十六歳、経験に富み、プロテスタントエリザベスの没後、大陸からのカトリック教徒侵入のうわさにおののいていた国民は、新王を歓呼して迎えた。しかし、期待に反した国王であった。
ジェームズは、若いころ、長老派の神学者として有名なブカナン(一五〇六~八二)から教育をうけ、古典、近代語、哲学、神学につうじていたが、イギリスにきて、いちばんのみこみにくいものは議会の存在であった。
スコットランドにも議会はあったが、無力で、王権の単なる道具にすぎなかったのである。
このため、王は、エリザベスのようにじょうずに議会を操縦することができなかったばかりか、議会そのものを否定する王権神授説のような、イギリス人になじめず、危険とも思われる思想を唱えた。
スコットランドにいるとき、王は『自由なる君主国の真の法』(一五九八)という論文を書き、君主はあらゆる制限から自由であり、地上における神の代理で、議会の唯一の権限は勧告することであると主張した。そしてイギリス王に即位後、一六○九年、議会でつぎのような演説を行なった。
「王が神とよばれるのは正しい。そのわけは、王が地上において神の権力にも似た権力を、ふるっているからである。王はすべての臣民のあらゆる場合の裁き手であり、しかも神以外の何ものにも責任を負わない。」
ジェームズ一世は神経質、臆病な性格だったが、理論上ではずいぶん気が強かったわけだ。
この王権神授説に対して、イギリス人民は抵抗の理論をもっていた。
王権神授説が外来の新しい理論であったのに対し、これはイギリス古来のコモン・ローの理論である。
コモン・ローは「普通法」などと訳されているが、地方的慣習法に対する「一般的慣習法」を意味し、イギリス古来の慣習や判例によって発達した法律のことである。
当時、最大の法学者で、コモン・ロー裁判所の首席判事であったエドワード・コーク(一五五二~一六三四)は、コモン・ローこそ国王や議会などに優越する最高のものであるという立場をとった。
そして「法の優越」を主張し、君主が法の上に立つというジェームズ一世の考え方に、まっこうから反対した。
こうしてジェームズ一世は王権神授説を、人民はコモン・ローをそれぞれよりどころとして対立し、議会は両者の正面衝突の場所となって荒れた。
王は二十二年の治世のあいだに議会を四回ひらいたが、議会で攻撃をうけて、都合が悪くなるとこれを解散し、ときには反対するものを投獄することさえした。
一六二一年の第三議会のときのことである。
ジェームズは、外交政策上の批判をうけると、外交は王の大権事項であり、「議会の特権はわが祖先の恩恵に由来する」と称して、外交論議を封じようとした。
議会ではコーダらが、「抗議文」を発表して、主張する。
「議会の特権は、イギリス臣民の昔からの疑うべがらざる生得権であり、遺産である。
国王、国家、国防、国教会にかんする事項は、議会で論議するにふさわしい問題である。」
争いははげしくなり、ついに議会が解散させられた。激怒しているジェームズは、さらに議会の記録の提出を命じ、抗議文をのせた部分をずたずたに引き裂いた。
こうしてステュアート朝の議会は、これまでのデューター朝の「従順議会」に対し、「荒れる議会」ともいうべきものであった。
この傾向は、一六二五年、ジェームズ一世のあとをついだチャールズ一世の治世になっても、改まるどころか、ますますひどくなった。
王は容貌もすぐれ、威厳に満ち、ファン・ダイクやルーベンスを宮廷に招くなど、美術を愛したが、感情的で偏見がつよく、気がよく変わった。
王は即位の年、最初の議会で、予定の七分の一しか課税が承認されないと、これを解散した。
その後は議会の承認なくかってに関税をとりたて、富豪に献金を強い、ロンドンその他の港市に沿岸防備のためと称して、船舶や船員を提供することを命じた。
これが「船舶税」である。
もっとも人民を憤慨させたのは公債を強制したことで、これに応じなかった富豪が、王の令状一本で監禁された。
王は経費節約のためには、兵士を世帯主の承諾なく民家に無料宿泊させ、また軍法を軍人ばかりでなく、一般人にもおよぼし、いたるところで人権が侵害された。
しかし強制公債の募集がうまくゆかなかったため、チャールズ一世はやむなく一六二八年議会をひらいたが、議会ではコーダらが中心となって「権利の請願」を起草し、議会の決議として王に提出した。
これは「我々の至高の主たる国王陛下に対し、議会に召集された聖俗の貴族ならびに庶民はうやうやしく奏上したてまつる」という「請願」の形式をとり、古い権利の確認をもとめたもので、新しい権利の承認をもとめたものではない。
「一 今後何人(なんびと)も、議会制定法による一般的な同意なしにはいかなる贈与、公債、献金、税金そのほか同種の負担をなし、あるいはこれに応ずるよう強制されない。
二 いかなる自由人も理由を示さずに、拘禁または拘留されない。
三 陛下は陸海軍兵士を立ち退かせ、陛下の人民は将来かかる重荷を負わされない。
四 軍法による裁判についての命令書は取り消され、無効とされる。」
「権利の請願」は、財産や人権を守ることを企図したもので、中世の「マグナ・カルタ」、名誉革命のときの「権利章典」とともに、イギリス憲政史で有名なものである。