『六朝と隋唐帝国 世界の歴史4』社会思想社、1974年
6 江南の王朝
1 武人皇帝
東晋王朝がほろんだあと、長江の流域には、東晋とおなじく建康(けんこう)、いまの南京(ナンキン)を都とする四つの王朝があいついで興亡した。
すなわち宋(そう)・斉(せい)・梁(りょう)・陳(ちん)の四王朝である。
おなじ時期、草北には北魏(ほくぎ)、北斉(ほくせい)、北周(ほくしゅう)などの王朝が立っていた。
それらをひっくるめて北朝(ほくちょう)とよぶのに対し、江南の四王朝は南朝(なんちょう)とよばれる。
南朝百七十年のあいだに四つの王朝が興亡しただけではない。
宋は七人、斉もやはり七人、梁は四人、陳は五人の天子をかぞえる。
そのうち宋の文帝(ぶんてい)の三十年、梁の武帝の五十年におよぶ治世をさしひくと、いっそうおしつめられた期間内に、こんなにもたくさんの天子が立ち、死に、あるいは殺されたのだから、この時代の政情不安は容易に想像されるであろう。
政情不安は疑心暗鬼(ぎしんあんき)をよび、疑心暗鬼がいっそうの政情不安をまねく。
そのような悪循環のくりかえしが南朝の歴史であった。
しかも北方には北朝政権が存在しており、政治的な、また軍事的な緊張関係がいつまでもつづいてゆく。
北朝政権の安定は南朝の不安をよび、北朝の混乱がかえって南朝にかりそめの平和をもたらしてくれるのであった。
北朝に対する警戒心は、かたときもゆるめることはできず、たえず戒厳令下におかれていたといっても、けっしていいすぎではない。
だから各王朝が、いつも軍隊ににらみのきく武人によってひらかれたのは、理由のないことではなかった。
宋をはじめた劉裕(りゅうゆう)、斉をはじめた蕭道成(しょうどうせい)、梁をはじめた蕭衍(しょうえん)、陳をはじめた陳覇先(ちんはせん)、いずれも軍閥(ぐんばつ)である。
なかでも、いやしい身分から身をおこした劉裕の武勲は、かがやかしいものがあった。
江南における有力な軍団をにぎった劉裕は、その軍事力をバックに北方にむかって征服戦争をこころみた。
北方を異民族にうばわれ、江南の地におしこめられていた東晋の人たちにとって、北方をうばいかえすことは、親から子へ、子から孫へとひきつがれた悲願であった。
いく人かの軍人が、それをこころみては失敗する歴史がくりかえされたのちに、劉裕がみごとに成功したのである。
まず手はじめに、現在の山東省に王朝をたてていた鮮卑(せんぴ)族の南燕(なんえん)を討った(四一〇)。
ついで、長安に都をおいていた羌(きょう)族(チベット系)の後秦をほろぼして、黄河流域の地をその手中におさめた(四一七)。
劉裕によってとりかえされた北方の地は、数年たらずのうちにふたたび異民族の手におち、やがてまもなく五胡十六国の時代はおわりをつげる。
そしてより強力な北魏の政権に支配されることになるが、ともかく劉裕は、民族の悲願を達成した英雄として、宋の王朝をひらくにいたったのである(四二〇)。
宋王朝は、そのあとにつづく南朝の諸王朝が、武人によってうちたてられる一つのパターンをつくった。
しかし、蕭道成や蕭衍には、劉裕にかなうだけの武勲があったわけではない。かれらはいずれも南朝の政権内部に発生した内紛をついて、前の王朝をたおし、あたらしい王朝をひらいたにすぎない。ただ、かれらふたりは、その姓がしめすとおり、遠縁のあいだがらである。
そのうえ、劉裕の継母も、やはりおなじ蕭(しょう)氏の出身であったといわれるから、宋、斉、梁三代の王室は、ひとつの縁によってむすばれていたことになる。
6 江南の王朝
1 武人皇帝
東晋王朝がほろんだあと、長江の流域には、東晋とおなじく建康(けんこう)、いまの南京(ナンキン)を都とする四つの王朝があいついで興亡した。
すなわち宋(そう)・斉(せい)・梁(りょう)・陳(ちん)の四王朝である。
おなじ時期、草北には北魏(ほくぎ)、北斉(ほくせい)、北周(ほくしゅう)などの王朝が立っていた。
それらをひっくるめて北朝(ほくちょう)とよぶのに対し、江南の四王朝は南朝(なんちょう)とよばれる。
南朝百七十年のあいだに四つの王朝が興亡しただけではない。
宋は七人、斉もやはり七人、梁は四人、陳は五人の天子をかぞえる。
そのうち宋の文帝(ぶんてい)の三十年、梁の武帝の五十年におよぶ治世をさしひくと、いっそうおしつめられた期間内に、こんなにもたくさんの天子が立ち、死に、あるいは殺されたのだから、この時代の政情不安は容易に想像されるであろう。
政情不安は疑心暗鬼(ぎしんあんき)をよび、疑心暗鬼がいっそうの政情不安をまねく。
そのような悪循環のくりかえしが南朝の歴史であった。
しかも北方には北朝政権が存在しており、政治的な、また軍事的な緊張関係がいつまでもつづいてゆく。
北朝政権の安定は南朝の不安をよび、北朝の混乱がかえって南朝にかりそめの平和をもたらしてくれるのであった。
北朝に対する警戒心は、かたときもゆるめることはできず、たえず戒厳令下におかれていたといっても、けっしていいすぎではない。
だから各王朝が、いつも軍隊ににらみのきく武人によってひらかれたのは、理由のないことではなかった。
宋をはじめた劉裕(りゅうゆう)、斉をはじめた蕭道成(しょうどうせい)、梁をはじめた蕭衍(しょうえん)、陳をはじめた陳覇先(ちんはせん)、いずれも軍閥(ぐんばつ)である。
なかでも、いやしい身分から身をおこした劉裕の武勲は、かがやかしいものがあった。
江南における有力な軍団をにぎった劉裕は、その軍事力をバックに北方にむかって征服戦争をこころみた。
北方を異民族にうばわれ、江南の地におしこめられていた東晋の人たちにとって、北方をうばいかえすことは、親から子へ、子から孫へとひきつがれた悲願であった。
いく人かの軍人が、それをこころみては失敗する歴史がくりかえされたのちに、劉裕がみごとに成功したのである。
まず手はじめに、現在の山東省に王朝をたてていた鮮卑(せんぴ)族の南燕(なんえん)を討った(四一〇)。
ついで、長安に都をおいていた羌(きょう)族(チベット系)の後秦をほろぼして、黄河流域の地をその手中におさめた(四一七)。
劉裕によってとりかえされた北方の地は、数年たらずのうちにふたたび異民族の手におち、やがてまもなく五胡十六国の時代はおわりをつげる。
そしてより強力な北魏の政権に支配されることになるが、ともかく劉裕は、民族の悲願を達成した英雄として、宋の王朝をひらくにいたったのである(四二〇)。
宋王朝は、そのあとにつづく南朝の諸王朝が、武人によってうちたてられる一つのパターンをつくった。
しかし、蕭道成や蕭衍には、劉裕にかなうだけの武勲があったわけではない。かれらはいずれも南朝の政権内部に発生した内紛をついて、前の王朝をたおし、あたらしい王朝をひらいたにすぎない。ただ、かれらふたりは、その姓がしめすとおり、遠縁のあいだがらである。
そのうえ、劉裕の継母も、やはりおなじ蕭(しょう)氏の出身であったといわれるから、宋、斉、梁三代の王室は、ひとつの縁によってむすばれていたことになる。