カトリック情報 Catholics in Japan

スマホからアクセスの方は、画面やや下までスクロールし、「カテゴリ」からコンテンツを読んで下さい。目次として機能します。

4-15-2 秘宝の発見と調査

2023-03-12 02:38:20 | 世界史
『六朝と隋唐帝国 世界の歴史4』社会思想社、1974年
15 敦煌の秘宝
2 秘宝の発見と調査

 唐代から長い年月がたった。清朝の末期、もはや二十世紀をむかえようとしている。
 そのころ王円簶(おうえんろく)という道士(道教の坊さん)が、ここへやってきた。
 砂にうずもれた石窟群を見いだし、その清掃にあたっているうち、ある日のこと、ひとつの窟の壁がわれて、そのなかにおびただしい経巻の類がつめこまれているのを発見した。
 王道士は、このことを当時の敦煌県の役所に屈けでた。
 しかし役人たちは、こうした文化財について、なんの関心もしめさなかった。
 一九〇七年(明治四十年)三月、イギリスの探検家スタインが、ここをおとずれた。
 そして王道士が見つけだした経巻の類をはこび出した。それは全体の三分の一ほどにあたっていた。
 もちろん王道士には、たんまりと金をあたえ、ほしいだけのものを持ち去ったのである。
 あくる年には、フランスの東洋学者ベリオがおとずれてきた。
 そして残りの文書類のうちから、半分ほどのものを持ち去った。
 さらに石窟の内部を撮影して、その壮麗な壁画や彫刻を世界に紹介した。
 敦煌の石窟は、にわかに天下の視聴をあつめるようになった。
 わが国からも一九一一年(明治四十四年)には、大谷探検隊がおとずれている。そして経巻類を持ちかえった。
 ロシアからも探検隊がやってきた。
 このころになって清国の政府も、ようやく動いた。
 軍隊を出して、取りのこされた文書類を、根こそぎはこび出した。
 このようにして敦煌の石窟におさめられていた文書の類は、大半がイギリスやフランスにいってしまった。
 それでも残りは、清朝政府が北京にもちかえったが、それはほとんど仏教の経典であった。
 こうした文書類は、ほかに例が見られないほどに貴重な遺産である。
 もちろん敦煌石窟の価値は、これらの文書類だけにあるわけではない。
 石窟そのものが、偉大な芸術の所産であった。
 戦時中の一九四四年(昭和十九年)、ときの国民政府は国立敦煌芸術研究所を開設して、壁画の模写や修理、そして保管の事業をはじめた。
 こえて一九五一年、中華人民共和国は敦煌文物研究所を開設し、現在にいたっている。
 敦煌の石窟は四百八十六。うち二十は敦湟文物研究所の発見にかかるものである。
 石窟には白い壁がぬられ、方形の入口をなして、扉のあるものも多い。
 それぞれの窟には、いまの研究所がきめた番号がつけてある。
 こういう石窟寺院はインドにおこり、仏教とともに西域から伝えられたものであった。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。