『宋朝とモンゴル 世界の歴史6』社会思想社、1974年
3 乱世の皇帝
1 契丹の華北支配
契丹(きったん)の太宗は、中国の北辺一帯の地、いわゆる燕雲(えんうん)十六州を手にいれたとき、大いによろこんで、その母后にかたったという。
「わたしは近ごろ、石郎(せきろう)がかならず使いをよこすことを夢みました。
いま、まさにそのとおりになりました。」
石郎というのは、後晋(こうしん)の高祖たる石敬塘(せきけいとう)のことである。
石敬塘は、みずから皇帝になろうとして、契丹のたすけをもとめ、燕雲十六州をさざげたのであった。
おまけに石敬将は、まことに卑屈な態度をとって、契丹の皇帝には「臣」と袮し、父の礼をもって仕えるにいたった。
契丹は石敬塘のことを「児皇帝(じこうてい)」とよんでいるが、「石郎」という表現にも、おなじような意味がこめられている。
こうして契丹は、中国の一部に領土をもった。
しかもその南にある中原の王朝(後晋)は、おのれに従属している。
侵入と掠奪(りゃくだつ)は、前にもまして容易となり、はげしくなった。
その矢面(やおもて)に立だされたのが、華北の民衆であった。
新しい領土は長城の南にあって、農耕に適している。
契丹は華北の農民をさかんに拉致(らち)した。
また十六州の地には、鉄や石炭がたくさん産出する。
このことも契丹の興隆にやくだった。
こののち、宋代にいたるまで、中国の諸王朝は、ついに長城以南から契丹を追いはらうことができなかった。
中国には、ながい苦難がもたらされることになる。
つまり石敬塘は、王朝の建設という野望とひきかえに、中国、とくに華北の民衆に、民族的苦難をあたえたといえるであろう。
契丹への従属策をおしすすめたのは、桑維翰(そういかん)を中心とする文官たちであった。
桑維翰のかんがえは、契丹へ従属することは好ましくないとしながらも、国力の差がある現在は、目をつぶって従属の関係に耐え、なによりも内政面を整備し、国力を充実することが急務だというのであった。
しかし後晋の王側のなかにも、従属の関係に承服しない勢力があった。
石敬溏のあとを出帝(石重貴)がついで即位すると、それが表面化した。
景延広(けいえんこう)のひきいる禁軍将校たちは「臣と称するをえず」という体面諭をふりかざして、主導権をにぎった。
契丹からはただちに詰問(きつもん)の使者が送られてきた。
すると景延広は、はっきりつっぱねた。
「たしかに先帝(石敬塘)は北朝(契丹)が立てたから臣と袮したが、今上(きんじょう=石重貴)は中国の立てた天子である。
貴国とは隣国となり、孫と袮すればよいことで、臣となるいわれはない。」
さらに、はげしい言葉をあびせかける。
「わが国には十万の横磨剣(おうまけん=精鋭な軍隊と兵器)がある。
もし戦うなら、すみやかにきたれ。天下は我々のものである。
かならずや後悔することになろう。」
軍人にありかちな視野のせまさが、ここに露呈していた。
自国の軍事力を過信して、相手の力の評価があまい。
さらに国内の状況、ことに決戦となった場合における節度使の動向について配慮が欠けていた。
桑維翰がおそれたのも、これらの点てあった。とくに節度使の動きであった。
こうして九四四年から、後晋と契丹は交戦状態にはいった。
後晋とてけっして弱くはない。
契丹の第一回の総攻撃は、しりぞけた。
中央において桑維翰が采配をふるっている間は、ともかく契丹軍の猛攻をくいとめることができたのであった。
ところが側近グループは、やがて桑維翰を追いだして権力をにぎる。
そのころ河東(太原)の節度使として勢力のあったのが、劉知遠(りゅうちえん)であった。
桑維翰とともに建国の元勲である。このひとが動かない。
側近グループに非協力で、契丹をふせぐのに傍観的な態度をとった。
そうなると、つぎの総攻撃では節度使クラスの武人が次々に降伏する。
一ヵ月たらずで後晋の軍は壊滅してしまった。
出帝をはじめ、皇后、皇太后、皇太妃、そして皇弟や皇子二人は側近もろとも捕虜となり、契丹兵の監視をうけながら長城をこえて、北方に連行された。
九四六年の末のことでてあった。
その後、出帝たちは北寒の地で、従者とともに自活の生活をおくらなければならなかった。
皇太妃は「わが身を火葬にし、骨を空にまいていただきたい。願わくは、せめて魂だけでも中国に帰りたい」といいながら死んでいったという。
出帝たちは、ついにふたたび中国に帰されることなく、十八年間の幽囚ののち、異郷に生涯をとじたのであった。
いまや華北のほとんど全域は、契丹が直接に支配するところとなった。
征服からまぬがれているのは、劉知遠が支配する河東藩鎮ばかりである。
かねてから、華北の民衆にたいして、後晋は収奪を強化していた。
契丹との決戦にあたり、物資や兵員の食糧がいくらでも必要であったからである。
徴税の役人には剣をさずけた。
徴税をこばめば断る、という威嚇(いかく)を形の上で示したのである。
役人は鎖や刀や杖などをもって、民家に押しいった。節度使たちもこれに便乗した。
悪いことに、契丹戦とかさなるようにして、天候の異変がつづいた。
華北は数年も連続して水・旱(かん=干ばつ)・蝗(いなご)の災害に見まわれ、長安の付近では十人のうち七、八人が餓死したという。
全国では数十万人にもおよび、家をすててさまよう人は数えきれなかった。
そのあげくに契丹の支配となったのである。
契丹人は「打草穀(だそうこく)」(稲刈り)といって、民家に押しいっては椋奪をかさねた。
刈りたおされたのは草原の草ではなく、華北の民衆であった。
これにさからえば、切り殺されたり、溝に役げこまれたりした。
3 乱世の皇帝
1 契丹の華北支配
契丹(きったん)の太宗は、中国の北辺一帯の地、いわゆる燕雲(えんうん)十六州を手にいれたとき、大いによろこんで、その母后にかたったという。
「わたしは近ごろ、石郎(せきろう)がかならず使いをよこすことを夢みました。
いま、まさにそのとおりになりました。」
石郎というのは、後晋(こうしん)の高祖たる石敬塘(せきけいとう)のことである。
石敬塘は、みずから皇帝になろうとして、契丹のたすけをもとめ、燕雲十六州をさざげたのであった。
おまけに石敬将は、まことに卑屈な態度をとって、契丹の皇帝には「臣」と袮し、父の礼をもって仕えるにいたった。
契丹は石敬塘のことを「児皇帝(じこうてい)」とよんでいるが、「石郎」という表現にも、おなじような意味がこめられている。
こうして契丹は、中国の一部に領土をもった。
しかもその南にある中原の王朝(後晋)は、おのれに従属している。
侵入と掠奪(りゃくだつ)は、前にもまして容易となり、はげしくなった。
その矢面(やおもて)に立だされたのが、華北の民衆であった。
新しい領土は長城の南にあって、農耕に適している。
契丹は華北の農民をさかんに拉致(らち)した。
また十六州の地には、鉄や石炭がたくさん産出する。
このことも契丹の興隆にやくだった。
こののち、宋代にいたるまで、中国の諸王朝は、ついに長城以南から契丹を追いはらうことができなかった。
中国には、ながい苦難がもたらされることになる。
つまり石敬塘は、王朝の建設という野望とひきかえに、中国、とくに華北の民衆に、民族的苦難をあたえたといえるであろう。
契丹への従属策をおしすすめたのは、桑維翰(そういかん)を中心とする文官たちであった。
桑維翰のかんがえは、契丹へ従属することは好ましくないとしながらも、国力の差がある現在は、目をつぶって従属の関係に耐え、なによりも内政面を整備し、国力を充実することが急務だというのであった。
しかし後晋の王側のなかにも、従属の関係に承服しない勢力があった。
石敬溏のあとを出帝(石重貴)がついで即位すると、それが表面化した。
景延広(けいえんこう)のひきいる禁軍将校たちは「臣と称するをえず」という体面諭をふりかざして、主導権をにぎった。
契丹からはただちに詰問(きつもん)の使者が送られてきた。
すると景延広は、はっきりつっぱねた。
「たしかに先帝(石敬塘)は北朝(契丹)が立てたから臣と袮したが、今上(きんじょう=石重貴)は中国の立てた天子である。
貴国とは隣国となり、孫と袮すればよいことで、臣となるいわれはない。」
さらに、はげしい言葉をあびせかける。
「わが国には十万の横磨剣(おうまけん=精鋭な軍隊と兵器)がある。
もし戦うなら、すみやかにきたれ。天下は我々のものである。
かならずや後悔することになろう。」
軍人にありかちな視野のせまさが、ここに露呈していた。
自国の軍事力を過信して、相手の力の評価があまい。
さらに国内の状況、ことに決戦となった場合における節度使の動向について配慮が欠けていた。
桑維翰がおそれたのも、これらの点てあった。とくに節度使の動きであった。
こうして九四四年から、後晋と契丹は交戦状態にはいった。
後晋とてけっして弱くはない。
契丹の第一回の総攻撃は、しりぞけた。
中央において桑維翰が采配をふるっている間は、ともかく契丹軍の猛攻をくいとめることができたのであった。
ところが側近グループは、やがて桑維翰を追いだして権力をにぎる。
そのころ河東(太原)の節度使として勢力のあったのが、劉知遠(りゅうちえん)であった。
桑維翰とともに建国の元勲である。このひとが動かない。
側近グループに非協力で、契丹をふせぐのに傍観的な態度をとった。
そうなると、つぎの総攻撃では節度使クラスの武人が次々に降伏する。
一ヵ月たらずで後晋の軍は壊滅してしまった。
出帝をはじめ、皇后、皇太后、皇太妃、そして皇弟や皇子二人は側近もろとも捕虜となり、契丹兵の監視をうけながら長城をこえて、北方に連行された。
九四六年の末のことでてあった。
その後、出帝たちは北寒の地で、従者とともに自活の生活をおくらなければならなかった。
皇太妃は「わが身を火葬にし、骨を空にまいていただきたい。願わくは、せめて魂だけでも中国に帰りたい」といいながら死んでいったという。
出帝たちは、ついにふたたび中国に帰されることなく、十八年間の幽囚ののち、異郷に生涯をとじたのであった。
いまや華北のほとんど全域は、契丹が直接に支配するところとなった。
征服からまぬがれているのは、劉知遠が支配する河東藩鎮ばかりである。
かねてから、華北の民衆にたいして、後晋は収奪を強化していた。
契丹との決戦にあたり、物資や兵員の食糧がいくらでも必要であったからである。
徴税の役人には剣をさずけた。
徴税をこばめば断る、という威嚇(いかく)を形の上で示したのである。
役人は鎖や刀や杖などをもって、民家に押しいった。節度使たちもこれに便乗した。
悪いことに、契丹戦とかさなるようにして、天候の異変がつづいた。
華北は数年も連続して水・旱(かん=干ばつ)・蝗(いなご)の災害に見まわれ、長安の付近では十人のうち七、八人が餓死したという。
全国では数十万人にもおよび、家をすててさまよう人は数えきれなかった。
そのあげくに契丹の支配となったのである。
契丹人は「打草穀(だそうこく)」(稲刈り)といって、民家に押しいっては椋奪をかさねた。
刈りたおされたのは草原の草ではなく、華北の民衆であった。
これにさからえば、切り殺されたり、溝に役げこまれたりした。