『宋朝とモンゴル 世界の歴史6』社会思想社、1974年
12 元朝の支配
5 ラマ僧の権威
元朝はモンゴル人の天下である。
いかに色目人が重用せられたからといって、それはモンゴル人の補佐たる役割のものであった。
サンガのように、色目人であって宰相につぐ地位にのぼった者もあるが、それは特例にすぎなかった。
中央と地方とを問わず、長官たる地位を占めたのは、やはりモンゴル人であった。
社会生活においても、モンゴル人は特権をもっていた。
たとえば
「モンゴル人と漢人とが争って、(モンゴル人が)漢人をなぐっても、漢人は報復することはできない。役人に訴えることをゆるす。」――これは法令として、正式に布告されたものなのである。
中国人がモンゴル人(色目人を含む)を殺せば、もちろん死刑である。
その上に、犯人の遺族は埋葬金をおさめねばならなかった。
モンゴル人は中国人を殺しても、罰金を課せられて軍役に服すればよかった。
また中国人は、盗みをすれば入れ墨を加えられる。
初犯は左臂(うで)、再犯は右臂、そして三犯になれば項(くび)におこなう(強盗は初犯でも項)。
ところがモンゴル人は、盗みをしても入れ墨をまぬがれた。
その罪も、おなじモンゴル人によって裁かれる定めであった。
モンゴル人のみを特別にあつかう精神は、文化政策の上においても見られた。
たとえば文字である。モンゴル人は、チンギス汗の時代から、ウイグル文字を用いている。
これは書きやすいけれども、モンゴル独自のものではなかった。
そこで世徂フビライは、チベット人のパスパ(八思巴)に命じて、新字をつくらせた。
これがパスパ文字であり。至元六年(一二六九)に公布される。そして正式の国字となった。
新しい国字を普及させるためには、大都(北京)の大学で教えるほか、地方にも新字のための学校を設けた。
これからは朝廷の儀式でも、この新字が用いられる。
パスパ文字は、チベット文字を改良したものである。
かなと同じような音標文字で、たて書きにして、左から右へ行を追う。
モンゴル語やチベット語はもちろん、中国語やトルコ語、さらにはサンスクリット(梵語)まで書写することができた。しかし何といっても読みにくい。書きにくい。つまり不便であった。容易に普及しなかった。
モンゴル人でさえも、この不便な文字を使いきれず、やはり従来のウイグル文字をつかっている。
官庁の公文書でさえも、ウイグル文字で書くことが多い。まして中国人のあいだでは、ほとんど用いる者がなかった。
元代の各国文字(左よりパスパ文字、チベット文字、ウイグル文字、
右の図版は元代六種の字体の刻文)
中国の古典も、次々にパスパ文字に訳して刊行する。
詔令もパスパ文字で発布する。ついにはウイグル文字で法令を書くことを、禁じてしまった。
それほど努力しても、いっこうに普及しなかった。
元朝が倒れると、このパスパ文字も、運命をともにしたのである。
かえってウイグル式の文字が、後世まで残った。
一般にモンゴル文字とよばれているのは、すなわちウイグル文字のものである。
ところで、パスパはラマ僧であった。ラマ教というのは、チベットにおける仏教の一派である。
土地の信仰とむすびついて、かなりの変化をとげている。
いわば一種の密教であって、呪文をとなえ、秘密の修法をおこなった。
このラマ教を、フビライが尊信するにいたったのである。
そしてチベットを征服したときに見いだしたのが、聖童のほまれ高いパスパであった(一二五三)。
ときにパスパは十五歳。
やがてフビライが即位すると、パスパを帝師としてあがめ、諸国の仏教を統管する地位をあたえた。
パスパの死後(一二七八)も、帝師たる者はすべてチベットからむかえられた。
元朝において、ラマ僧の尊信されたことは、おどろくほどである。
その地位は、モンゴル人の上にあった。
まして帝師となれば、絶対の権威であり、皇后や皇子もその前では拝さねばならなかった。
帝師が外出するときには、大汗の儀仗の半分を具することがみとめられた。
宏壮なラマ寺も、次々に建立せられた。法会もまた、豪華そのものにいとなまれた。
それが、ことごとく国費を用いるのである。ラマ僧は、国家の優遇をよいことに、すこぶる専横をきわめた。
役人としても、おさえることができない。
ひとの宝物をうばったり、ときには皇族や官吏に危害をくわえても、罪に問われなかった。
「ラマ僧を打った者は、その手を切り、これをののしった者は、その舌を断つ。」
こういう法令を出そうとしたことさえある。
さすがに実行はされなかったが、もってラマ僧の権威をうかがうことができるてあろう。
12 元朝の支配
5 ラマ僧の権威
元朝はモンゴル人の天下である。
いかに色目人が重用せられたからといって、それはモンゴル人の補佐たる役割のものであった。
サンガのように、色目人であって宰相につぐ地位にのぼった者もあるが、それは特例にすぎなかった。
中央と地方とを問わず、長官たる地位を占めたのは、やはりモンゴル人であった。
社会生活においても、モンゴル人は特権をもっていた。
たとえば
「モンゴル人と漢人とが争って、(モンゴル人が)漢人をなぐっても、漢人は報復することはできない。役人に訴えることをゆるす。」――これは法令として、正式に布告されたものなのである。
中国人がモンゴル人(色目人を含む)を殺せば、もちろん死刑である。
その上に、犯人の遺族は埋葬金をおさめねばならなかった。
モンゴル人は中国人を殺しても、罰金を課せられて軍役に服すればよかった。
また中国人は、盗みをすれば入れ墨を加えられる。
初犯は左臂(うで)、再犯は右臂、そして三犯になれば項(くび)におこなう(強盗は初犯でも項)。
ところがモンゴル人は、盗みをしても入れ墨をまぬがれた。
その罪も、おなじモンゴル人によって裁かれる定めであった。
モンゴル人のみを特別にあつかう精神は、文化政策の上においても見られた。
たとえば文字である。モンゴル人は、チンギス汗の時代から、ウイグル文字を用いている。
これは書きやすいけれども、モンゴル独自のものではなかった。
そこで世徂フビライは、チベット人のパスパ(八思巴)に命じて、新字をつくらせた。
これがパスパ文字であり。至元六年(一二六九)に公布される。そして正式の国字となった。
新しい国字を普及させるためには、大都(北京)の大学で教えるほか、地方にも新字のための学校を設けた。
これからは朝廷の儀式でも、この新字が用いられる。
パスパ文字は、チベット文字を改良したものである。
かなと同じような音標文字で、たて書きにして、左から右へ行を追う。
モンゴル語やチベット語はもちろん、中国語やトルコ語、さらにはサンスクリット(梵語)まで書写することができた。しかし何といっても読みにくい。書きにくい。つまり不便であった。容易に普及しなかった。
モンゴル人でさえも、この不便な文字を使いきれず、やはり従来のウイグル文字をつかっている。
官庁の公文書でさえも、ウイグル文字で書くことが多い。まして中国人のあいだでは、ほとんど用いる者がなかった。
元代の各国文字(左よりパスパ文字、チベット文字、ウイグル文字、
右の図版は元代六種の字体の刻文)
中国の古典も、次々にパスパ文字に訳して刊行する。
詔令もパスパ文字で発布する。ついにはウイグル文字で法令を書くことを、禁じてしまった。
それほど努力しても、いっこうに普及しなかった。
元朝が倒れると、このパスパ文字も、運命をともにしたのである。
かえってウイグル式の文字が、後世まで残った。
一般にモンゴル文字とよばれているのは、すなわちウイグル文字のものである。
ところで、パスパはラマ僧であった。ラマ教というのは、チベットにおける仏教の一派である。
土地の信仰とむすびついて、かなりの変化をとげている。
いわば一種の密教であって、呪文をとなえ、秘密の修法をおこなった。
このラマ教を、フビライが尊信するにいたったのである。
そしてチベットを征服したときに見いだしたのが、聖童のほまれ高いパスパであった(一二五三)。
ときにパスパは十五歳。
やがてフビライが即位すると、パスパを帝師としてあがめ、諸国の仏教を統管する地位をあたえた。
パスパの死後(一二七八)も、帝師たる者はすべてチベットからむかえられた。
元朝において、ラマ僧の尊信されたことは、おどろくほどである。
その地位は、モンゴル人の上にあった。
まして帝師となれば、絶対の権威であり、皇后や皇子もその前では拝さねばならなかった。
帝師が外出するときには、大汗の儀仗の半分を具することがみとめられた。
宏壮なラマ寺も、次々に建立せられた。法会もまた、豪華そのものにいとなまれた。
それが、ことごとく国費を用いるのである。ラマ僧は、国家の優遇をよいことに、すこぶる専横をきわめた。
役人としても、おさえることができない。
ひとの宝物をうばったり、ときには皇族や官吏に危害をくわえても、罪に問われなかった。
「ラマ僧を打った者は、その手を切り、これをののしった者は、その舌を断つ。」
こういう法令を出そうとしたことさえある。
さすがに実行はされなかったが、もってラマ僧の権威をうかがうことができるてあろう。