『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
2 ブルボン王朝余話、フランスの大政治家リシュリュー
6 サロンの客
このフロンドの乱に関係した貴族のひとりに、ラ・ロシュフコー(一六一三~八〇)という人物があった。
彼の家柄は父がフランソワ五世と袮するような、大貴族中の大貴族である。
彼はこの父の死(一六五〇)まで、マルシャック公とよばれた。少年期のことはよくわからないが、公爵家の領地ベルツイユの城館でのびのびした、しかし孤独な日々をおくったらしい。
まだ十四歳半くらいで、やはり名門の貴族の娘と結婚、八人の子供ができたが、この夫人についてはほとんど不明である。
一方、彼は一六二八年から三六年ごろ、軍務に服するとともにルイ十三世の宮廷につかえている。
この宮廷では、シュブリュース公妃らの反リシュリュー陰謀に加担して失敗し、三七年にはごくわずかな日数だがバスティーユへ投獄され、またベルツイユに追放された。
その後、彼は軍務および宮廷に復帰し、リシュリューの死後は、新しい宰相マザランに対する陰謀に関係した。
そして彼は、同じく反マザラン派のロングビル公妃(一六一九~七九)に対する恋情のとりことなり、あのフロンドの乱に身を投じたのである。
「女というよりは天使とよぶにふさわしい。」「フランス中でもっとも愛らしい女性」と、あの辛辣なレス枢機卿を感嘆させたロングビル公妃に、ラ・ロシュフコーは、「生命をもささげてかえりみない情熱」を睹しつつ、フロンドの乱に参加した。
そして一六五二年七月、彼はあのパリ近郊の戦闘で顔面に負傷し、あやうく両眼を失明するところであった。
これをまぬがれたのち、公爵はつぎのような意味の詩句をもって、忘れえぬ女性の面影をしのんだという。
「王との戦を辞せず、両の眼を失おうとした私。でもこんなに愛しい人のためならば、私は神にも挑むでしょう。」
フロンドの乱も終わり、一六五三年に四十歳となったラ・ロシュフコーは故郷で敗残の生活を、この乱を中心とする『回想録』(一六六二)の執筆におくることとなった。
やがてルイ十四世から年金や勲章をうけているので、王の不興はしだいにとけていったものとみえる。
しかし彼はパリに帰ってからも、もっぱら社交界の人となり、公的な場からは身をひいた。
また五十歳をこえたころ痛風にかかり、以後この持病に苦しむこととなった。
彼がサロンの客となったとき、すでにランブーイエ邸の時代はすぎていた。
ランブーイエ邸とは、フランスで最初の有名なサロンである。
フランスにおけるサロンは一六一○年代にはじまる。
十六世紀後半、宗教内乱時代のフランスでは戦乱に明け暮れるうちに、格式は失われ、礼儀作法もすたれていった。
アンリ四世時代には、人びとは「水車小屋にはいるように」ルーブル宮に出入りできたし、ルイ十三世は食卓で何か気にいらないことがあると、かたわらの貴婦人に酒をはきかけたりした。
またアンリ四世やリシュリューの禁止にもかかわらず、決闘もしばしば行なわれた。
こうして粗暴で武骨な風習にあきたらず、礼節、洗練をもとめた人びとのなかに、ランブーイエ候妃カトリーヌ・ド・ビボンヌ(一五八八~一六六五)という女性があった。
彼女は外交官の娘で、ローマにうまれ育ち、その開化された雰囲気をパリにもちこみたいと思った。そこで彼女は一六一〇年ごろから自分の邸宅を、礼儀正しく、洗練された社交場として提供することにした。
ここではランブーイエ夫人と娘ジュリー(一六○七~七一)を中心として、社交一般からはじまり、知的な会話、思想の交換、自作の文芸作品の朗読やそれに対する批評などが展開された。
元来サロンとは客間を意味する言葉にすぎないが、こうして特別の社交場を示すこととなった。
そしてランブーイエ邸の盛時は、一六三〇年から四五年ごろまでつづいた。
ここに出入りした人びとのなかには、劇作家コルネイユ、大説教家ボシュエ、フロンドの乱で有名なコンデやロングビル公妃、書翰文学のセビニエ夫人、心理小説の傑作『クレーブの奥方』の作者ラ・ファイエット夫人などの姿が見うけられた。
そしてラ・ロシュフコーもまた、若いころこのランブーイエ邸の客人であった。
それが衰えてからも、ニノン・ド・ランクロ、スキューデリ嬢、サブレ夫人、セビニエ夫人など、主として女性を中心とした貴族的、ブルジョワ的サロンのかずかずが、ルイ十四世時代におよんでも、パリをにぎわした。