「第64図 福音的徳(謙遜、清貧、貞節、従順)」『公教要理図解』ワグネル神父
◎福音的徳
1
福音的徳とは、枢要徳に附属するもので、福音書中において、特に奨励された徳である。
2
福音的徳には、謙遜、清貧、貞節、従順の4つの徳がある。
◎謙遜のこと
3
謙遜とは、己の欠点を認め、かつ、己の持っているいささかの善を、わがものではなく、天主のものと思わせる徳である。
◎清貧のこと
4
清貧とは、我らの精神を、天主のみに向かわせる為に、この世の財宝を軽んじさせる徳である。
◎貞節のこと
5
貞節とは、禁じられた肉情を避け、赦された肉情であっても、その度を過ごさぬように致す徳である。
◎従順のこと
6
従順とは、すべての長上の者を、天主の代理者であると思い、その正しい命令に、服従させる徳である。
7
今述べた4つの徳は、キリスト教の完徳の基礎と言って、完全なるキリスト信者になりたいと思う人の守るべき道である。
しかし、ここによく注意すべきことがある。それは、イエズスキリストが、この4つの徳を超自然徳と為し、完全に守るように教えて下さったのは、命令的に、すなわち、キリスト信者が皆是非守らなければならないとして教えてくださったのではなく、ただ、守るがよいと、勧めてくださったにすぎないのである。それゆえに、天主から特別のお招きを受けた人だけは、イエズスキリストのこの御勧めに従い、人並みに優れたほど以上の4つの徳を行うために行者となるのである。行者または修道士とは、謙遜の徳を始終守る決心の上に、3つの願を立てた人である。
その3つの願とは、すなわち、
(1)貧乏で暮らすこと(清貧の願)
(2)完全なる貞操すなわち童貞を守ること(不犯の願)
(3)長上の命令に従うこと(従順の願)
である。
8
福音書中に、イエズスキリストが、一人の青年を、完徳の道に招き給うたことが記してある。
一人の重立ちたる者、イエズスに問いて、善き師よ、我何をなしてか永遠の生命を得べき、と言いしかば、イエズスのたまいけるは、何ぞ我を善きと言うや、神ひとりの他に善きものはあらず、汝は掟を知れり、すなわち殺すなかれ、姦淫するなかれ、盗みするなかれ、偽証するなかれ、汝の父母を敬え、とこれなり、と。彼、幼年よりことごとくこれを守れり、と言いしに、イエズスこれを聞きてのたまいけるは、汝、なお一つを欠けり、ことごとく汝の持てる物を売りて、これを貧者に施せ、しからば天において宝を得ん、しかして後、来たりて我に従え、と。これを聞きて、彼いたく悲しめり、そは富豪なればなり。イエズス、彼が悲しむを見てのたまいけるは、富める者の神の国に入るはいかに難きぞや、けだし駱駝が針の穴を通るも、富者が天国に入るよりは易し、と。これを聞ける人々、しからば誰か救わるることを得ん、と言いたるに、イエズスのたまいけるは、人に叶わざる事も神には叶うものぞ、と。
(聖ルカ福音書18章18節から27節まで)
◎絵の説明
9
上段の左方には、謙遜の一例として、洗者聖ヨハネのことが書いてある。ある日、ユダヤ人らは、エルサレムから司祭とレビ人等をヨハネのところへ遣わして、「汝は誰か」と尋ねさせた。ヨハネは、「私はキリストではない。エリヤでも、預言者でもない」と告白した。
よって、彼らはヨハネに向い、
「お前はキリストもなく、エリヤでもなく、預言者でもないのに、どうして洗礼を授けているのか」と申した。
そのときヨハネは、「私は水で洗礼を授けているが、あなたがたが未だ知らない者が一人ある。その方は、私より後に来られることになっていて、しかも、私にまさる者である。私はその方の靴のひもを解く値打ちもない」と、彼らに答えた。
10
聖会のはじめごろの信者は、清貧の徳を完全に行った。土地家屋を持っている者は売り、その代金を、上段の右方に書いてあるとおり、使徒たちのところに持参し、これを受け取った使徒らは、さらにこれを 困窮する信者方に分配して配った。
11
下段の左方には、完全なる従順の一例として、ゼベダイの子、聖ヤコブと聖ヨハネとのことが書いてある。ある日、彼らがその網を繕っていると、イエズスがその所へお越しになって、「我に従え」と仰せられた。そのとき、二人は、ゼベダイ及び共に働いていた者等を、船の中に残して、ただちに我が主に従い、弟子となった。
(聖マタイ福音書第4章21節参照)
12
下段の右方には、潔白な心を殊に愛し給う、イエズスキリストと、そのおそばには、最も完全なる貞節によって著名である4人の聖人が書いてある。御主の右方の二人は、終生童貞なる聖マリアと、洗者聖ヨハネである。左側のは、聖ヨゼフと、福音史家聖ヨハネの二人である。
◎福音的徳
1
福音的徳とは、枢要徳に附属するもので、福音書中において、特に奨励された徳である。
2
福音的徳には、謙遜、清貧、貞節、従順の4つの徳がある。
◎謙遜のこと
3
謙遜とは、己の欠点を認め、かつ、己の持っているいささかの善を、わがものではなく、天主のものと思わせる徳である。
◎清貧のこと
4
清貧とは、我らの精神を、天主のみに向かわせる為に、この世の財宝を軽んじさせる徳である。
◎貞節のこと
5
貞節とは、禁じられた肉情を避け、赦された肉情であっても、その度を過ごさぬように致す徳である。
◎従順のこと
6
従順とは、すべての長上の者を、天主の代理者であると思い、その正しい命令に、服従させる徳である。
7
今述べた4つの徳は、キリスト教の完徳の基礎と言って、完全なるキリスト信者になりたいと思う人の守るべき道である。
しかし、ここによく注意すべきことがある。それは、イエズスキリストが、この4つの徳を超自然徳と為し、完全に守るように教えて下さったのは、命令的に、すなわち、キリスト信者が皆是非守らなければならないとして教えてくださったのではなく、ただ、守るがよいと、勧めてくださったにすぎないのである。それゆえに、天主から特別のお招きを受けた人だけは、イエズスキリストのこの御勧めに従い、人並みに優れたほど以上の4つの徳を行うために行者となるのである。行者または修道士とは、謙遜の徳を始終守る決心の上に、3つの願を立てた人である。
その3つの願とは、すなわち、
(1)貧乏で暮らすこと(清貧の願)
(2)完全なる貞操すなわち童貞を守ること(不犯の願)
(3)長上の命令に従うこと(従順の願)
である。
8
福音書中に、イエズスキリストが、一人の青年を、完徳の道に招き給うたことが記してある。
一人の重立ちたる者、イエズスに問いて、善き師よ、我何をなしてか永遠の生命を得べき、と言いしかば、イエズスのたまいけるは、何ぞ我を善きと言うや、神ひとりの他に善きものはあらず、汝は掟を知れり、すなわち殺すなかれ、姦淫するなかれ、盗みするなかれ、偽証するなかれ、汝の父母を敬え、とこれなり、と。彼、幼年よりことごとくこれを守れり、と言いしに、イエズスこれを聞きてのたまいけるは、汝、なお一つを欠けり、ことごとく汝の持てる物を売りて、これを貧者に施せ、しからば天において宝を得ん、しかして後、来たりて我に従え、と。これを聞きて、彼いたく悲しめり、そは富豪なればなり。イエズス、彼が悲しむを見てのたまいけるは、富める者の神の国に入るはいかに難きぞや、けだし駱駝が針の穴を通るも、富者が天国に入るよりは易し、と。これを聞ける人々、しからば誰か救わるることを得ん、と言いたるに、イエズスのたまいけるは、人に叶わざる事も神には叶うものぞ、と。
(聖ルカ福音書18章18節から27節まで)
◎絵の説明
9
上段の左方には、謙遜の一例として、洗者聖ヨハネのことが書いてある。ある日、ユダヤ人らは、エルサレムから司祭とレビ人等をヨハネのところへ遣わして、「汝は誰か」と尋ねさせた。ヨハネは、「私はキリストではない。エリヤでも、預言者でもない」と告白した。
よって、彼らはヨハネに向い、
「お前はキリストもなく、エリヤでもなく、預言者でもないのに、どうして洗礼を授けているのか」と申した。
そのときヨハネは、「私は水で洗礼を授けているが、あなたがたが未だ知らない者が一人ある。その方は、私より後に来られることになっていて、しかも、私にまさる者である。私はその方の靴のひもを解く値打ちもない」と、彼らに答えた。
10
聖会のはじめごろの信者は、清貧の徳を完全に行った。土地家屋を持っている者は売り、その代金を、上段の右方に書いてあるとおり、使徒たちのところに持参し、これを受け取った使徒らは、さらにこれを 困窮する信者方に分配して配った。
11
下段の左方には、完全なる従順の一例として、ゼベダイの子、聖ヤコブと聖ヨハネとのことが書いてある。ある日、彼らがその網を繕っていると、イエズスがその所へお越しになって、「我に従え」と仰せられた。そのとき、二人は、ゼベダイ及び共に働いていた者等を、船の中に残して、ただちに我が主に従い、弟子となった。
(聖マタイ福音書第4章21節参照)
12
下段の右方には、潔白な心を殊に愛し給う、イエズスキリストと、そのおそばには、最も完全なる貞節によって著名である4人の聖人が書いてある。御主の右方の二人は、終生童貞なる聖マリアと、洗者聖ヨハネである。左側のは、聖ヨゼフと、福音史家聖ヨハネの二人である。