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公教要理図解:第60図 七つの罪源(続き) どん欲、邪淫、饗食

2022-06-11 20:34:58 | 要理(カテキズム)
「第60図 七つの罪源(続き) どん欲、邪淫、饗食」『公教要理図解』ワグネル神父

◎「どん欲」のこと


どん欲 とは、現世の財貨を、むやみに惜しみ、むさぼることである。


現世の財貨を愛することは、一概に禁じていない。禁じてあるのは、ただ、それを過度に愛することのみで、財貨がわれらに救霊を得させる手段として、天主から与えられたものと信じ、天主の聖旨に背かず、それを愛して使用することは決して禁じていないのである。


どのような人が、現世の財貨をむやみに愛するかといえば、たとえ、天主に背いてでも、財を求め、あるいは保ち、あるいは増やそうとしている人である。


どん欲の罪は大罪である。聖パウロは、これを偶像拝と名付けました。そして、どん欲である者は天国へ入ることができないと申されたのである。


貧乏人でも、どん欲の罪に陥ることがある。なぜならば、今、現に持っている財貨を、むやみに愛することのみならず、まだもっていない財貨を、むやみに望むのも、やはりどん欲の罪である。


どん欲は、種々の悪しき結果を生じさせる。まず、我等を、貧乏人に対して無慈悲な者、天国の幸いに対しては無頓着な者とならせる。また、時としては他人の財貨でも、盗み取りたいとの悪心をも起こさせるのである。


どん欲の反対は、天主のために現世の財貨を軽んずる善徳である。


どん欲の情を矯正しようと思えば、
(1)イエズスキリストが貧乏でおられ、枕する場所も御所有にならなかったということを考える
(2)いつの日か、我等の財貨を取り上げる死去のことを、たびたび思い出す
(3)各自、その身分に従って、施しをなし、貧乏人を扶助せねばならない
のである。

◎「邪淫」のこと


邪淫とは、天主が第6と第9のおきてをもって、禁じられた罪である。

10
邪淫は、種々の悪しき結果を生じさせる。すなわち、宗教上のつとめを嫌わせ、知恵をくらませ、精神を頑固にし、身体の健康、霊魂の美徳を害し、臨終にいたっても、改心させないことがしばしばある。

11
邪淫の反対は、貞操という善徳である。

◎「饗食」のこと

12
「饗食」とは、飲食をみだりにたしなみ、その度をすごすことである。

13
みだりに飲食をたしなむとは、あるいは、飲食の度を過ごすことであり、あるいはただ、肉欲を満足させるために飲食することである。

14
飲食を為すときには、必ず天主に仕え、自己の義務を尽くしたい為に、生命を保つというこころが無ければならぬ。

15
饗食は大罪である。聖パウロも、この罪を犯すものは、偶像教徒に等しい者であるとして、「彼らはその腹を神としているのだ」と申しているのである

16
饗食の内にも、最も恐るべきものは、意志が錯乱するまで酒の度を過ごすことである。

17
饗食の結果は、大斎、小斎を破り、次第次第に愚か者となり、度々失言を為し、喧嘩をいたし、邪淫に溺れる等である。

18
酒を飲み過ごす癖は身体の健康を害し、家産と名誉とを失わせ、しばしば哀れな若死にを招くこともある。

19
饗食に反対の徳は、節制である。

20
饗食を予防する良薬は、
(1)食事の前後に祈祷を唱えること
(2)毎日飲食を控えめにすること
(3)飲食店や料理屋のようなところへ出入りせず、また、そのようなところへ、我等を出入させる人と交際しないこと
などである。

◎絵の説明

21
ユダが銀30枚で、イエズスキリストを敵の手に渡したのは、これ全く、「どん欲」のためで、その時の有様はこの絵の上段に記してある。すなわち、ユダは手に財布をもち、司祭長と学士等とが、イエズスキリストを捕える方法について、相談しているところへ参り、会長の目前に出て御主を渡す約束を致している。

22
絵の中央には、聖ルカ福音書第15章に記されている、イエズスキリストがおっしゃった、放蕩息子のたとえ話で、すなわち、次のとおりである。

<聖ルカ福音書 第15章11-25>
放蕩息子

また、イエズスは仰せになった。
「ある人に二人の息子があった。弟が父に向かって、『お父さん、わたしのもらうべき財産の分け前をください』
と言った。そこで、父は資産を二人にわけてやった。幾日もたたないうちに、弟は全部のものをまとめて、遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩に身を持ち崩し、財産をむだ遣いした。全部使い果たしてしまったとき、その地方にひどいききんが起こって、食べるものにも困りだした。そこで、その地方のある地主のところへ行って、すがりつくと、その人は、彼を畑にやって豚を飼わせた。彼は、豚の食べるいなご豆で空腹を満たしたいほどであったが、食べ物を与えてくれる人はだれもいなかった。
そこで、息子は本心にたち返って言った。
『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、食べ物があり余っているのに、わたしはここで飢え死にしようとしている。
 さあ、出かけて父のもとに行こう。そして、こう言おう。
 《お父さん、わたしは天に対しても、あなたに対しても罪を犯しました。
  もう、あなたの子と呼ばれる資格はありません。どうか、あなたの雇い人の一人にしてください》』と。
そこで彼は立って父のもとに行った。ところが、まだ遠くはなれていたのに、父は息子を見つけて哀れに思い、走りよって首を抱き、口づけを浴びせた。
息子は父に向かって、
『お父さん、わたしは天に対しても、あなたに対しても罪を犯しました。もう、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』
と行った。
しかし、父はしもべたちに言った。
『急いで、いちばん良い着物を出して、この子に着せなさい。
 手には指輪をはめ、足には、履物をはかせなさい。
 それから、ふとらせた子牛を引き出してほふりなさい。食事をして喜び合おう。
 この子は死んでいたのに行き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから』と。」

23
旧約時代のエサウが、わずかに一鉢の豆が欲しいために、その長男の権利を弟のヤコブに譲渡したのも、全く、饗食のためであった。そして、その時の有様は、この絵の下段に書いてある。








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