『中世ヨーロッパ 世界の歴史5』社会思想社、1974年
4 ノルマン侵入でのバリの戦い
3 ノルマン侵入でのパリの戦い
喜びをもって語れ、おお、汝、全能の神に救われしもの、ルテチアよ。
アボンのラテン語韻文『バリ(古名ルテチア)の町の戦い』はこう歌い出している。
アボンはパリの東、サン・ジェルマン・デ・ブレ修道院の一修道士で、ネウストリア、別のいいかたでは「セーヌとロワールのあいだの土地」の生まれだった。
その生涯のことは、ほとんど知られていない。
九一四年ないし一九年の日付をもつ勅令の記載に、同修道院の「訪問客宿舎係」としてアボンという修道士の名がみられ、おそらくこれと同一人物と考えられている。
その後、おそらく九二〇年代まで生きていたらしい。
とすると、この詩に歌われた八八五年から六年にかけての事件のあったときには、彼は、まだ若年の一修道士であったことになる。
『パリの町の戦い』は、三部千三百九十三行からなるが、第三部の百十五行は、ただ「聖三位一体への敬(うやま)いにおいて」三部構成にするためのつけたしにすぎず、また、このときのノルマン侵冦に関する叙述は、第二部六百十八行のうち三百四十六行までであり、以下は、その後の情勢の推移、パリ伯ウードの事績についての叙述である。
第二部の最終行に、パリ伯ウードについて、「その存在はわれらが世の守り」と歌っているところから、八九八年にはすでに書き終えられていたことが知られる。
ウードは八九八年一月に死んだからである。
また、このウードを「未来の王」と呼び、さらに、八八八年二月のウード戴冠のことを歌っているところから、八八八年以後に書き始められたことがわかる。
八八五年十一月二十四日、「舷側の高い舟七百と、かぞえきれぬほどの小舟多数」がセーヌをさかのぼってパリの町に近づき、そのため「セーヌの深い流れは、ほとんど下流二リュー(八キロメートル)にもわたって、あたかも塞がれ、いったいどこの洞穴に流れがはいってしまったのかと、人々がいぶかしみ、あやしむほどであった。」
ここに侵攻したノルマン人の数を、アボンは「四十の千倍」つまり四万と報告している。
もし舟数が信用できれば、この数字は信用できる。
なぜならノルマンの舟は平均五十人ていどを乗せる。
その七百隻に、「無数の小舟」だったのだから。
ところでセーヌ川にはいったノルマン人は、デンマークのノルマン人が多数を占めていた。
アボンは「デーン人」という呼称をよく使っているが、これはすでに述べたように、とくに限定して「デンマーク人」をさすものではなかった。
我々も、デーン人、ノルマン人というふたつの呼称を、アボンにならって、区別せずに使うことにしよう。
さて、前述のように、パリは、すでに八四五年に、セーヌを遡行するノルマン勢の姿をみかけている。
その後、八五六年、八六一年、八六五年と、ノルマンの船団はバリ近郊にまではいりこみ、周辺の農村地帯を荒らしたが、パリの市壁には近づかなかった。
またさらに上流へ進もうとも試みなかった。
ところが今度はちがっていた。
二日後のあけがた、デーン人の長ジークフリードは、パリ司教の館におもむき、バリ司教ゴズランに
「町には手をつけない。あなたの名誉ならびにウードのそれを守るようにつとめよう。
ただこの町を越えて先へゆかせてくれ」
と申し入れた。司教はこれを拒絶した。
そこでジークフリードは自陣に帰り、全軍を集めて、総攻撃を開始した。
当時のパリ市街は、セーヌ川の中州(なかす)、いわゆる「シテ島」の部分のみだった。
市街は、川岸から数十メートルひっこんだローマ時代以来の石壁に囲まれていた。そのスペースは、最大の長さ四九〇メートル、最大の幅一八○メートルの変型楕円型で、面積ははぼ八ヘクタールあった。
対岸への橋は、右岸にかかる「大橋」と、左岸にかかる「小橋」のふたつしかなく、「大橋」は現在の「両替(りょうがえ)橋」の位置にあたり、これを渡る道筋はサン・ドニヘ通じる。橋の対岸のたもとに塔があり、これは関所(せきしょ)であり、町の防衛の拠点でもあった。この「塔」に、デーン人たちは襲いかかったのである。
初日の戦いのことを、アボンはあっさり書き流している。
「石や矢が乱れとんだ。橋が揺れきしんだ。
ウードとその弟ロベール、司教の甥にあたる、サン・ジェルマン・デ・プレ修道院長エープルが活躍した。
そして、太陽神(アポロン)が西の方(かた)に沈み、敵勢は退いた」と。
塔は、基礎の部分はできていたのだが、じつは、まだ未完成であった。
その夜、木造りの木組みがいそいで作られ、この「夜の塔」に、翌朝ふたたびデーン勢は襲いかかった。
塔を守るものは二百。デーン勢は、つぎつぎに新たな戦士をくりだす。
投げ槍がとび、板にくいこみ、塔はうめいた。つるはしを使って塔の根方を堀りくずそうとした連中には、煮えたぎった蝋(ろう)や油を流しかける。
車輪を投げおとし、押しつぶす。甲冑(かっちゅう)、楯のぶつかりあう音。入り乱れる叫び声。
死者をむかえたデーン人の女たちの悲しみなげく声。
デーン勢は塔の門に火を放った。黒煙が、一時(いっとき)のあいだ、戦うものたちを包んだが、やがて風向きが変わったせいか、アボンのいうように、「主(しゅ)がフランク勢をあわれみたもうた」せいか、黒煙はデーン勢の上に流はじめた。
と、市街から大橋を渡って、ふたりの戦士が塔にかけよったかとみると、塔によじのぼり、「サフランの色の旗」をかかげた。デーン人はこの旗を恐れた、という。
この「サフラン色の旗」というのは、「オリフラム」すなわちサン・ドニ修道院の祭旗であり、十一世紀以降、しばしばフランス国王がこれを王の旌旗(せいき=軍旗)としたため、「国王旗」と誤称されるようになったものをさしているのではないか、という解釈がある。
しかし、なぜこれをデーン人が恐れたのか、また、この旗がかかげられたことにはどんな意味があったのか、なにを考えてアボンはこのことを記述したのか、いっさい不明である。
これが山だった。デーン勢は、三百の死者をだして後退した。
その後、バリの人々は、塔の修復にたち働いた。
以上が第一回目の「塔の戦い」である。
その後、デーン勢は、右岸サン・ジェルマン・ローセロワ修道院近くに陣地を構築し、パリ攻囲の態勢をととのえた。
バリ右岸は、彼らの劫掠の手にゆだねられた。
だがパリの町は屈しない。
アポンは、王国を襲った「デーンの禍」を格調高く語り、抵抗のみられぬことを嘆き、ただパリのみが、「恐怖の渦のただなかに、恐れず、笑って立つ」と讃えている。
第二回目の攻防は、翌年一月三十一日から二月二日にかけて展開された。
デーン勢は、七つの車輪のついた台の上にすえられた巨大な角材の破城槌(はじょうづち)をおしだして襲いかかってきた。
一月三十一日の明けがたの刻である。
「ちょうど肉桂(にっけい)、たちじゃこう草、その他の木々、野の草花から吸い集めた蜜に羽をふくらませた蜂の群れが巣に帰るように、この不運に魅入られたデーン人たちは、飛びかう矢の下に、ぶつかりあう鉄の下に、肩をちぢめて塔門をめがける。
彼らの手にする剣に野は埋まり、楯にセーヌは隠れた。
何千もの溶けた鉛の塊が絶え間なく町中(まちなか)に落下する。
橋の上、見張りの小塔(おそらくは、銃眼をうがった見張り所のこと)のそれぞれには、強力な役石器がすえられている。
いたるところで軍神マルスは怒りにその身をゆだね、威たけ高に君臨する。
教会の青銅の鐘の吠えぬはなく、大気は悲しみの響きに満たされた。
砦はふるえ、町の住民は叫び、鋭いラッパの音が鴫りひびく。
恐怖が人々の心を圧し、塔の中にもはいりこむ」。
ここでアボンは、司教ゴズラン、「その甥、軍神マルスの寵をうける修道院長」エープル、またロベール、ウード等々と英雄の名を列挙する。
「軍神マルスの寵をうける修道院長」とは、なんともものすごい感じではないか。
だが、こういった聖職者のタイプはむしろ普通だったのである。
エーブルは、ゴズランの死後、サン・ドニおよびジュミェージュ修道院をもあずかることになる。
当時、北フランス教会組織の中枢にあった高位聖職者である。
エーブルには、『ロランの歌』にでる大司教テュルパンのおもかげが重なってはいないか。
いや、正確にいえば、十二世紀の叙事詩『ロランの歌』に登場する大司教テュルパンは、エープルのようなタイプの聖職者のおもかげを写しているのである。
大司教テュルパンは、もちろん架空の人物だが、シャルルマーニュの甥とされるロランそのひとにしても、エギンハルズスの『シャルルマーニュ伝』には、ただ一個所、ピレネー山中峡谷の戦いに倒れた将士のひとり、「ブルターニュ辺境伯」として出ているだけなのである。
ロランもまた、後世に創造された人物であり、この点、事情はテュルバンと変わりはしない。
おそらく、この「ピレネー山中峡谷の戦い」(『ロランの歌』では「ロンスボーの戦い」)に同行した高位の聖職者がいたでもあろう。
ちょうど「バリの戦い」に英雄の名を獲得した修遺院長がいたのと同様に。
テュルバンはロランと最後まで行をともにし、全市の将士が倒れ、ふたりきりになったとき、誇らかに宣言している。
「この戦場はあなたのもの、ありがたや、あなたとわたしのもの」。
デーン勢は執拗に攻めた。
水路、大橋に接近し、塔と町との連繋を断とうとした。塔門めがけて波状攻撃をかけた。
ひとりが塔からの矢に射ぬかれて倒れ、それをかばおうとした者もまた、地に倒れ伏し、三人目もまた、ふたりを救おうとして矢に射ぬかれた、とアボンは歌うのだが、その歌の響きには、なにかノルマン人の勇武を讃えているようなところがある。
一夜明けて二月一日、戦闘が再開された。
塔を攻めあぐねたデーン勢は、再度、塔のまわりの濠の埋め立てを試みる。
土塊、枝の茂み、草、ぶどうの枝、さらには牛の死体を役げこむ。
それどころか、なんと彼らは、とアボンは語調を強める、捕虜を虐殺して濠に投げこみはじめた。
塔上に立つ司教ゴズランは、聖母マリアに祈願する。
「贖(あがな)い主(ぬし)の敬うべき母よ、地の救いなるものの母よ、おお、海の星よ、あらゆる星ぼしにまさって光り輝くものよ。」
「まことルテチア(パリの古名)は聖母に捧げられし町なるがゆえに」とアボンは解説をつけている。
濠の埋め立て作戦は、翌日もつづけられた。
この二月二日には、破城槌も、ふたたび登場した。
だが、塔の三方から、この巨大な構築物を塔に接近させることは、きわめて困難であった。
そこで、彼らは、こんどは、粗朶(そだ=木の枝)をうずたかく積みこんだ艀(はしけ)を幾隻か用意し、これに火をつけて、セーヌの流れに浮かべ、「東から西に」引き綱で引き、「橋か塔か」を焼こうと試みた。
そうしてみると、橋の一部は木造であったことになる。
このような、一見さりげない報告のかけらに、当時、石造りのアーチ橋であったはずのバリの「大橋」の、たとえば「見張り所」の部分か木造であったという証言が隠されているのだ。
えんえんと燃えざかる艀に川面は埋まり、河岸(かし)の草木は枯れた。
「火の神(ウルカスス)が水の神(ネブチュース)に勝ったのだ。大地も野も、水も大気も燃えた」。
橋を守備していた者たちは恐怖にふるえた。破滅の予感が、町の人々の目から涙を誘いだした。
毋親たちは髪をかきむしり、大地につっ伏した。はだけた胸をこぶしで打ち、頬をかきむしる。
町の人々の祈りは、いまや、栄光の聖ジェルマンに向けられた。
聖ジェルマンは、五五五年から七六年までパリ司教だった人で、その遺体の葬られた教会が、サン・ジェルマン・デ・ブレ修道院の原型である。
「おお、ゲルマヌスよ、汝の僕らを救えよがし」。
祈りはこだまとなってうねり高まった。
デーン人たちは、楯をたたき、大口に笑いわめいた。
祈りと嘲笑とは天にのぼり、全能の神は聖者の願いに耳をかしたまい、聖者に命じられていわれるには、燃える艀(はしけ)の群れを、すべて、橋を支える高い石の台座(橋台の水よけのこと)にぶつからせよ、橋にとどかぬように、と。
そして、そのようになった。艀はすべて水に沈み、パリは危機をのがれた。
三度、夜をむかえ、翌日の明けがたまでに、ジークフリードのひきいるデーン勢は、破城槌二基を残して、全軍、塔の前から撤退した。
三日間の「塔と橋の戦い」は終わったのてある。
その後、デーン勢は、右岸上流の方面にも出没し、さらには左岸にも進出して、サン・ジェルマン・デ・ブレ修道院領内の牧草地にたむろするようにもなった。
修道院の聖者の聖遺物をはじめとする宝物類は、修道士とともにパリ市内に避難していたのだが、デーン勢の劫掠の手は容赦なく、この聖なる記念の建物にもおよんだのである。
彼らは院内に侵入し、あるものは窓ガラスを木の枝でたたきわり、またあるものは塔によじのぼった。
そうアボンは報告し、さらに、前者は気が狂い、後者は屋根の上に転落して骨を折った。
聖ジェルマンの威光によって、と注釈を加えている。
バリの人々はどうすることもできず、ただこの修道院荒らしを指をくわえてみていただけであった。
バリ伯ウードは、その情景を、町の城壁の上に立ってみていた、とアボンは悲しげに報告している。
情勢はいっそうフランク側に不利となった。
二月六日夜、セース川が増水し、そのはげしい流れに、シテ島と左岸とをむすぶ「小橋」がくずれ落ちてしまったのである。
この橋は、木造であったらしい。
こうして、小橋のたもとの塔が孤立してしまった。
翌朝、デーン勢がここに襲いかかった。
何隻もの舟が、武具を満載してセーヌをさかのぼり、塔を囲んだ。
石と矢が大気を切りさき、塔にふりそそいだ。
塔を守備するものは、わずかに十二名。町からの救援は望むべくもなかった。
アボンはこの十二名の名を格調高く歌いこんでいる。
デーン勢は、枯れ芝を積みあげた荷車を塔門につけて火を放った。
赤あかと燃える炎が、おそらくは木造であった塔をつつんと。
塔上の十二人には、眼下を流れるセーヌの水を汲みあげようにも、その手段が欠けていた。
ついに、彼らは塔を逃れでて、くずれ残った橋の上にうつった。
死闘をつづける彼らに、デーン(ノルマン)勢は降伏を呼びかけた。不運にも、彼らはその言葉を信じた。
ああ、とアボンは嘆きの声を強める、彼らは捕えられ、殉教の血を流した。
とりわけエルベという男は、その姿態から王と誤認されたのか、ひとりだけ虐殺をまぬかれたが、友の無残な死を眼前にして、ただひとり生きのこることに耐えられず、敢然と死を要求し、翌日、殺された。
デーン人たちは、彼らの死体をセーヌに投げこみ、塔を倒した。
「わたしはこの目でしかとみた」と。
こうして、セーヌ上流への水路がデーン勢のものとなり、セーヌ左岸は、彼らの跳梁(ちょうりょう)にゆだねられた。
ノルマン人たちは、いたるところに宿営し、サン・ジェルマン・デ・ブレ修道院は、彼らの奪った牛、牝啄などの家畜小屋と化した。
勇敢な司教ゴズランは、ときおり、一隊をひきいてノルマン人の陣営を急襲する。
だが、彼の活躍も、所詮は、局面を大きく変えるものではなかった。
バリはノルマン人の支配地のただなかに孤立していた。
三月のはじめ、ザクセンのハインリヒが来援した。
アボンは、「司教ゴズランを助けにきた」といっている。
してみると、アボンの考えでは、パリの戦いの最高指揮官は、パリ伯ウードではなく、司教ゴブランだったのだろうか。
アボンの叙述の全体を通じて、ウードはそれほど前面に押し出されてはいない。
それに、一般に、ノルマン人に対する各地の戦いにあって、住民たちに保護者としてのぞんだのは、各地の司教であったのだ。
ハインリヒは、フルダを領する伯の息子で、シャルル肥満王から軍司令権をうけて、八八四年にはザクセンをノルマンの侵冦から守り、ついでライン渓谷から彼らを追いはらい、アウストラシア候の称号をうけた英雄である。
ハインリヒの救援も、しかし、局面を打開するものではなかった。三月の末か、四月のはじめごろ、ハインリヒは軍勢をひきあげてしまった。
だが、デーン勢の内部にも、意見の対立があったらしい。
アボンは、ジークフリードとウードが塔の前で語らったと述べ、また、ジークフリードがその手勢のものに、「ここを去ろう。ここに長くとどまるべき理由はない。でかけよう」といったと報じている。
もともとジークフリードはノルマン全軍の王ではなく、ノルマン勢は、それぞれ手勢をひきいる幾人かの長の、いわば集団指導体制下にあったのだ。ともあれ、ジークフリードは手勢をひきいてセーヌ左岸にうつり、サン・ジェルマン・デ・ブレ修道院の牧草地に陣を設けた。
そして、陣をひきはらう代償として、パリから六十リーブル金をうけとる約束をしたらしい。
そのうえで、彼は他の長たちに、ひきあげようと提案した。
一同はこれを拒否した。
そこで、彼は、よし、それならば、パリを攻めおとしてみろ、とけしかけた。
デーン勢は流れを渡リ、いっせいにパリの城壁にとりついた。だが、けっきょく総退却ということになった。
ジークフリードは、このさまを眺めて、嘲笑し、手勢をひきいてこの地を去ったという。
だが、ジークフリードが去っても、デーン勢の大部分はなお残る。パリは、救いを侍っていた。
四月十六日、司教ゴズランがみまかった。
六十六歳と推定される。抵抗の指導者の死に、孤立するパリの嘆きは深かった。
五月には、修道院長ユーグの死が伝えられた。
数多くの修道院をあずかっていたこの人物は、シャルル禿頭王のいとこであり、ロベール・ル・フォール、すなわちバリ伯ウードの父のライバルとして、ネウストリアに勢力をもち、ロベールの死後、ネウストリア侯として、シャルル肥満王の代、事実上、副王的権力を行使していた。
パリの戦いには、病床にあって参加できず、ついにオルレアンでみまかったのだが、その死は、バリを救う者のひとりの死を意味したのである。
修道院長ユーグの死の伝えられたころ、パリ伯ウードはひそかにバリを脱(ぬ)けでて、救援の手をもとめる旅にでた。
シャルル肥満王は、ようやくイタリアを離れたか離れないかの状態であり、これに期待をかけうるかどうかはともかくとして、フランク王国の諸侯伯のうちに、パリの運命に関心をもつ者をさがそうとしてのことであった。
パリは、修道院長エーブルの指揮下に、ウードの帰還を待った。
ようやく六月も末のころ、三隊の援車をひきつれたウードの姿が、モンマルトルの丘の上にあらわれ、敵陣を突破して市内にはいるという勇敢な行為に、バリの民衆を狂喜させた。
しかし、これが決定的な救いとはならなかった。
トロマ伯アロームの勇武、デーン人の長シンリクの溺死と、バリ側に有利な材料はあったが、しかし、それもこれも所詮はエピソードにすぎなかった。
だが、その間に、シャルル肥満王は、バリ救援の軍を進めていた。
八月、ザクセンのハインリヒが、先駆隊として、ふたたびバリ前面にあらわれた。
彼は、けっきょく、ノルマンの奇襲にあって戦死してしまったのだが、援軍近しとの報が、バリの民衆に、どんなに、はげましをあたえたことだろう。
デーン勢は、攻撃の手をゆるめなかった。
夏の太陽のはげしく照りつける午後、彼らは総攻撃にでた。
パリの城壁、塔、橋は、つぎつぎと新たにくりだされるノルマンの戦士たちの射る矢、投げる石にうめいた。
楯に石のぶつかる音、町の人々の恐怖の叫び、城壁にとりついたデーン勢の勝利のおめき。
パリは最後の日を迎えたかのようにみえた。人々は、ただ聖ジェルマンに祈った。
その祈りの効き目だろうか、パリの必死の抵抗のまえに、デーン勢は、またしても後退せざるををえなかった。
夜になっても、なお、彼らは攻撃を右岸の塔に集中し、塔の前に粗朶(そだ)を積みあげ、これに火をつけて明かりとし、執拗に攻めた。
塔を防衛する者たちは、塔の外にでて戦った。
塔上にはただひとり、「木の十宇架」をささげて立つ人影がみられた。
この「木の十字架」とは、おそらくメロビング朝の王チルデペルトがスペインのトレドからもってきたという伝えの、くまなく金箔を押した十字架のことであろうとされている。
これは、サン・ジェルマン・デ・フレ修道院の保管していた宝物のひとつだったのである。
十月もなかばをすぎたころ、ようやく王の軍勢が到着した。
六百の先遣(せんけん)隊を発して、モンマルトルの丘の麓、塔と向かいあうところに陣地を構築させ、「さまざまな言葉をしゃべる、数知れぬ軍勢」をひきいて、着陣したのである。
4 ノルマン侵入でのバリの戦い
3 ノルマン侵入でのパリの戦い
喜びをもって語れ、おお、汝、全能の神に救われしもの、ルテチアよ。
アボンのラテン語韻文『バリ(古名ルテチア)の町の戦い』はこう歌い出している。
アボンはパリの東、サン・ジェルマン・デ・ブレ修道院の一修道士で、ネウストリア、別のいいかたでは「セーヌとロワールのあいだの土地」の生まれだった。
その生涯のことは、ほとんど知られていない。
九一四年ないし一九年の日付をもつ勅令の記載に、同修道院の「訪問客宿舎係」としてアボンという修道士の名がみられ、おそらくこれと同一人物と考えられている。
その後、おそらく九二〇年代まで生きていたらしい。
とすると、この詩に歌われた八八五年から六年にかけての事件のあったときには、彼は、まだ若年の一修道士であったことになる。
『パリの町の戦い』は、三部千三百九十三行からなるが、第三部の百十五行は、ただ「聖三位一体への敬(うやま)いにおいて」三部構成にするためのつけたしにすぎず、また、このときのノルマン侵冦に関する叙述は、第二部六百十八行のうち三百四十六行までであり、以下は、その後の情勢の推移、パリ伯ウードの事績についての叙述である。
第二部の最終行に、パリ伯ウードについて、「その存在はわれらが世の守り」と歌っているところから、八九八年にはすでに書き終えられていたことが知られる。
ウードは八九八年一月に死んだからである。
また、このウードを「未来の王」と呼び、さらに、八八八年二月のウード戴冠のことを歌っているところから、八八八年以後に書き始められたことがわかる。
八八五年十一月二十四日、「舷側の高い舟七百と、かぞえきれぬほどの小舟多数」がセーヌをさかのぼってパリの町に近づき、そのため「セーヌの深い流れは、ほとんど下流二リュー(八キロメートル)にもわたって、あたかも塞がれ、いったいどこの洞穴に流れがはいってしまったのかと、人々がいぶかしみ、あやしむほどであった。」
ここに侵攻したノルマン人の数を、アボンは「四十の千倍」つまり四万と報告している。
もし舟数が信用できれば、この数字は信用できる。
なぜならノルマンの舟は平均五十人ていどを乗せる。
その七百隻に、「無数の小舟」だったのだから。
ところでセーヌ川にはいったノルマン人は、デンマークのノルマン人が多数を占めていた。
アボンは「デーン人」という呼称をよく使っているが、これはすでに述べたように、とくに限定して「デンマーク人」をさすものではなかった。
我々も、デーン人、ノルマン人というふたつの呼称を、アボンにならって、区別せずに使うことにしよう。
さて、前述のように、パリは、すでに八四五年に、セーヌを遡行するノルマン勢の姿をみかけている。
その後、八五六年、八六一年、八六五年と、ノルマンの船団はバリ近郊にまではいりこみ、周辺の農村地帯を荒らしたが、パリの市壁には近づかなかった。
またさらに上流へ進もうとも試みなかった。
ところが今度はちがっていた。
二日後のあけがた、デーン人の長ジークフリードは、パリ司教の館におもむき、バリ司教ゴズランに
「町には手をつけない。あなたの名誉ならびにウードのそれを守るようにつとめよう。
ただこの町を越えて先へゆかせてくれ」
と申し入れた。司教はこれを拒絶した。
そこでジークフリードは自陣に帰り、全軍を集めて、総攻撃を開始した。
当時のパリ市街は、セーヌ川の中州(なかす)、いわゆる「シテ島」の部分のみだった。
市街は、川岸から数十メートルひっこんだローマ時代以来の石壁に囲まれていた。そのスペースは、最大の長さ四九〇メートル、最大の幅一八○メートルの変型楕円型で、面積ははぼ八ヘクタールあった。
対岸への橋は、右岸にかかる「大橋」と、左岸にかかる「小橋」のふたつしかなく、「大橋」は現在の「両替(りょうがえ)橋」の位置にあたり、これを渡る道筋はサン・ドニヘ通じる。橋の対岸のたもとに塔があり、これは関所(せきしょ)であり、町の防衛の拠点でもあった。この「塔」に、デーン人たちは襲いかかったのである。
初日の戦いのことを、アボンはあっさり書き流している。
「石や矢が乱れとんだ。橋が揺れきしんだ。
ウードとその弟ロベール、司教の甥にあたる、サン・ジェルマン・デ・プレ修道院長エープルが活躍した。
そして、太陽神(アポロン)が西の方(かた)に沈み、敵勢は退いた」と。
塔は、基礎の部分はできていたのだが、じつは、まだ未完成であった。
その夜、木造りの木組みがいそいで作られ、この「夜の塔」に、翌朝ふたたびデーン勢は襲いかかった。
塔を守るものは二百。デーン勢は、つぎつぎに新たな戦士をくりだす。
投げ槍がとび、板にくいこみ、塔はうめいた。つるはしを使って塔の根方を堀りくずそうとした連中には、煮えたぎった蝋(ろう)や油を流しかける。
車輪を投げおとし、押しつぶす。甲冑(かっちゅう)、楯のぶつかりあう音。入り乱れる叫び声。
死者をむかえたデーン人の女たちの悲しみなげく声。
デーン勢は塔の門に火を放った。黒煙が、一時(いっとき)のあいだ、戦うものたちを包んだが、やがて風向きが変わったせいか、アボンのいうように、「主(しゅ)がフランク勢をあわれみたもうた」せいか、黒煙はデーン勢の上に流はじめた。
と、市街から大橋を渡って、ふたりの戦士が塔にかけよったかとみると、塔によじのぼり、「サフランの色の旗」をかかげた。デーン人はこの旗を恐れた、という。
この「サフラン色の旗」というのは、「オリフラム」すなわちサン・ドニ修道院の祭旗であり、十一世紀以降、しばしばフランス国王がこれを王の旌旗(せいき=軍旗)としたため、「国王旗」と誤称されるようになったものをさしているのではないか、という解釈がある。
しかし、なぜこれをデーン人が恐れたのか、また、この旗がかかげられたことにはどんな意味があったのか、なにを考えてアボンはこのことを記述したのか、いっさい不明である。
これが山だった。デーン勢は、三百の死者をだして後退した。
その後、バリの人々は、塔の修復にたち働いた。
以上が第一回目の「塔の戦い」である。
その後、デーン勢は、右岸サン・ジェルマン・ローセロワ修道院近くに陣地を構築し、パリ攻囲の態勢をととのえた。
バリ右岸は、彼らの劫掠の手にゆだねられた。
だがパリの町は屈しない。
アポンは、王国を襲った「デーンの禍」を格調高く語り、抵抗のみられぬことを嘆き、ただパリのみが、「恐怖の渦のただなかに、恐れず、笑って立つ」と讃えている。
第二回目の攻防は、翌年一月三十一日から二月二日にかけて展開された。
デーン勢は、七つの車輪のついた台の上にすえられた巨大な角材の破城槌(はじょうづち)をおしだして襲いかかってきた。
一月三十一日の明けがたの刻である。
「ちょうど肉桂(にっけい)、たちじゃこう草、その他の木々、野の草花から吸い集めた蜜に羽をふくらませた蜂の群れが巣に帰るように、この不運に魅入られたデーン人たちは、飛びかう矢の下に、ぶつかりあう鉄の下に、肩をちぢめて塔門をめがける。
彼らの手にする剣に野は埋まり、楯にセーヌは隠れた。
何千もの溶けた鉛の塊が絶え間なく町中(まちなか)に落下する。
橋の上、見張りの小塔(おそらくは、銃眼をうがった見張り所のこと)のそれぞれには、強力な役石器がすえられている。
いたるところで軍神マルスは怒りにその身をゆだね、威たけ高に君臨する。
教会の青銅の鐘の吠えぬはなく、大気は悲しみの響きに満たされた。
砦はふるえ、町の住民は叫び、鋭いラッパの音が鴫りひびく。
恐怖が人々の心を圧し、塔の中にもはいりこむ」。
ここでアボンは、司教ゴズラン、「その甥、軍神マルスの寵をうける修道院長」エープル、またロベール、ウード等々と英雄の名を列挙する。
「軍神マルスの寵をうける修道院長」とは、なんともものすごい感じではないか。
だが、こういった聖職者のタイプはむしろ普通だったのである。
エーブルは、ゴズランの死後、サン・ドニおよびジュミェージュ修道院をもあずかることになる。
当時、北フランス教会組織の中枢にあった高位聖職者である。
エーブルには、『ロランの歌』にでる大司教テュルパンのおもかげが重なってはいないか。
いや、正確にいえば、十二世紀の叙事詩『ロランの歌』に登場する大司教テュルパンは、エープルのようなタイプの聖職者のおもかげを写しているのである。
大司教テュルパンは、もちろん架空の人物だが、シャルルマーニュの甥とされるロランそのひとにしても、エギンハルズスの『シャルルマーニュ伝』には、ただ一個所、ピレネー山中峡谷の戦いに倒れた将士のひとり、「ブルターニュ辺境伯」として出ているだけなのである。
ロランもまた、後世に創造された人物であり、この点、事情はテュルバンと変わりはしない。
おそらく、この「ピレネー山中峡谷の戦い」(『ロランの歌』では「ロンスボーの戦い」)に同行した高位の聖職者がいたでもあろう。
ちょうど「バリの戦い」に英雄の名を獲得した修遺院長がいたのと同様に。
テュルバンはロランと最後まで行をともにし、全市の将士が倒れ、ふたりきりになったとき、誇らかに宣言している。
「この戦場はあなたのもの、ありがたや、あなたとわたしのもの」。
デーン勢は執拗に攻めた。
水路、大橋に接近し、塔と町との連繋を断とうとした。塔門めがけて波状攻撃をかけた。
ひとりが塔からの矢に射ぬかれて倒れ、それをかばおうとした者もまた、地に倒れ伏し、三人目もまた、ふたりを救おうとして矢に射ぬかれた、とアボンは歌うのだが、その歌の響きには、なにかノルマン人の勇武を讃えているようなところがある。
一夜明けて二月一日、戦闘が再開された。
塔を攻めあぐねたデーン勢は、再度、塔のまわりの濠の埋め立てを試みる。
土塊、枝の茂み、草、ぶどうの枝、さらには牛の死体を役げこむ。
それどころか、なんと彼らは、とアボンは語調を強める、捕虜を虐殺して濠に投げこみはじめた。
塔上に立つ司教ゴズランは、聖母マリアに祈願する。
「贖(あがな)い主(ぬし)の敬うべき母よ、地の救いなるものの母よ、おお、海の星よ、あらゆる星ぼしにまさって光り輝くものよ。」
「まことルテチア(パリの古名)は聖母に捧げられし町なるがゆえに」とアボンは解説をつけている。
濠の埋め立て作戦は、翌日もつづけられた。
この二月二日には、破城槌も、ふたたび登場した。
だが、塔の三方から、この巨大な構築物を塔に接近させることは、きわめて困難であった。
そこで、彼らは、こんどは、粗朶(そだ=木の枝)をうずたかく積みこんだ艀(はしけ)を幾隻か用意し、これに火をつけて、セーヌの流れに浮かべ、「東から西に」引き綱で引き、「橋か塔か」を焼こうと試みた。
そうしてみると、橋の一部は木造であったことになる。
このような、一見さりげない報告のかけらに、当時、石造りのアーチ橋であったはずのバリの「大橋」の、たとえば「見張り所」の部分か木造であったという証言が隠されているのだ。
えんえんと燃えざかる艀に川面は埋まり、河岸(かし)の草木は枯れた。
「火の神(ウルカスス)が水の神(ネブチュース)に勝ったのだ。大地も野も、水も大気も燃えた」。
橋を守備していた者たちは恐怖にふるえた。破滅の予感が、町の人々の目から涙を誘いだした。
毋親たちは髪をかきむしり、大地につっ伏した。はだけた胸をこぶしで打ち、頬をかきむしる。
町の人々の祈りは、いまや、栄光の聖ジェルマンに向けられた。
聖ジェルマンは、五五五年から七六年までパリ司教だった人で、その遺体の葬られた教会が、サン・ジェルマン・デ・ブレ修道院の原型である。
「おお、ゲルマヌスよ、汝の僕らを救えよがし」。
祈りはこだまとなってうねり高まった。
デーン人たちは、楯をたたき、大口に笑いわめいた。
祈りと嘲笑とは天にのぼり、全能の神は聖者の願いに耳をかしたまい、聖者に命じられていわれるには、燃える艀(はしけ)の群れを、すべて、橋を支える高い石の台座(橋台の水よけのこと)にぶつからせよ、橋にとどかぬように、と。
そして、そのようになった。艀はすべて水に沈み、パリは危機をのがれた。
三度、夜をむかえ、翌日の明けがたまでに、ジークフリードのひきいるデーン勢は、破城槌二基を残して、全軍、塔の前から撤退した。
三日間の「塔と橋の戦い」は終わったのてある。
その後、デーン勢は、右岸上流の方面にも出没し、さらには左岸にも進出して、サン・ジェルマン・デ・ブレ修道院領内の牧草地にたむろするようにもなった。
修道院の聖者の聖遺物をはじめとする宝物類は、修道士とともにパリ市内に避難していたのだが、デーン勢の劫掠の手は容赦なく、この聖なる記念の建物にもおよんだのである。
彼らは院内に侵入し、あるものは窓ガラスを木の枝でたたきわり、またあるものは塔によじのぼった。
そうアボンは報告し、さらに、前者は気が狂い、後者は屋根の上に転落して骨を折った。
聖ジェルマンの威光によって、と注釈を加えている。
バリの人々はどうすることもできず、ただこの修道院荒らしを指をくわえてみていただけであった。
バリ伯ウードは、その情景を、町の城壁の上に立ってみていた、とアボンは悲しげに報告している。
情勢はいっそうフランク側に不利となった。
二月六日夜、セース川が増水し、そのはげしい流れに、シテ島と左岸とをむすぶ「小橋」がくずれ落ちてしまったのである。
この橋は、木造であったらしい。
こうして、小橋のたもとの塔が孤立してしまった。
翌朝、デーン勢がここに襲いかかった。
何隻もの舟が、武具を満載してセーヌをさかのぼり、塔を囲んだ。
石と矢が大気を切りさき、塔にふりそそいだ。
塔を守備するものは、わずかに十二名。町からの救援は望むべくもなかった。
アボンはこの十二名の名を格調高く歌いこんでいる。
デーン勢は、枯れ芝を積みあげた荷車を塔門につけて火を放った。
赤あかと燃える炎が、おそらくは木造であった塔をつつんと。
塔上の十二人には、眼下を流れるセーヌの水を汲みあげようにも、その手段が欠けていた。
ついに、彼らは塔を逃れでて、くずれ残った橋の上にうつった。
死闘をつづける彼らに、デーン(ノルマン)勢は降伏を呼びかけた。不運にも、彼らはその言葉を信じた。
ああ、とアボンは嘆きの声を強める、彼らは捕えられ、殉教の血を流した。
とりわけエルベという男は、その姿態から王と誤認されたのか、ひとりだけ虐殺をまぬかれたが、友の無残な死を眼前にして、ただひとり生きのこることに耐えられず、敢然と死を要求し、翌日、殺された。
デーン人たちは、彼らの死体をセーヌに投げこみ、塔を倒した。
「わたしはこの目でしかとみた」と。
こうして、セーヌ上流への水路がデーン勢のものとなり、セーヌ左岸は、彼らの跳梁(ちょうりょう)にゆだねられた。
ノルマン人たちは、いたるところに宿営し、サン・ジェルマン・デ・ブレ修道院は、彼らの奪った牛、牝啄などの家畜小屋と化した。
勇敢な司教ゴズランは、ときおり、一隊をひきいてノルマン人の陣営を急襲する。
だが、彼の活躍も、所詮は、局面を大きく変えるものではなかった。
バリはノルマン人の支配地のただなかに孤立していた。
三月のはじめ、ザクセンのハインリヒが来援した。
アボンは、「司教ゴズランを助けにきた」といっている。
してみると、アボンの考えでは、パリの戦いの最高指揮官は、パリ伯ウードではなく、司教ゴブランだったのだろうか。
アボンの叙述の全体を通じて、ウードはそれほど前面に押し出されてはいない。
それに、一般に、ノルマン人に対する各地の戦いにあって、住民たちに保護者としてのぞんだのは、各地の司教であったのだ。
ハインリヒは、フルダを領する伯の息子で、シャルル肥満王から軍司令権をうけて、八八四年にはザクセンをノルマンの侵冦から守り、ついでライン渓谷から彼らを追いはらい、アウストラシア候の称号をうけた英雄である。
ハインリヒの救援も、しかし、局面を打開するものではなかった。三月の末か、四月のはじめごろ、ハインリヒは軍勢をひきあげてしまった。
だが、デーン勢の内部にも、意見の対立があったらしい。
アボンは、ジークフリードとウードが塔の前で語らったと述べ、また、ジークフリードがその手勢のものに、「ここを去ろう。ここに長くとどまるべき理由はない。でかけよう」といったと報じている。
もともとジークフリードはノルマン全軍の王ではなく、ノルマン勢は、それぞれ手勢をひきいる幾人かの長の、いわば集団指導体制下にあったのだ。ともあれ、ジークフリードは手勢をひきいてセーヌ左岸にうつり、サン・ジェルマン・デ・ブレ修道院の牧草地に陣を設けた。
そして、陣をひきはらう代償として、パリから六十リーブル金をうけとる約束をしたらしい。
そのうえで、彼は他の長たちに、ひきあげようと提案した。
一同はこれを拒否した。
そこで、彼は、よし、それならば、パリを攻めおとしてみろ、とけしかけた。
デーン勢は流れを渡リ、いっせいにパリの城壁にとりついた。だが、けっきょく総退却ということになった。
ジークフリードは、このさまを眺めて、嘲笑し、手勢をひきいてこの地を去ったという。
だが、ジークフリードが去っても、デーン勢の大部分はなお残る。パリは、救いを侍っていた。
四月十六日、司教ゴズランがみまかった。
六十六歳と推定される。抵抗の指導者の死に、孤立するパリの嘆きは深かった。
五月には、修道院長ユーグの死が伝えられた。
数多くの修道院をあずかっていたこの人物は、シャルル禿頭王のいとこであり、ロベール・ル・フォール、すなわちバリ伯ウードの父のライバルとして、ネウストリアに勢力をもち、ロベールの死後、ネウストリア侯として、シャルル肥満王の代、事実上、副王的権力を行使していた。
パリの戦いには、病床にあって参加できず、ついにオルレアンでみまかったのだが、その死は、バリを救う者のひとりの死を意味したのである。
修道院長ユーグの死の伝えられたころ、パリ伯ウードはひそかにバリを脱(ぬ)けでて、救援の手をもとめる旅にでた。
シャルル肥満王は、ようやくイタリアを離れたか離れないかの状態であり、これに期待をかけうるかどうかはともかくとして、フランク王国の諸侯伯のうちに、パリの運命に関心をもつ者をさがそうとしてのことであった。
パリは、修道院長エーブルの指揮下に、ウードの帰還を待った。
ようやく六月も末のころ、三隊の援車をひきつれたウードの姿が、モンマルトルの丘の上にあらわれ、敵陣を突破して市内にはいるという勇敢な行為に、バリの民衆を狂喜させた。
しかし、これが決定的な救いとはならなかった。
トロマ伯アロームの勇武、デーン人の長シンリクの溺死と、バリ側に有利な材料はあったが、しかし、それもこれも所詮はエピソードにすぎなかった。
だが、その間に、シャルル肥満王は、バリ救援の軍を進めていた。
八月、ザクセンのハインリヒが、先駆隊として、ふたたびバリ前面にあらわれた。
彼は、けっきょく、ノルマンの奇襲にあって戦死してしまったのだが、援軍近しとの報が、バリの民衆に、どんなに、はげましをあたえたことだろう。
デーン勢は、攻撃の手をゆるめなかった。
夏の太陽のはげしく照りつける午後、彼らは総攻撃にでた。
パリの城壁、塔、橋は、つぎつぎと新たにくりだされるノルマンの戦士たちの射る矢、投げる石にうめいた。
楯に石のぶつかる音、町の人々の恐怖の叫び、城壁にとりついたデーン勢の勝利のおめき。
パリは最後の日を迎えたかのようにみえた。人々は、ただ聖ジェルマンに祈った。
その祈りの効き目だろうか、パリの必死の抵抗のまえに、デーン勢は、またしても後退せざるををえなかった。
夜になっても、なお、彼らは攻撃を右岸の塔に集中し、塔の前に粗朶(そだ)を積みあげ、これに火をつけて明かりとし、執拗に攻めた。
塔を防衛する者たちは、塔の外にでて戦った。
塔上にはただひとり、「木の十宇架」をささげて立つ人影がみられた。
この「木の十字架」とは、おそらくメロビング朝の王チルデペルトがスペインのトレドからもってきたという伝えの、くまなく金箔を押した十字架のことであろうとされている。
これは、サン・ジェルマン・デ・フレ修道院の保管していた宝物のひとつだったのである。
十月もなかばをすぎたころ、ようやく王の軍勢が到着した。
六百の先遣(せんけん)隊を発して、モンマルトルの丘の麓、塔と向かいあうところに陣地を構築させ、「さまざまな言葉をしゃべる、数知れぬ軍勢」をひきいて、着陣したのである。