『アジア専制帝国 世界の歴史8』社会思想社、1974年
15 イスラムとインド
7 運命のダイヤ
オーラングゼーブの時代、帝国の領域こそ、かつてないほどに拡大されたが、インド各地には反乱がつづいておこっていた。
それもイスラム教徒の諸王国よりも、ヒンズー教徒たるデカン地方のマラータ人や、西北インドのシク教徒の王国などに、多くみられたのである。
なかでも、マラータ人の反抗を指導したシバージーは、「マラータの英雄」とうたわれ、いまなおデカン地方の民族的英雄として、その名をたたえられている。
かれらは、ガーツ山派の岩山や森林地帯を利用しつつ、神出鬼没のゲリラ戦法で、衰勢にむかいつつあるムガル勢力を苦しめた。
十八世紀のはじめ、九十歳の老齢でその生涯を終えたオーラングゼーブの死後には、さしものムガル帝国も、急速に分裂への道をたどっていったのである。
マラータ人の勢力はしだいに拡大してゆき、デリー地方から西北インドにまでおよぶ大勢力となった。
その一部は、遠く東方のベンガル地方にさえ勢力を伸ばしている。
こうして、北や中央や西インドの各地に、マラータ諸族による王国が成立した。
十八世紀の末から十九世紀の初めにかけて、イギリス東インド会社が、その支配領域をしだいに拡大していったときに、もっとも強く抵抗したのも、これらマラータ諸王国の同盟勢力だったのである。
ところでデリーの王城の中心部にあった豪華な謁見の間には、有名な「孔雀王座」があり、歴代のムガル皇帝の宝物庫には、巨大な一個のダイヤモンドがおかれていた。
「もし地上に天国ありとせば、そはここにあり、そはここにあり、そはここにこそ。」
ペルシア語の美しい文字でつづられた詩文が、この華麗な謁見の間の欄間の一部に、いまでも残っている。
万金に価するさまざまな宝石をちりばめた「孔雀の王座」は、その大理石の宮殿の一角にあった。
シャージャハーンも、オーラングゼーブも、この豪華な王座から、貴族たちに命令をくだし、外国人たちを引見したことであろう。
西アジアやアフリカ、そしてヨーロッパの諸国からきた旅人や使臣たちも、この輝く王座を見て、ムガル皇帝の権威と富とに目をみはったことであろう。
ムガル王宮の大奥には、いつのころかデカンの高原で採取されたという巨大なダイヤモンドが秘蔵されていた。
あまりの大きさに、のちにこれを手にしたペルシア王は「コーイ・ヌール」、つまり「光の山」と呼んだという。
この世界最大の宝石こそ、十八世紀前半にはペルシア王のインドの富への欲望を刺激し、ムガルの首都に攻めこむ一つの原因をなしたのである。
一七三九年、羊飼いの身から王の地位にまでのぽったというペルシア王ナーディル・シャーは、ついにデリーへの侵攻を実行にうつした。
そして王城の掠奪とともに「孔雀の王座」はうばわれ、栄光あるデリーの宮廷から、その姿を消してしまったのである。
そのとき、ペルシア王の奸計によって、巨大なダイヤの宝石も、ペルシアに持ち去られた。
しかしながら、この「コーイーヌール」は、そののち十年もたたないうちに、その家臣で、アフガニスタンのズッラーニ朝をはじめたアフマド・シャーの手にうつったらしい。
時がうつり、やがて宝石はアフガン王の手から、ふたたびインドにもどされた。
こんどはパンジャーブのシク王国のランジット・シング王の手にわたった。ムガル帝国も末期にちかい十九世紀前半のことである。
こうしてインド人の手にもどった大ダイヤも、つぎには、その数奇な運命をイギリス人にゆだねることとなってゆく。
一八四九年の第二次シク戦争の結果、パンジャーブはイギリス勢力に併合された。
やがて一八五七年には「セポイの反乱」がおこる。そしてついにムガル帝国の滅亡がやってくる。
最後の悲劇の老帝バハーズル・シャーの死をへて一八七七年、イギリスのビクトリア女王は、「インド女帝」を宣言した。ここに名実ともに、イギリスの直接統治が成立する。
そのイギリス女王のいただく王冠の前面には、いつのまにかパンジャーブの王からイギリス人の手にわたされていた「コーイ・ヌール」が、燦然と輝いていたのである。
ただし、かつて初期のムガル皇帝の王宮にあったころの大きさは失われ、くだかれた小塊にすぎなかった。
それでも「コーイ・ヌール」(光の山)は、いまなお世界の第二の大きさをもつダイヤモンドの地位をたもっている。
今日、テームズのほとりにあるロンドン塔の一室、イギリス王室の宝物や王冠を陳列した部屋には、このインド産のダイヤモンドが、まさにインドにおける権力の帰趨(きすう)の歴史を象徴するかのごとく、いまなお、光り輝いている。
西ヨーロッパ人の来航、イギリス東インド会社の制覇、そしてイギリス人によるインド征服の進展と、十七世紀から十九世紀にかけては、あたらしい歴史のあゆみとともに、インドの情勢もしだいに変化していった。
イスラム教徒の数もふえてゆく。
もちろん、その一方では、バラモンたちがヒンズー教徒の社会の内部で、いかめしいカースト制度のわくをまもって、あいもかわらず君臨していたのである。
またイスラム教徒の王や貴族も、ヒンズーの藩王たちも、表面はいずれも豪奢な生活をおくっていた。
しかしインドの社会にも、わずかずつではあったが、世界史の変化の波が押しよせてきたのである。
デリーやアーグラなどの都市にかわって、それまではまったくの僻村(へきそん)にすぎなかったカルカッタやマドラスやボンベイなどの地が、イギリス勢力の定着とともに、あたらしい町としてインドの歴史に登場してくる。
インドの民衆の福祉とは直接かかわりのなかった、いわば雲の上の支配者たちの権力争いをよそに、経済や社会はゆらぎはじめていたのである。
こんな話がある。
一七五七年、イギリス東インド会社のクライブがひきいた軍隊が、インド人の支配者どうしの争いに乗じて、プラッシーの戦いに勝った直後のことである。
ラームチャンドという男がいた。かれは、負けたインド人太守の宝物庫の中身をかくして、あげくのはてにそれを売り払い、一千万ルピー(約七億円)もの金をもうけた。
その仲間になった男の一人は「ラージャ」(王)を称し、母親の葬式には数十万ルピーもかけたという。
もとはといえば、たいした収入もない男たちだったのである。
もう一つ、似たような例をあげておこう。
十八世紀のおわりのころのことである。
一ヵ月にやっと五ルピー(約四百円)前後のかせぎしかしなかったラームという男がいた。
カルカッタに出てきて、アメリカ船の船長に紹介された。
かしこいかれは、その船荷をイギリス人の商社よりも安いねだんでインド人の商人に仲介した。
そうしたやりかたで、なんと四十万ポンド(四億円)にものぽる財産を築きあげたという。
その子どもの一人は、のちにカルカッタ連合銀行の取締役になっている。
こうしたエピソードは、当時のカルカッタやボンベイなどの町には、数かぎりなく見いだされるようである。
しかし、生まれが人間の一生を左右するカースト制度にしばりつけられていたインド人の社会では、こうしたことは、やはり大変なできごとだったといえよう。
ムガル末期は、そういった意味でも、インド史における一種の激動の時代だったといえるのである。
しかし、大多数のインド人は、あいかわらず伝統と因襲にもとづいた生活をおくっていた。
デリーの王座にすわる人物は、おとろえたりとはいえ大ムガル帝国の皇帝である。
またデカン高原やカシミールなどには、日本のいくつかの県をあわせたほどの領土をもつ、とてつもなく大きな藩王国をはじめ、インド各地をあわせると、大小千を越える藩王国ができていた。
その王やスルタンたちは、ハレムに美姫をおき、絹と宝石のきらびやかな衣服を着てむかしながらの権威をたもちつつ、ぜいたくな暮らしをおくっていた。
しかし西方ヨーロッパの世界、そしてアメリカの新大陸では、それまでアジアの歴史にみられなかった大変革が起っていた。
その世界史の変革の波は、もうインド半島の岸辺にも押しよせてきていたのである。