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『文明のあけぼの 世界の歴史1』社会思想社、1974年
9 殷王朝の都を求めて――殷墟の発掘史――
6 殷の都城のなか
陵墓の発掘をひとまず終えた調査隊は、一九三六年の春から、ふたたび小屯において、住居址の発掘にしたがった。
こんどは前とちがって、徹底的にしらべようという。
一部分を発掘するのでなく、表面の土を片はしから全部はがしてゆき、殷代の住居地をそのままあらわそうというのであった。
調査は、この年に二回、そして翌三七年の春と、三回にわたっておこなわれた。
その結果、五十ちかい地上の住居と、五百ほどの竪穴が発見されたのである。
遺跡の中心と考えられるところには、宮殿を建てるためにつくったものと同じような土の壇があった。
しかし、その上には家が建てられたようすはない。
よって、そこは祭場であり、まつりや重要な儀式のおこなわれたところと推定された。
土の壇のすぐ北には、穴があって、たくさん甲骨が藏されていた。
なかには何枚もの甲骨がつづってあるものもあった。
小さな穴をあけて、ひもを通すようになっている。
しかも重要な卜辞(ぼくじ=占いの言葉)や記録などが刻まれている。
これらの甲骨は、まさに殷代の書物にあたるものに違いない。
これを蔵した穴は、書庫といえるであろう。こうした書庫は、いくつもあった。
その一つからは、完全な亀甲が二百枚以上も、かさなったまま発見された。
南方にゆくと、いままでに知られた地域とは、変わった特色のあることが認められた。
そのあたりには、水溝が縦横につくられている。建物の跡があるまわりに、たくさんの墓がつくられている。
侯家荘の大墓のまわりと、同じような状況であった。ただ大墓がなくて、建物の跡がならんでいるのである。
これらの建物をしらべていって、また驚かされた。
礎石をおくところには穴をほって、そこに犬をうずめてあった。牛や羊の骨もあった。
これらは建物をきずくにあたって、犠牲とされたものに違いない。それだけではなかった。
武装した兵士をうずめた穴もあったのである。大墓における殉葬と同じなのだ。
いったい、こうした建物は、何だったのか。
建物のまわりの墓群をほると、いっそうすさまじい。首を切られた人間の墓が、ぞくぞくと出てくる。
北部だけで、二十七の墓に百二十五人分、中部は七十七の墓に三百七十七人分がうずめられていた。
また北部では、完全なからだのまま五人いっしょにうずめられた墓が五つ、子供ばかり十五人を二つの墓に入れたもの、人間ひとりと青銅器をおさめた墓ひとつ、器具だけ入れた墓ふたつ、犬と羊の墓がひとつずつ、そうして馬と車をおさめた墓が五つあった。
中部からは人間と馬とをうずめた墓が発見された。これらは、どういう墓だったのか。
学者たちは考えた。全部の墓群にうずめられた人数からみて、これは軍隊をうずめたものであろう。
北部は戦車隊である。おそらく二百人ほどの部隊であろう。中部は歩兵隊である。
おそらく四百人ほどの部隊であろうか。どちらも隊長もろともうずめられたのである。
おびただしい人員を犠牲にささげた建物は、祖先の霊をまつる宗廟(そうびょう)であったに違いない。
軍隊は、その霊をまもるために、部隊そっくりが犠牲としてささげられたのであろう。
ただし、これらの軍隊は、戦争でとらえられた捕虜を神にささげたものと考える学者もいる。
宗廟と、そのまわりの墓の謎は、まだ完全に明らかになっていない。
それでは水溝は何のためにつくられたのか。
これには幹線と支線とがあり、底には細かい砂が敷きつめてある。
しかし水を流したあとはないから、水道ではない。学者たちは、ここでもいろいろと考えた。
そうして地中の排水のためではなかったかと推定するにいたった。
この宗廟の地域は土地が低いし、傾斜もゆるい。
だから雨のあとなどでは、地中に水がたまって湿気が強くなる。
それを避けるために水溝をつくったのではなかろうか。
殷代の人々が、すでに排水の施設まで考えていたとすると、驚くべきことである。
水は、農耕にとって、もっとも重要である。この水を支配する技術を、殷代の人々は会得していたのだろうか。
三千年以上も前でありながら、農耕の技術もそうとう高度に発達していたことが想像されるのである。
さて小屯の大規模な発掘によって、殷の都のようすがこれまでになくはっきりとわかった。
しかし、それも南北三〇〇メーキル、東西一〇〇メートルの範囲にしかすぎない。
そのなかに祭場があり、宗廟があり、北方には王宮や一般の住居があった。これらは地域ごとに垣をめぐらし、都の全体をかこんで城壁がめぐらされてあったものと想像された。
そして城外にあたる侯家荘や司空村にも、陵墓があり、住居の跡があった。
つまり都城をかこんで、村落があったわけである。
発掘の範囲をもっとひろげれば、いっそう明らかに殷代の都城と、その生活の実態がうかがえるようになるであろう。
一九三七年(民国二十六年、昭和一二年)の春まで、殷墟の発掘は十五回にわたった。
しかし、この十五回までで発掘は中止されてしまった。
それだけではない。発掘によってえた遺物も、安全ではなくなつた。調査も、研究も、困難になった。
それは、この年の七月に、日本との戦争がはじまったためである。日本軍が攻めよせてきたのであった。
9 殷王朝の都を求めて――殷墟の発掘史――
6 殷の都城のなか
陵墓の発掘をひとまず終えた調査隊は、一九三六年の春から、ふたたび小屯において、住居址の発掘にしたがった。
こんどは前とちがって、徹底的にしらべようという。
一部分を発掘するのでなく、表面の土を片はしから全部はがしてゆき、殷代の住居地をそのままあらわそうというのであった。
調査は、この年に二回、そして翌三七年の春と、三回にわたっておこなわれた。
その結果、五十ちかい地上の住居と、五百ほどの竪穴が発見されたのである。
遺跡の中心と考えられるところには、宮殿を建てるためにつくったものと同じような土の壇があった。
しかし、その上には家が建てられたようすはない。
よって、そこは祭場であり、まつりや重要な儀式のおこなわれたところと推定された。
土の壇のすぐ北には、穴があって、たくさん甲骨が藏されていた。
なかには何枚もの甲骨がつづってあるものもあった。
小さな穴をあけて、ひもを通すようになっている。
しかも重要な卜辞(ぼくじ=占いの言葉)や記録などが刻まれている。
これらの甲骨は、まさに殷代の書物にあたるものに違いない。
これを蔵した穴は、書庫といえるであろう。こうした書庫は、いくつもあった。
その一つからは、完全な亀甲が二百枚以上も、かさなったまま発見された。
南方にゆくと、いままでに知られた地域とは、変わった特色のあることが認められた。
そのあたりには、水溝が縦横につくられている。建物の跡があるまわりに、たくさんの墓がつくられている。
侯家荘の大墓のまわりと、同じような状況であった。ただ大墓がなくて、建物の跡がならんでいるのである。
これらの建物をしらべていって、また驚かされた。
礎石をおくところには穴をほって、そこに犬をうずめてあった。牛や羊の骨もあった。
これらは建物をきずくにあたって、犠牲とされたものに違いない。それだけではなかった。
武装した兵士をうずめた穴もあったのである。大墓における殉葬と同じなのだ。
いったい、こうした建物は、何だったのか。
建物のまわりの墓群をほると、いっそうすさまじい。首を切られた人間の墓が、ぞくぞくと出てくる。
北部だけで、二十七の墓に百二十五人分、中部は七十七の墓に三百七十七人分がうずめられていた。
また北部では、完全なからだのまま五人いっしょにうずめられた墓が五つ、子供ばかり十五人を二つの墓に入れたもの、人間ひとりと青銅器をおさめた墓ひとつ、器具だけ入れた墓ふたつ、犬と羊の墓がひとつずつ、そうして馬と車をおさめた墓が五つあった。
中部からは人間と馬とをうずめた墓が発見された。これらは、どういう墓だったのか。
学者たちは考えた。全部の墓群にうずめられた人数からみて、これは軍隊をうずめたものであろう。
北部は戦車隊である。おそらく二百人ほどの部隊であろう。中部は歩兵隊である。
おそらく四百人ほどの部隊であろうか。どちらも隊長もろともうずめられたのである。
おびただしい人員を犠牲にささげた建物は、祖先の霊をまつる宗廟(そうびょう)であったに違いない。
軍隊は、その霊をまもるために、部隊そっくりが犠牲としてささげられたのであろう。
ただし、これらの軍隊は、戦争でとらえられた捕虜を神にささげたものと考える学者もいる。
宗廟と、そのまわりの墓の謎は、まだ完全に明らかになっていない。
それでは水溝は何のためにつくられたのか。
これには幹線と支線とがあり、底には細かい砂が敷きつめてある。
しかし水を流したあとはないから、水道ではない。学者たちは、ここでもいろいろと考えた。
そうして地中の排水のためではなかったかと推定するにいたった。
この宗廟の地域は土地が低いし、傾斜もゆるい。
だから雨のあとなどでは、地中に水がたまって湿気が強くなる。
それを避けるために水溝をつくったのではなかろうか。
殷代の人々が、すでに排水の施設まで考えていたとすると、驚くべきことである。
水は、農耕にとって、もっとも重要である。この水を支配する技術を、殷代の人々は会得していたのだろうか。
三千年以上も前でありながら、農耕の技術もそうとう高度に発達していたことが想像されるのである。
さて小屯の大規模な発掘によって、殷の都のようすがこれまでになくはっきりとわかった。
しかし、それも南北三〇〇メーキル、東西一〇〇メートルの範囲にしかすぎない。
そのなかに祭場があり、宗廟があり、北方には王宮や一般の住居があった。これらは地域ごとに垣をめぐらし、都の全体をかこんで城壁がめぐらされてあったものと想像された。
そして城外にあたる侯家荘や司空村にも、陵墓があり、住居の跡があった。
つまり都城をかこんで、村落があったわけである。
発掘の範囲をもっとひろげれば、いっそう明らかに殷代の都城と、その生活の実態がうかがえるようになるであろう。
一九三七年(民国二十六年、昭和一二年)の春まで、殷墟の発掘は十五回にわたった。
しかし、この十五回までで発掘は中止されてしまった。
それだけではない。発掘によってえた遺物も、安全ではなくなつた。調査も、研究も、困難になった。
それは、この年の七月に、日本との戦争がはじまったためである。日本軍が攻めよせてきたのであった。