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『古代ヨーロッパ 世界の歴史2』社会思想社、1974年
4 ペルシア戦争
2 マラトンの戦い
こうしてはじまったペルシア軍のギリシア遠征が、「ペルシア戦争」とよばれる。ヘロドトスはペルシア軍のギリシア遠征を三回と考えている。
その第一回は、紀元前四九二年に行なわれた。
ダレイオスは甥で、娘の婿であるマルドニオスに、陸軍と海軍の大軍を与えて、ギリシアの北のトラキア地方に進軍させた。
ペルシア海軍はエーゲ海の北を、大陸に沿って航行した。
彼らがカルキディケ半島のいちばん東の、アトス岬を迂回しようとしていたとき、急に突風が吹き、船は岸にたたきつけられ、大部分難破してしまった。
ヘロドトスの伝えるところによると、ペルシア海軍の壊れた艦船は三百隻におよび、死者は二万人以上だったという。
マルドニオスは陸軍を率いて進軍していたが、マケドニアで原住民に夜襲され、戦死者を多く出し、マルドニオス自身も負傷した。
海陸で大打撃をうけたペルシア軍は、本国へ引きあげた。
これが、いわゆる「第一回ペルシア戦争」といわれるものである。
しかし、近年は、学者たちはこの軍事行動を「ペルシア戦争」のなかに数えない。
なぜならば、この際にペルシア軍がねらっていたのは、トラキア地方であって、ヘロドトスの伝えるようにアテネやエレトリアではなかった。
そして豊富な金銀鉱山のあったトラキア地方は、この軍事行動によって、ペルシアの勢力下にはいった。
トラキアを手に入れたダレイオスが、ギリシア本土の諸ポリスも、その支配下に入れようと望むのは当然だった。
ダレイオスは、まず外交使節を、ギリシアのポリスに遣わした。
彼らは諸市に行って「水と土を献納しろ」というダレイオスの命令を伝えたが、「水と土」というのは国土の象徴で、彼らが伝えたのは実際は無条件降伏の勧告なのだった。
ギリシアの多くのポリスはこの勧告に従った。しかしアテネやスパルタは、もちろん勧告をいれなかった。
紀元前四九〇年、ダレイオスはダティスとアルタプレネスという者を、遠征軍の将軍に任じた。
ヘロドトスの伝えるところによると、彼らは六百隻の艦隊を率い、いったんイオニア地方に集結し、ついでエーゲ海をナクソス、デロスなどの島づたいに、エウボイア島に向かった。
これが「第二回ペルシア戦争」とよばれる、ペルシア軍のギリシア遠征である。
ペルシア軍はエウボイア島に上陸し、エレトリアを攻めた。六日間はげしい戦いが行なわれたが、七日目にエレトリア人のなかに内通者が現われ、ついにエレトリア市は、ペルシア軍の手に落ちた。
ペルシア軍は「サルディスの復讐だ」といって、神殿に火をつけ、住民を奴隷にした。
その後、ペルシア軍はエレトリアの対岸のマラトンに軍を進め、上陸した。
マラトンはアテネの領分で、アテネ市の北のほうにあった。
アテネはペルシア軍が近づくときいて、急使をスパルタに送り、援軍を求めた。
しかしスパルタは「満月でなければ出兵できないきまりになっているから、あと一週間くらいたったら援軍を出そう」と答えた。
ペルシア軍とアテネ軍はマラトンで数日間にらみあっていたが、戦いをまずしかけたのは、将軍ミルティアデスの率いるアテネ軍であった。
アテネ軍は駆け足で、ペルシア軍に突進した。
ペルシア軍には騎兵も弓兵もいたが、アテネ軍はかぶとをかぶり、楯を持ち、胸甲や臑当(すねあ)てをしている「重装歩兵(ホブリタイ)」ばかりだった。
戦いはそうとう長いあいだつづいた。
そしてギリシア軍の中央はペルシア軍に突破されたが、両翼はギリシア軍のほうが優勢で、旗色の悪くなったペルシア軍は、海岸に停泊している船のほうに逃げた。
数も強さも圧倒的なペルシア軍が、一万人のギリシア軍の重装歩兵に負けたのだった。
ペルシア軍の戦術は、マラトンにアテネ軍をひきつけ、アテネ市を空にさせ、そのあいだに艦隊をスニオン岬にまわらせて、空のアテネ市を攻め落とそうというものだった。
マラトンの戦いのおりに、アテネ人のなかに内通者がいて、マラトンの山の上で、楯をみがいて光らせ、太陽の光を反射させて、ペルシア軍に合図をしたと伝えられている。
この真相はわからないが、ペルシア軍の戦術と関係があるらしい。
合図は「アテネ市は今からっぼだ!」というものだったのではなかろうか。
合図の光で、ペルシア軍は急いで船に乗ろうとした。
そこにアテネ軍が攻めがけたので、ペルシア軍は混乱したのだろう。
そのため犠牲が多く出、ペルシア軍は「マラトンの戦い」に大敗した。
ヘロドトスはペルシア軍の戦死者は六千四百人ほどだったが、アテネ軍のほうはわずか百九十二人だったと伝えている。
今日、マラトンには、このときのアテネ軍の戦死者を葬ったといわれる塚が残っている。
船に乗りくんだペルシア軍は、急いでスニオン岬をまわった。
しかしアテネ軍も、陸路を大急ぎで、市に引き返した。ペルシア軍はアテネに近づいてようすをさぐった。
すると、アテネ軍はすでに市に帰って来ていることがわかった。
戦術の失敗を知ったペルシア軍は、本国に船を向けた。
4 ペルシア戦争
2 マラトンの戦い
こうしてはじまったペルシア軍のギリシア遠征が、「ペルシア戦争」とよばれる。ヘロドトスはペルシア軍のギリシア遠征を三回と考えている。
その第一回は、紀元前四九二年に行なわれた。
ダレイオスは甥で、娘の婿であるマルドニオスに、陸軍と海軍の大軍を与えて、ギリシアの北のトラキア地方に進軍させた。
ペルシア海軍はエーゲ海の北を、大陸に沿って航行した。
彼らがカルキディケ半島のいちばん東の、アトス岬を迂回しようとしていたとき、急に突風が吹き、船は岸にたたきつけられ、大部分難破してしまった。
ヘロドトスの伝えるところによると、ペルシア海軍の壊れた艦船は三百隻におよび、死者は二万人以上だったという。
マルドニオスは陸軍を率いて進軍していたが、マケドニアで原住民に夜襲され、戦死者を多く出し、マルドニオス自身も負傷した。
海陸で大打撃をうけたペルシア軍は、本国へ引きあげた。
これが、いわゆる「第一回ペルシア戦争」といわれるものである。
しかし、近年は、学者たちはこの軍事行動を「ペルシア戦争」のなかに数えない。
なぜならば、この際にペルシア軍がねらっていたのは、トラキア地方であって、ヘロドトスの伝えるようにアテネやエレトリアではなかった。
そして豊富な金銀鉱山のあったトラキア地方は、この軍事行動によって、ペルシアの勢力下にはいった。
トラキアを手に入れたダレイオスが、ギリシア本土の諸ポリスも、その支配下に入れようと望むのは当然だった。
ダレイオスは、まず外交使節を、ギリシアのポリスに遣わした。
彼らは諸市に行って「水と土を献納しろ」というダレイオスの命令を伝えたが、「水と土」というのは国土の象徴で、彼らが伝えたのは実際は無条件降伏の勧告なのだった。
ギリシアの多くのポリスはこの勧告に従った。しかしアテネやスパルタは、もちろん勧告をいれなかった。
紀元前四九〇年、ダレイオスはダティスとアルタプレネスという者を、遠征軍の将軍に任じた。
ヘロドトスの伝えるところによると、彼らは六百隻の艦隊を率い、いったんイオニア地方に集結し、ついでエーゲ海をナクソス、デロスなどの島づたいに、エウボイア島に向かった。
これが「第二回ペルシア戦争」とよばれる、ペルシア軍のギリシア遠征である。
ペルシア軍はエウボイア島に上陸し、エレトリアを攻めた。六日間はげしい戦いが行なわれたが、七日目にエレトリア人のなかに内通者が現われ、ついにエレトリア市は、ペルシア軍の手に落ちた。
ペルシア軍は「サルディスの復讐だ」といって、神殿に火をつけ、住民を奴隷にした。
その後、ペルシア軍はエレトリアの対岸のマラトンに軍を進め、上陸した。
マラトンはアテネの領分で、アテネ市の北のほうにあった。
アテネはペルシア軍が近づくときいて、急使をスパルタに送り、援軍を求めた。
しかしスパルタは「満月でなければ出兵できないきまりになっているから、あと一週間くらいたったら援軍を出そう」と答えた。
ペルシア軍とアテネ軍はマラトンで数日間にらみあっていたが、戦いをまずしかけたのは、将軍ミルティアデスの率いるアテネ軍であった。
アテネ軍は駆け足で、ペルシア軍に突進した。
ペルシア軍には騎兵も弓兵もいたが、アテネ軍はかぶとをかぶり、楯を持ち、胸甲や臑当(すねあ)てをしている「重装歩兵(ホブリタイ)」ばかりだった。
戦いはそうとう長いあいだつづいた。
そしてギリシア軍の中央はペルシア軍に突破されたが、両翼はギリシア軍のほうが優勢で、旗色の悪くなったペルシア軍は、海岸に停泊している船のほうに逃げた。
数も強さも圧倒的なペルシア軍が、一万人のギリシア軍の重装歩兵に負けたのだった。
ペルシア軍の戦術は、マラトンにアテネ軍をひきつけ、アテネ市を空にさせ、そのあいだに艦隊をスニオン岬にまわらせて、空のアテネ市を攻め落とそうというものだった。
マラトンの戦いのおりに、アテネ人のなかに内通者がいて、マラトンの山の上で、楯をみがいて光らせ、太陽の光を反射させて、ペルシア軍に合図をしたと伝えられている。
この真相はわからないが、ペルシア軍の戦術と関係があるらしい。
合図は「アテネ市は今からっぼだ!」というものだったのではなかろうか。
合図の光で、ペルシア軍は急いで船に乗ろうとした。
そこにアテネ軍が攻めがけたので、ペルシア軍は混乱したのだろう。
そのため犠牲が多く出、ペルシア軍は「マラトンの戦い」に大敗した。
ヘロドトスはペルシア軍の戦死者は六千四百人ほどだったが、アテネ軍のほうはわずか百九十二人だったと伝えている。
今日、マラトンには、このときのアテネ軍の戦死者を葬ったといわれる塚が残っている。
船に乗りくんだペルシア軍は、急いでスニオン岬をまわった。
しかしアテネ軍も、陸路を大急ぎで、市に引き返した。ペルシア軍はアテネに近づいてようすをさぐった。
すると、アテネ軍はすでに市に帰って来ていることがわかった。
戦術の失敗を知ったペルシア軍は、本国に船を向けた。