
マキシム・プイサン神父「地獄(第二の死と云われる永遠の滅び)」『煉獄と地獄』岸和田天主会教会、1925年
41、第二 慎しみて罪の機会と迷想とを避くる事
罪の機会、殊に我々の不幸なる実験によりて、証明たる危険の機会を避けねばならぬ。キリストの次の御言葉を深く考え、よく味って載きたいのである。
「もし汝のつまず手、汝を蹟かしめば、之を切りすてよ、それは汝に取りて五体の】つの亡ぶるは、全身の地獄に行くに優ればなり」(マテオ五~三十)
「もし汝の手、あるいは足、汝を頃しめば、之を切りすてよ、片手あるいは片足にて生命に入るは、両手両足ありて、永遠の火に投げ入れられるるより汝に取りて勝ればなり、又汝の目汝を蹟かしめば、之をくじいて捨てよ。隻眼にて、生命に入るは、両眼ありて地獄の火に投げ入れらるるより汝に取りて勝れはなり」(マテオ一九~八九)、
たとえ生命を失う場合にてもごらんなさい、我教会に於いて尊敬されるべき幾千万の殉教者は皆、そのとおりであった。
又我々は、迷想ということに注意して、その捕慮となりてはならぬ。迷想というのは我等の強敵なる悪魔が人を罪悪に誘う際正面攻撃の誘惑の不利なるを見て、迂回的微妙の悪知恵をもって、我々の霊魂を傷害ける事である。
この迷想は如何にも不実、不義、巧妙に度数を重ねる瀕々にして、千状万態、殊に傲慢と婬慾とに関連しておる。
健康のためとか、必要とか、あるいは、習慣とか云うて、だんだん婬楽の道に流れる事、世上の習慣、礼儀、義理の口実を以って快楽と虚栄とに流れて、天主と信者の義務とを忘れる事、貧欲の盲者となりて、品物と値段との上にて、人を欺騙すことは迷想の類で、地獄に落ちたる人の中にこの迷想という裏門より入り込みたる者はすこぶる多いのである。
ああ、幾分か自分を欺くことは出来るが、天主を騙すことは決して出来ぬ。
修道士の生活もこの迷想を全くふせぐに足らない、地獄に霊父も修道者も居る。その数は小数とは思わるるが、とにかく確かにいることはいる。世界を照す者でありながら如何にして地獄に落ちたかと云えば迷想という不幸の道を歩みたからである。
