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5-2-1 東ローマ帝国ユスティニアヌス皇帝の再征服 

2023-04-07 00:23:37 | 世界史
『中世ヨーロッパ 世界の歴史5』社会思想社、1974年
2 動乱の地中海
1 東ローマ帝国ユスティニアヌス皇帝の再征服 

 ローマ帝国は、五世紀末に滅亡したのではなかった。
 帝国の東半分は、なお存続していたのである。
 だが、なお存続していたとはいえ、このいわゆる東ローマ帝国(首都コンスタンチノーブルの古名ビザンティウムから、通称「ビザンティン帝国」)も、けっして、ゆるぎなく安泰であったわけではなかった。
 皇帝アナスタシウス(四九一~五一八)が、黒海からマルモラ海にかけて、「アナスタジウスの壁」と呼ばれる長城を建設したことにうかがえるように、ドナウ川は、もはや防衛線ではなくなっていた。
 ドナウ川の南にはゲルマン諸族が、北にはスラブ諸族、ブルガリア人、フン族がひかえていた。
 シリアのペルシァとの国境は、つねに危機をはらんでいた。
 しかも帝国領内部にも、大きな問題があった。
 東ローマ帝国は、バルカン半島、小アジア半島、シリア、エジプトの四地域からなるが、このうちの、シリア、エジプトの民族主義的な動きが、キリスト教会の教義論争とむすびついて、帝国を解体の危機にさらしていたのである。
 これらの地域の教会では、単性論派と呼ばれる教派が主流をなしていた。
 単性論とは、簡単にいえば、キリストには神と人とのふたつの性質が共有しているという正統派の主張を認めず、ただ神としての性質をしか認めない考えであって、オリエント的神秘主義の影響が濃厚にあらわれている。
 これは、四五一年のカルケドンの公会議において、ネストリウス派とともに否認された数義であった。
 皇帝アナスタシウスは、単性論派に同調する教会政策をとり、シリア・エジプトの離反傾向をともかくもおさえ、古代以来の都市経済の振興をはかり、現状の維持につとめた。
 だが、現状の維持には、おのずから限界がある。
 一代おいて皇帝ユスティニアヌスの代(五二七~六五)その一見はなやかな事績のうちに、古代ローマ帝国は、その良い生涯を閉じたのである。
 イタリアはラベンナのサン・ビターレ寺に、ユスティニアヌス皇帝夫妻をえがいた有名なモザイク壁画が残っている。
 そのユステティニアヌスの哀情には、なにか聞(き)かん気(き)なところが感じられる。
 そして、皇后テオドラは、冷静沈着な女丈夫といったところだ。
 事実、テオドラはユスティニアヌスのよき支えであった。
 皇后テオドラは、 コンスタンティノープルのピッポドローム(競馬場)付属娯楽場の熊使いの娘であって、一時はヌード・ダンサーだったこともある女性だという。
 当時、伯父ユスティヌス帝の側近にあった青年士官ユスチアヌスとむすびつき、以後、五四八年に死ぬまで、夫を助けるよき妻であった。
 夫の登位そうそう、五三二年、ピッポドロー厶の二輪馬車競技にからむ宮廷内の党派争いが、民衆の暴動を誘発して、いわゆる「ニケの反乱」が起きたが、このとき弱腰の夫をはげまして、帝位を守りとおさせたのも、また、テオドラであった。
 テオドラはアレクサンドリアで生活したことがあって、単性論派に対して理解があった。そのテオドラの目に、夫の政治のやり方は、きわめて危険なものと映じたにちがいない。
 ユスティニアヌスの政治は、ディオクレティヌス帝以来の専制帝王主族を完成させたものであった。
 経済、行政の諸制度はまったく改革されなかった。
 古代ローマ帝国の体制がそのままに維持され、ただ徹底的な集権化が行なわれたのである。教会の問題も、また、皇帝の権限に属すべきものとされた。

 この、いわゆる皇帝教皇主義は、当然、ローマ教会とコンスタンティノーブル教会とを対立させる結果になる。
 さらにはまた、帝国領内の単性論派の離反傾向をますます強めることになる。
 陰に陽に夫の専横を牽制したテオドラ皇后の存在が、わずかにエジプト、シリアの分離をふせいでいたのであった。
 いわゆる「ユスティニアヌスの再征服」、つまり東ローマ帝国による西部地中海制圧という大事業は、ユスティニアヌス皇帝のいだいていた古代ふうのローマ帝国理念の、華麗な表現であった。

 それにしてもユスティニアヌスは、じつに都合のいいときに皇帝になったものである。当時、北アフリカのバンダル王国には内紛があり、また、イタリア半島の東ゴート王国では、ユスティニアヌス即位の前年にテオドリック王が死に、王権が弱まり、東ゴート人とローマ人の対立が、ようやく表面化してくる情勢にあったのである。
 四七六年、最後の西ローマ皇帝ロムルス・アウグスツルスの廃位以後、一時、イタリア半島には、傭兵隊長オドアケルによる、なかば非合法の政権が成立した。
 当時の東ローマ帝国皇帝ゼノンは、パンノニアに盟約族として国を建てていた東ゴート族の一首長、テオドリックにオドアケル追討の権限をあたえた。
 テオドリック王は、兵力二万、全体で十万といわれる族民をひきつれてイタリアにはいり、オドアケルを倒し、四九七年には、東ローマ皇帝アナスタシウスから、イタリア半島において皇帝権限を代行する地位をあたえられた。
 ここに成立した東ゴート王国は、ゲルマン人が支配者としてローマ人にのぞんだのだが、イタリア半島のローマ人社会には、まったく改変を加えず、ローマ帝国の諸制度は、そのまま維持された。
 なにしろ、テオドリック治下のローマ人は七百五十万、ゴート人は十五万ないし二十万という推算例があるほどで、ゴート人は数的に劣勢であり、彼らが濃く定着したのは、首都ラベンナ周辺、およびポー川下流域にすぎなかった。
 テオドリック王としては、ローマ人との協調政策をとらざるをえなかったし、また、事実、彼には、ローマ人社会を破壊し、そこに新しい秩序を作りあげようとする気など、まったくなかった。
 テオドリックは、フランク、ブルグント、バンダル等のゲルマン諸族との同盟体制の確立をめざしていたといわれる。
 しかし、これも西ローマ帝国再建という構想の上に立つ企図であった。

 北フランスに着実にその勢力を伸張していたフランク族はこの企図に反撥し、また東ローマ帝国もテオドリック王に警戒の視線をそそぐようになった。
 テオドリック王は、東ローマ皇帝のイタリア半島における代官にすぎない。
 西ローマ皇帝になろうなどとは、もってのほかの考えであった。
 こうして皇帝ユスティヌス(五一八~二七)の登位とともに、東ローマ帝国の対イタリア政策は大きく転換した。
 ユスティニアヌス皇帝の東ゴート征服の舞台が、ここに準備された。
 五二六年、テオドリック王は、幼い孫アタラリックを後継者に指名して死んだ。
 後見に立ったその母、テオドリックの娘アマラスンタの親ローマ政策はしだいに族民の不満を招くようになり、五三四年、アタラリックが死ぬとすぐ、アマラスンタは殺された。
 法的にはあくまで東ゴート国王の宗主(上級君主)である東ローマ皇帝ユスティニアヌス(五二七~六五)は、ここに東ゴート制圧の機会をつかんだ。
 これよりさき、すでにユスティニアヌスは、ササン朝ペルシァと協定をむすんで東の国境を安定し、背後の脅威をのぞいたうえで、親ローマ的な王が廃立されたバンダル王国の内紛を口実に、将軍ベリサリウスに一万の歩兵と六千の重装騎兵をあたえ、北アフリカのバンダル王国征討に向かわせていた。
 バンダルはもろかった。
 五三三年の秋には、バンダル王国の首都カルタゴはローマ軍を迎えいれた。
 原住民ペルベル族の反抗も押えられた。
 バンダル領北アフリカを制圧したペリサリウスは、五三五年、同じくバンダル領のシチリア島を占領し、そのままイタリアにはいってナポリを征し、翌年、ローマ人から解放者と歓呼されながらローマに入城したのである。
 だが東ゴートは、バンダルよりねばり強かった。
 彼らは、新王ビティギスを立て、一時はベリサリウスを守勢に追いこんだのち、ラベンナに拠って、あくまでも抵抗した。
 五四〇年、ベリサリウスは、ようやくラベンナをおとしいれ、ともかくも一時は東ゴート制圧に成功したのである。
 だがその後、ペリサリウスが、兵を東にかえして東境のペルシァと戦っていたあいだに、東ゴートは、ボー川以北に、ふたたびその勢力をもりかえし、有能な王トティラのもとに、五五〇年ごろには、数個の港湾都市をのぞくイタリア全土をとりかえし、さらにシチリア、サルデーニャをも占拠するほどの勢いをみせた。
 東ゴート戦役は第二期に入った。
 将軍ナルセスのひきいる三万余の東ローマ軍と東ゴー卜軍の死闘が、イタリア全土にくりひろげられた。
 五五二年、ナルセスは、ようやくアペニン山中にトティラを倒し、なお残敵を掃討したのち、五五五年、イタリアは東ローマ帝国領に統合された。
 戦乱の二十年間に、イタリアは荒廃した。永遠の都ローマも田野と化した。
 五三七年、ビテイギスのひきいる東ゴート勢がローマをかこみ、水道を破壊した。
 水を絶たれたローマに悪疫が流行し、人口は激減した。
 開城したあとの人口は、わずかに五百人あまりにすぎなかったと伝えられる。
 このような光景が、イタリア各地にみられた。
 人口の減少は百万を越えたと推算されている。
 東ローマ帝国ユスティニアヌス皇帝の再征服は、イタリアの古代の終焉(しゅうえん)を意味したのである。





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