『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
3 イギリスのピューリタン革命
7 護国卿という独裁者
一六五一年九月、クロンウェルは凱旋将軍としてロンドンに帰ってきた。
しかし共和国政府はけっして安定したものではない。
共和国の誕生以来、残部議会が権力をにぎりつづけ、軍の要望である即時解散をけり、その地位に執着していた。
最高司令官であるばかりでなく、議会の一員であったクロンウェルは、軍と議会との協調をはかったが、成功しない。
ついに彼は決意する。
「きみたちは議会ではない。議員ではないといってるんだ。きみたちの会期を終わらせよう。兵士を入れたまえ。」
一六五三年四月二十日、武装兵士が議場にはいり、議会を解散させた。
クロンウェルは国王派や長老派が選出されることをおそれて、新議会の総選挙を行なわず、各州の教会から適任者を推薦させ、これを軍会議が検討して議員に指名する方法をとった。
この議会は「指名議会」とも、「聖者議会」ともよばれ、政治上の要求では水平派の流れをくんでいる。
そして、教会の財源である十分の一税を廃止するとか、「邪悪の迷宮で、あいも変わらぬ詐欺師の府」とよばれる大法官裁判所を廃止するとか、法律を改めるとか、いっきょに急進的な改革を行なおうとした。
このため有産階級のあいたに、ひじょうなセンセーションをひきおこした。
おどろいたランバートら軍幹部は、議会内の穏健派にはたらきかけ、一六五三年十二月十二日、軍司令官クロンウェルにすべての権力をゆずることとして、議会を解散させた。
一応、議会の自発的解散ということになっているが、事実上はクーデターにほかならない。
ひきつづいて一六五三年十二月十六日、軍幹部の起草にかかる「統治章典」が成立した。
「憲法なし」といわれているイギリス史上、唯一の成文憲法である。
これによってクロンウェルは護国卿の地位についた。
第一条に「立法上の最高の権限は、ただ一人の人および議会に召集された人民にある。このただ一人の称号を護国卿とする。」
第二条に「人民に対する最高統治権の行使および政府の行政権は、護国卿に存する。」
とあり、議会が最高権をにぎっていた「人民協約」と異なり、護国卿の立法、行政にわたる地位が大きくあらわれている。
統治章典は護国卿の独裁を肯定したものとはいえないが、権力集中への道をひらくものであった。
護国卿政権に対しては左右両翼からの反対が強かった。
水平派の残党のほかに長老派、国王派にも陰謀があり、一六五三年、国王派のペンラドックの反乱が起こった。
クロンウェルはこれを機会に独裁化の方向をとり、全国を十二軍区に分け、各軍区に軍政長官をおいた。各軍政長官は民兵を指揮するほか、租税の徴収、治安の維持、ピューリタンの禁欲主義的道徳の保持にあたった。
競馬、闘鶏、曲芸、見世物が禁止され、居酒屋が監視され、日曜日にはロンドン市中祈祷と讃美歌以外の物音は、いっさい聞こえなかったと伝えられる。
護国卿の地位を占めたクロンウェルは、外国からみれば、まぎれもない国家の元首である。
「王の権力でも、彼の権力より大きいことはない」と評されるほどであった。
一六五七年二月、議会でクロンウェルを王にしようという提案がなされた。
軍政長官による軍事独裁よりも、このイギリス人になじみがある王と議会という伝統的体制に復帰したほうが安全であるし、かつ世襲制が導入されることにより、クロンウェル死後の後継者問題からおこる無政府状態を避けることができると、考えられたからである。
議会は「謙虚な請願と勧告」という憲法改正案をつくって、クロンウェルに受諾をせまった。
しかし、軍隊の反対が強い。軍隊から背くことのできないクロンウェルは、これを拒否した――
「私は王の称号をもって、政府をひきうけるわけにはいにかない。」
こうしてクロンウェルは王号こそ用いなかったが、このころ紫の礼服をまとい、黄金の笏(しゃく)を手にし、さながら王者のようであったという。
しかし、彼は健康がすぐれず、一六五八年九月、インフルエンザのため世を去った。五十九歳。
クロンウェルのあと、三男のリチャード(一六二六~一七一二)が護国卿になった。
彼は父とちがって、議会と軍との対立をおさえる器量がなかった。
そこで両者の対立がおこり、軍は議会を解散させ、一六五九年五月、リチャードは護国卿の地位をしりぞいた。
このあとランバートらの軍がめざしたのは、軍事独裁の強化である。
これに対し、スコットランド方面軍司令官モンク(一六〇八~七〇)が南下し、六〇年二月ロンドンにはいった。
議会の自由を守るという口実である。
モンクは元来、国王派であったが、第一次内乱のとき議会軍に捕えられてから、その指揮官になっており、いままた寝返ったのだ。
そして彼は、オランダに亡命中のチャールズ二世と交渉するとともに、残部議会に長老派議員を復帰させて長期議会を復活し、王政復古への道をひらいた。