『文芸復興の時代 世界の歴史7』社会思想社、1974年
4 フイレンツェの支配者――イタリア・ルネサンスの片影Ⅰ――
4 「豪華王」ロレンツォ
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理想化されたコジモの孫のロレンツォ「豪華王」
コジモの子ピエロ(一四一六~六九)は痛風を病みながらも、五年のあいだ、メディチ家の勢威を守った。
彼は病気のため公の場所に出ず家にひきこもりがちで、多くの歴史家の評価はさえないが、金融家として蓄財に努力し、外には平和政策をとるとともに、熱心な文芸保護者でもあった。
この点、彼が長生きしていたならば、父にまけない文芸のパトロンになったかもしれない。
そしてピエロの妻、才媛ルクレティアはみずから詩作し、学芸に対する理解も深く、夫によく協力した。
なおピエロの弟ジョバンニ(一四二四~六三)も魅力あふれた人物で、才能にも恵まれていたが、一四六三年父に先立って世を去り、晩年のコジモをさびしがらせた。
ピエロの遺児、二十歳のロレンツォ(一四四九~九二)は、四歳年下のジュリアーノ(一四五三~七八)の協力のもとに、父のあとをついだ。
これは大市民たちがメディチ家を支持したためであるが、若いロレンツォを適当にあやつろうと思っていた一部の人びとは、彼の政治力のまえにすっかり当てがはずれてしまったといわれる。
絵では美しい貴公子に描かれているロレンツォは、じつは醜男(ぶおとこ)で、でこぼこしていかつい顔かたち、強度な近視の大目玉、嗅覚が不十分な獅子鼻(ししばな)……というありさまであった。
しかし彼は会った相手を心服させてしまう人間的魅力、剛毅果断(ごうきかだん)な性格、スポーツできたえたたくましい体力をもっており、これらがその政治力の大きな要素になっていた。
この点では、五歳のころから受けた人文主義教育、古典教育や、十代のときから各地に送られて体得した政治・外交上の実地訓練は、ロレンツォの人柄に輝きを与えたことであろう。
このロレンツォの時代に、メディチ家の勢力を根こそぎにしようという大陰謀があった。
それは一四七八年、あのパッツィ家の陰謀である。
パッツィはやはりフィレンツェの銀行家であったが、商売上でメディチ家にじゃまされたことを恨み、反メディチの同志とも手を組んでメディチ兄弟暗殺を計画した。
それは四月二十六日の日曜日、花の聖母寺でミサの最中、兄弟をともに刺殺しようとするものである。
権力者の暗殺は十五世紀の流行であり、したがって彼らは身辺をよく護衛されていたが、それがゆるむ機会は教会における儀式のときであろう。
そして暗殺と同時に、陰謀派は共和国政庁を占領し、またこれと結んだローマ教皇軍やナポリ軍がフィレンツェに攻め入る予定であった。
その日、弟ジュリアーノは数多くの刺し傷を身にうけて、息絶えた。彼は均整がとれたからだ、輝くひとみ、つややかな顔色、漆黒(しっこく)の髪をもち、スポーツマンで狩りに長じ、兄に劣らず古典的教養を身につけ、市民たちに敬愛され、たえず恋し、たえず騎士道的な夢想にふけりつつ、「十五世紀イタリアの夜空を、軽やかにきらめきながら飛び去った彗星(すいせい)のような人物」であった。
ロレンツォをおそった刺客は、剣に慣れていなかったためもあって、わずかにその首を傷つけただけであった。
身の危険を知ったロレンツォは、一説によれば上衣(うわぎ)をひるがえして右手にまき、一説によれば剣をぬき、敵をふせぎながら、聖器室に逃げこんで生命は助かった。
側近の一人は、短剣に毒がぬってあることを恐れて、ロレンツォの傷口を吸いつづけた。
このとき、日ごろスポーツできたえたロレンツォの身のこなしの素早さが、役立つたといわれる。
難をまぬがれたロレンツォは首に包帯して、メディチ家のバルコニーに立ち、民衆の喝采をあびる。
パッツィ家の一味は「人民と自由」と、街頭を叫んでまわったが、市民たちは、「パレ、パレ」(メディチ家紋章の玉のこと)と応じて相手にしなかった。
そしてバッツィ家一味に対する容赦ない処罰とはげしい弾圧を通じて、メディチ家の権勢はいよいよ確立した。
しかしこの陰謀以来ロレンツォは勢力家を警戒し、スパイ網をめぐらして友人でも、身内でも、その動静をさぐらせ、市民生活に干渉し、すべてに不信感を抱くようになった。
また共和制はつづいているが、その体制は改変されて、市政の当局者はメディチ派でしめられ、ロレンツォは実質的にはまさしく専制君主であった。
その政権を固めるうえで、ロレンツォは命がけの賭(かけ)に成功していた。
パッツィ陰謀後にもフィレンツェをおびやかしているナポリおよびローマ教皇の勢力に対して、戦争を不利とみたロレンツォは一四七九年末、ひそかにフィレンツェをはなれてナポリヘのりこんだ。
ナポリ王は彼を捕虜にはしたものの、その豪胆さにあきれるとともに、これに惚れこみ、これほどの男を殺すよりも味方にしたほうがよいと思った。
そこでロレンツォはこの相手を説きふせ、和解をとりつけてフィレンツェに帰り、さらに教皇とも和議を成立させた……。
一四八一年、ロレンツォ暗殺の別の計画があったのを機会に、彼の生命をおびやかすことは国に対する反逆罪だという法律が制定された。
しかしある人はいった。
「フィレンツェが専制君主を持たなければならないとすれば、ロレンツォよりもすぐれた人物はまたとあるまい。」
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ロレンツォの素顔
ロレンツォは彼なりにフィレンツェの商工業や公共事業の発達につくしたが、その関心は経済よりも政治に、そして学芸にあった。
この点て、彼はイタリア・ルネサンスの大学芸保護者であった。
そのまわりに集まった天才たちのなかでは、画家ボッティチェリ(一四四四ごろ~一五一〇)、詩人で学者のポリチアーノ(一四五四~九四)ヤピコ・デラ・ミランドラ(一四六三~九四)、若き日のミケランジェロ(一四七五~一五六四)などの名が、我々に親しい。
ミケランジェロは晩年のロレンツォにかわいがられ、メディチ家の宮殿に出入りして、そこに収集された古代の彫刻類について学び、またロレンツォが家族たちとともにする食卓にさえ同席した。
一方、あのレオナルド・ダ・ビンチ(一四五二~一五一九)の姿も、ロレンツォ治下のフィレンツェに見うけられるが、科学や技術に関心がうすかったこの支配者は、当時美術家というよりも科学者に近かったレオナルドを、さほど優遇しなかったらしい。
とくにメディチ家の保護をうけたヒューマニスト(人文学者、古典学者)であるピコ・デラ・ミランドラは、『人間の尊厳について』という著作のなかでいった。
「神は、人間が天使にでも動物にでもなれるように、この両者のあいだにその位置をさだめたもうた。」
これは人間が神にとってかわるということではなく、そうかといってたんなる動物とはちがう誇り高い存在であることを示すものであろう。
すなわちルネサンスの「人間の発見」とは、けっして神を無視するものではなく、万能の神に対して欠点は多いながらも、それなりに人間の理性、能力というものを正しく認め、これを主張しようとしたのである。
そしてこうしたヒューマニストたちが集まって、一種の高級な知的社交界をつくったのが、あの「プラトン・アカデミー」である。
中心はコジモにも優遇されたフィチーノであり、十五世紀末における彼の名声はヨーロッパ的なもので、各地心学者は手紙で彼と語りあい、またはるばるフィレンツェに足をはこんだ。
ロレンツォはまたすぐれた即興(そっきょう)詩人であり、たとえば松明(たいまつ)をかかげ、きらびゃかな衣裳で、合唄をともなって行なわれる祭典などにおいて、音楽の指揮にたくみな彼はそれを演出するのみならず、コーラスの歌は彼の自作によることがしばしばであった。
詩作は彼にとって、なりによりのレクリエーションであったが、彼はローマの詩人たちゃダンテ、ぺトラルカなどを手本として勉強をおこたらず、たんなる慰(なぐさ)みをこえたものを示している。
あるいはロレンツォはフィレンツェ郊外の別荘で、学者、文人たちを従えながら、プラトン哲学の美しい幻想にふけった。イタリアの空の静けさこそが、もっともふさわしい伴奏のように思われた。
あるいは豪奢(ごうしゃ)な饗宴(きょうえん)のきわまるところ「豪華王(イル・マニフィコ)」(当時の敬称の一種らしい)ロレンツォに深い想(おも)いをこめて、自作の詩をつぶやくのであった。
「うるわしき青春も とどむるによしなし たのしめよ、もろびと あすの日のさだかならねば……」
ロレンツォは宴席にかぎらず、おりにふれてこの句を口ずさんだといわれるから、会心の作であったのであろう。
事実、あすの日はさだかでなかった……。
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4 フイレンツェの支配者――イタリア・ルネサンスの片影Ⅰ――
4 「豪華王」ロレンツォ
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理想化されたコジモの孫のロレンツォ「豪華王」
コジモの子ピエロ(一四一六~六九)は痛風を病みながらも、五年のあいだ、メディチ家の勢威を守った。
彼は病気のため公の場所に出ず家にひきこもりがちで、多くの歴史家の評価はさえないが、金融家として蓄財に努力し、外には平和政策をとるとともに、熱心な文芸保護者でもあった。
この点、彼が長生きしていたならば、父にまけない文芸のパトロンになったかもしれない。
そしてピエロの妻、才媛ルクレティアはみずから詩作し、学芸に対する理解も深く、夫によく協力した。
なおピエロの弟ジョバンニ(一四二四~六三)も魅力あふれた人物で、才能にも恵まれていたが、一四六三年父に先立って世を去り、晩年のコジモをさびしがらせた。
ピエロの遺児、二十歳のロレンツォ(一四四九~九二)は、四歳年下のジュリアーノ(一四五三~七八)の協力のもとに、父のあとをついだ。
これは大市民たちがメディチ家を支持したためであるが、若いロレンツォを適当にあやつろうと思っていた一部の人びとは、彼の政治力のまえにすっかり当てがはずれてしまったといわれる。
絵では美しい貴公子に描かれているロレンツォは、じつは醜男(ぶおとこ)で、でこぼこしていかつい顔かたち、強度な近視の大目玉、嗅覚が不十分な獅子鼻(ししばな)……というありさまであった。
しかし彼は会った相手を心服させてしまう人間的魅力、剛毅果断(ごうきかだん)な性格、スポーツできたえたたくましい体力をもっており、これらがその政治力の大きな要素になっていた。
この点では、五歳のころから受けた人文主義教育、古典教育や、十代のときから各地に送られて体得した政治・外交上の実地訓練は、ロレンツォの人柄に輝きを与えたことであろう。
このロレンツォの時代に、メディチ家の勢力を根こそぎにしようという大陰謀があった。
それは一四七八年、あのパッツィ家の陰謀である。
パッツィはやはりフィレンツェの銀行家であったが、商売上でメディチ家にじゃまされたことを恨み、反メディチの同志とも手を組んでメディチ兄弟暗殺を計画した。
それは四月二十六日の日曜日、花の聖母寺でミサの最中、兄弟をともに刺殺しようとするものである。
権力者の暗殺は十五世紀の流行であり、したがって彼らは身辺をよく護衛されていたが、それがゆるむ機会は教会における儀式のときであろう。
そして暗殺と同時に、陰謀派は共和国政庁を占領し、またこれと結んだローマ教皇軍やナポリ軍がフィレンツェに攻め入る予定であった。
その日、弟ジュリアーノは数多くの刺し傷を身にうけて、息絶えた。彼は均整がとれたからだ、輝くひとみ、つややかな顔色、漆黒(しっこく)の髪をもち、スポーツマンで狩りに長じ、兄に劣らず古典的教養を身につけ、市民たちに敬愛され、たえず恋し、たえず騎士道的な夢想にふけりつつ、「十五世紀イタリアの夜空を、軽やかにきらめきながら飛び去った彗星(すいせい)のような人物」であった。
ロレンツォをおそった刺客は、剣に慣れていなかったためもあって、わずかにその首を傷つけただけであった。
身の危険を知ったロレンツォは、一説によれば上衣(うわぎ)をひるがえして右手にまき、一説によれば剣をぬき、敵をふせぎながら、聖器室に逃げこんで生命は助かった。
側近の一人は、短剣に毒がぬってあることを恐れて、ロレンツォの傷口を吸いつづけた。
このとき、日ごろスポーツできたえたロレンツォの身のこなしの素早さが、役立つたといわれる。
難をまぬがれたロレンツォは首に包帯して、メディチ家のバルコニーに立ち、民衆の喝采をあびる。
パッツィ家の一味は「人民と自由」と、街頭を叫んでまわったが、市民たちは、「パレ、パレ」(メディチ家紋章の玉のこと)と応じて相手にしなかった。
そしてバッツィ家一味に対する容赦ない処罰とはげしい弾圧を通じて、メディチ家の権勢はいよいよ確立した。
しかしこの陰謀以来ロレンツォは勢力家を警戒し、スパイ網をめぐらして友人でも、身内でも、その動静をさぐらせ、市民生活に干渉し、すべてに不信感を抱くようになった。
また共和制はつづいているが、その体制は改変されて、市政の当局者はメディチ派でしめられ、ロレンツォは実質的にはまさしく専制君主であった。
その政権を固めるうえで、ロレンツォは命がけの賭(かけ)に成功していた。
パッツィ陰謀後にもフィレンツェをおびやかしているナポリおよびローマ教皇の勢力に対して、戦争を不利とみたロレンツォは一四七九年末、ひそかにフィレンツェをはなれてナポリヘのりこんだ。
ナポリ王は彼を捕虜にはしたものの、その豪胆さにあきれるとともに、これに惚れこみ、これほどの男を殺すよりも味方にしたほうがよいと思った。
そこでロレンツォはこの相手を説きふせ、和解をとりつけてフィレンツェに帰り、さらに教皇とも和議を成立させた……。
一四八一年、ロレンツォ暗殺の別の計画があったのを機会に、彼の生命をおびやかすことは国に対する反逆罪だという法律が制定された。
しかしある人はいった。
「フィレンツェが専制君主を持たなければならないとすれば、ロレンツォよりもすぐれた人物はまたとあるまい。」
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ロレンツォの素顔
ロレンツォは彼なりにフィレンツェの商工業や公共事業の発達につくしたが、その関心は経済よりも政治に、そして学芸にあった。
この点て、彼はイタリア・ルネサンスの大学芸保護者であった。
そのまわりに集まった天才たちのなかでは、画家ボッティチェリ(一四四四ごろ~一五一〇)、詩人で学者のポリチアーノ(一四五四~九四)ヤピコ・デラ・ミランドラ(一四六三~九四)、若き日のミケランジェロ(一四七五~一五六四)などの名が、我々に親しい。
ミケランジェロは晩年のロレンツォにかわいがられ、メディチ家の宮殿に出入りして、そこに収集された古代の彫刻類について学び、またロレンツォが家族たちとともにする食卓にさえ同席した。
一方、あのレオナルド・ダ・ビンチ(一四五二~一五一九)の姿も、ロレンツォ治下のフィレンツェに見うけられるが、科学や技術に関心がうすかったこの支配者は、当時美術家というよりも科学者に近かったレオナルドを、さほど優遇しなかったらしい。
とくにメディチ家の保護をうけたヒューマニスト(人文学者、古典学者)であるピコ・デラ・ミランドラは、『人間の尊厳について』という著作のなかでいった。
「神は、人間が天使にでも動物にでもなれるように、この両者のあいだにその位置をさだめたもうた。」
これは人間が神にとってかわるということではなく、そうかといってたんなる動物とはちがう誇り高い存在であることを示すものであろう。
すなわちルネサンスの「人間の発見」とは、けっして神を無視するものではなく、万能の神に対して欠点は多いながらも、それなりに人間の理性、能力というものを正しく認め、これを主張しようとしたのである。
そしてこうしたヒューマニストたちが集まって、一種の高級な知的社交界をつくったのが、あの「プラトン・アカデミー」である。
中心はコジモにも優遇されたフィチーノであり、十五世紀末における彼の名声はヨーロッパ的なもので、各地心学者は手紙で彼と語りあい、またはるばるフィレンツェに足をはこんだ。
ロレンツォはまたすぐれた即興(そっきょう)詩人であり、たとえば松明(たいまつ)をかかげ、きらびゃかな衣裳で、合唄をともなって行なわれる祭典などにおいて、音楽の指揮にたくみな彼はそれを演出するのみならず、コーラスの歌は彼の自作によることがしばしばであった。
詩作は彼にとって、なりによりのレクリエーションであったが、彼はローマの詩人たちゃダンテ、ぺトラルカなどを手本として勉強をおこたらず、たんなる慰(なぐさ)みをこえたものを示している。
あるいはロレンツォはフィレンツェ郊外の別荘で、学者、文人たちを従えながら、プラトン哲学の美しい幻想にふけった。イタリアの空の静けさこそが、もっともふさわしい伴奏のように思われた。
あるいは豪奢(ごうしゃ)な饗宴(きょうえん)のきわまるところ「豪華王(イル・マニフィコ)」(当時の敬称の一種らしい)ロレンツォに深い想(おも)いをこめて、自作の詩をつぶやくのであった。
「うるわしき青春も とどむるによしなし たのしめよ、もろびと あすの日のさだかならねば……」
ロレンツォは宴席にかぎらず、おりにふれてこの句を口ずさんだといわれるから、会心の作であったのであろう。
事実、あすの日はさだかでなかった……。
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