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9-5-7 「大御代」の終わり

2024-06-17 05:33:57 | 世界史


『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
5 ルイ十四世が造ったベルサイユ宮殿の盛衰
7 「大御代(おおみよ)」の終わり

 ルイ十四世の大きな政策の一つは、一六八五年「ナントの勅令」を廃止したことであった。
 これは十六世紀末(一五九八)に、ときの国王アンリ四世が発してプロテスタントに信仰の自由をあたえ、多年の宗教内乱を終わらせたものである。
 ところがルイ十四世はこの勅令の役目を終わったものとみなし、自分が信ずる力トリック教で国民を統一することによって、王権をさらに確立させ、また国際的にもカトリック勢力の中心になろうと考えた。
 マントノン夫人ら側近の意向もあったらしい。
 この処置は、カトリック教徒が多い国民からはだいたい好意をもって迎えられた。
 しかし勅令廃止の結果、プロテスタント信仰をすてぬ者に対してはげしい迫害がおこり、一種の新しい宗教内乱が生じた。
 また亡命したプロテスタントは二十万から三十万といわれ、そのなかには産業家、手工業者、技術者、科学者なども多く、彼らを失ったことはフランスにとって打撃であるとともに、亡命先の新教国イギリス、オランダ、スイス、プロシアなどに利益をあたえることとなった。
 内乱としては「カミザールの乱」が有名である。
 一七〇二年、南フランスのプロテスタントたちがおこしたもので、夜目にもわかるように、服の上に白いシャツ(シュミーズ)を着ており、このシュミーズの方言カミゾーから「カミザール」の名がでたものらしい。
 彼らはジャン・カバリエなどのすぐれた指導者のもとに、団結して抵抗し、ルイ十四世はスペイン継承戦争に兵力が必要であったにもかかわらず、一時はビラール元帥と一万の兵をさかねばならなかった。
 ガバリエが亡命したのちにも、他の指導者のもとに、反乱は一七〇五年から一〇年までつづいた。
 ルイ十四世の宗教政策は、国際的にもよい結果をもたらさなかった。
 カトリック側の賛意はとおり一遍であったうえに、プロテスタント諸国は――前述のように亡命者で利をえたうえに――フランスに対して敵意をいだいた。
 おもしろいのは、この政策がイギリス名誉革命(一六八八)に影響したという見解である。
 当時のイギリス王ジェームズ二世はカトリックを保護したので、議会は、王がフランスに似た政策をとるのではないか、と心配した。
 ジェームズの要求で、フランスの遠征隊が渡英するといううわさも流れた。
 そこで議会はこれに早く対応して、ジェームズを位から追う必要にせまられたというわけである。
 ともかく名誉革命によって、オランダのオランイェ公ウィレムがイギリス王ウィリアム三世となったが、彼は政治的にルイ十四世と対立しただけではない。
 宗教上でも新教の擁護者として、フランス王と対抗したのである。

 ルイ十四世の時代は「大御代(おおみよ)」とよばれて、コルペールの重商主義政策のもと、フランスの発展をめざしたが、一方では、あいつぐ戦争や宮廷の浪費生活などのため財政難となった。
 また一般の国民はむしろ経済成長の犠牲とされ、貧しい状態におかれたままであり、とくに農民の多くは領主に搾取(さくしゅ)され、戦争に狩りだされ、凶作や伝染病に苦しみ、重税にあえいでいた。
 税といえは、王権とむすんで私腹をこやす徴税総請負人(フェルミエ・ジェネロー)は、人民大衆のうらみの的であった。
 当時の貧農たちの家といえば、ほとんど家具もなく、屋根裏つきの一部屋だけであり、満足なペッドももたず、麦わらの上に起き伏し、すりきれて、垢だらけの衣服をまとい、粗末な木靴に冬でも素足をつっこみ、パンがないときには草の根を食べ、酒が飲めるのはまれで、たいてい水で用をすましていた。
 彼らのたのしみは、祭礼の日の踊りとか、遊戯のようなものだけだったとみえる。
 したがって絶望からの農民反乱が各地で起こった。
 それはすでにルイ十四世の最盛期から生じ、その晩年には「慢性的状態」となった。
 しかもこうしたところへスペイン継承戦争がはじまり、国土の一部を占領した敵兵による掠奪、暴行がつづいた。
 一七〇九年ごろにはベルサイユにおいても、王宮の柵ごしにもの乞いする者がでるありさまであった。
 農民の逃亡、農作物の減産によって十八世紀初めには地価も下がった。乳児や幼少年の死亡率も高く、人口増加が停滞した。こうした状態に対して、改革をめざす人びとも現われてきた。
 たとえば、ルイ十四世の孫で、王位継承予定者ブルゴーニュ公ルイの教育係フェヌロン(一六五一~一七一五)を中心として、王政改革派が形成された。
 彼はいう。「全フランスは荒れはてて、食べものもない、広大な貧民救護所にすぎない。」
 フェヌロンは教材として書いた『テレマック』において、「人民を愛せよ、戦争を好むな」と王者の徳を説いて、反響をよんだ。
 ところが期待されたブルゴーニュ公は一七一二年、ルイ十四世に先んじて死去し、フェヌロンら王政改革派の夢もついえたのである。
 あるいは軍人、築城家として当代の第一人者ボーバン(一六三三~一七〇七)は一書を著わして、税制上の特権を批判し、全国民に平等な課税を要求した。      

 しかしこの意見は僧侶や貴族の特権階級の猛反対をあび、ボーバンは悲憤のうちに世を終えた。

 統治七十二年、あと四日で満七十七歳をむかえるルイ十四世は、一七一五年九月二日、逝去した。
 晩年の王は肉親にあいついで先立たれ、からだも衰え、失意の色がふかかった。
 栄華を誇ったベルサイユも王とともに老いて、活気を失っていた。
 そして王の死は国民に大きな解放感をあたえた。葬列が通過するパリの街頭では、人びとは踊り、歌い、飲み、口ぎたなくののしっていた――。





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