『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
3 イギリスのピューリタン革命
5 チャールズ一世の死刑
長老派と独立派とが分裂し、軍隊内では独立派の軍幹部と水平派の兵士たちとの対立がはげしくなったとき、幽閉中のチャールズ一世が脱走して、イギリス海峡のワイト島にはしった。
一六四七年十一月のことで、王にとっては絶好のチャンスである。
王は十二月スコットランドと協定をむすび、長老制の樹立をみとめ、スコットランド軍の援助をすることになった。
こうして、長老派と国王派とがむすびつき、ウェールズで反乱がおこり、第二次内乱となった。火の手はケント、エセックスにおよび、ロンドンでは海軍が反乱をおこして国王側についたばかりでなく、スコットランド軍が南下してきた。
しかし、第二次内乱は長老派の見こみに反して、軍隊内部の対立を一時的に緩和し、独立派と水平派との団結を堅くするのに役立ち、一六四八年八月までに、国王軍やスコットランド軍が敗北した。
その後もチャールズ一世は、あいかわらず策謀をやめなかった。革命を成功させるためには、王がいないほうがよいという考えが、一般につよくなってきた。
水平派も、独立派の軍幹部も、王を内乱の責任者として裁判すべきことを、公然と要求する。
一六四八年十二月六日、独立派のプライド大佐が一隊の兵をひきいて議会をとり囲む。登院してくる議員のうち、長老派と目(もく)されるもの約百四十名が追いかえされ、あるいは逮捕された。
これが「プライドのパージ」とよばれる事件である。
残った六十名たらずのもので議会が構成され、議会における独立派の支配が確立した。
このいわゆる残部議会には二派があった。王の処置について処刑を主張する派と、監禁しつづけることを主張する派である。
クロンウェル自身は元来立憲君主政論者であり、ひそかに後者を支持していたようであるが、王が殉教者として死んでゆく覚悟をかため、一歩も退かないので、彼もやむをえず、王処刑を決意した。
一六四九年一月、議会は王の裁判のため、特別裁判所を設置する。
百三十五名の裁判委員のうち拒否するものが多く、裁判に関係したのは六十名ほどであった。
チャールズは法廷において、この裁判所の権威をみとめることを拒絶した。
しかし一月二十七日、判決がくだった。
「チャールズ・ステュアートを、暴君、反逆者、殺戮者、この国の善良な人びとに対する公敵として、斬首により死刑に処する。」
三日後の一月三十日、チャールズはホワイトホールの外側に設けられた処刑台上で、斬首された。ときに二時四分。
王の処刑について、「暴君に対する責任追及、裁判、死刑」の正当性を主張し、また処刑非難に対して筆をもって精力的にたたかったのは、『失楽園』(一六六七)の作で有名な詩人ミルトンである。