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『六朝と隋唐帝国 世界の歴史4』社会思想社、1974年
4 魏(ぎ)より晋(しん)へ
1 禅譲の革命
魏の咸煕(かんき)二年(二六六)十二月、洛陽の南郊にもうけられた祭壇のまえに、数万の人があつまっていた。
大臣や将軍たちにまじって、南匈奴(きょうど)の単于(ぜんう)や、そのほかの異民族の人たちの顔もみえる。
この日、柴のうえに犠牲(動物)をおいて焼き、上帝をまつる報告祭がおこなわれるのである。魏から晋への王朝の交替が報告され、長年にわたる魏晋の革命劇は幕をとじる。
この年の十一月、魏の元帝は天命がすでに魏を去って、司馬氏に革(あらた)まったことを知った。元帝は司馬炎(しばえん)にむかい、天命にしたがって皇帝の位につくことを命じた。
これをきいて司馬炎は、つつしんで辞退した。
これに対し、魏の大臣たちもまた、帝位につくことをすすめた。
司馬炎は辞退しきれず、ついに帝位につくことを承知したのである。
十二月にはいって、元帝は祭壇を洛陽の南郊にもうけることを命じた。
それとともに、皇帝の璽(じ=しるし)を司馬炎のもとにとどけさせた。
一日おいて元帝は、洛陽の東にある金墉(きんよう)城にひきこもり、そしてまた一日おいて、この報告祭の日がきたのである。
司馬炎がうやうやしく読みあげた祭文は、「天命にしたがい、衆望にこたえる」とむすばれていた。
このあと、司馬炎すなわち晋の武帝は、即位の詔(みことのり)を発した。
ついで大赦(たいしゃ)令が出され、また年号は泰始(たいし)とさだめるむねが発表された。そのほか、むこう一年間の租税の免除などの令も発布された。
あくる日は司馬氏の祖先への報告、祖父の司馬懿(い)に宣帝、伯父の司馬師に景帝、父の司馬昭に文帝の諡号(しごう)をおくり、また一族の封建をおこなって、あたらしい人事を発表した。こうして晋の王朝が誕生した。
この咸煕(かんき)二年十二月におこなわれた王朝の交替劇においては、ただのひとりも血をながした人はいない。
政権の授受はまったく平和のうちにおわった。すでに後漢から魏への交替のときにも、この方法はとられている。
こういう政権の交替を「禅譲(ぜんじょう)」とよぶ、理想の政権交替であり、聖天子たる尭(ぎょう)舜(しゅん)の時代に実行されたものであったのが、いまの世に復活した、というわけである。
この後も禅譲の方法は、ながく受けつがれていった。
しかし王朝の交替が、一滴の血をもみずにおこなわれたと早合点してはならない。
咸煕二年の十一月から十二月にかけてのできごとは、つまるところ、芝居なのである。
魏から晋へ王朝の交替をするのだという筋書は、あらかじめきまっていた。
しかし、その筋書ができるまでには、ながい年月にわたる争いがあり、どれだけの人が血をながし、命をうしなったことか。禅譲の背後にも、やはりたくさんの流血があった。
4 魏(ぎ)より晋(しん)へ
1 禅譲の革命
魏の咸煕(かんき)二年(二六六)十二月、洛陽の南郊にもうけられた祭壇のまえに、数万の人があつまっていた。
大臣や将軍たちにまじって、南匈奴(きょうど)の単于(ぜんう)や、そのほかの異民族の人たちの顔もみえる。
この日、柴のうえに犠牲(動物)をおいて焼き、上帝をまつる報告祭がおこなわれるのである。魏から晋への王朝の交替が報告され、長年にわたる魏晋の革命劇は幕をとじる。
この年の十一月、魏の元帝は天命がすでに魏を去って、司馬氏に革(あらた)まったことを知った。元帝は司馬炎(しばえん)にむかい、天命にしたがって皇帝の位につくことを命じた。
これをきいて司馬炎は、つつしんで辞退した。
これに対し、魏の大臣たちもまた、帝位につくことをすすめた。
司馬炎は辞退しきれず、ついに帝位につくことを承知したのである。
十二月にはいって、元帝は祭壇を洛陽の南郊にもうけることを命じた。
それとともに、皇帝の璽(じ=しるし)を司馬炎のもとにとどけさせた。
一日おいて元帝は、洛陽の東にある金墉(きんよう)城にひきこもり、そしてまた一日おいて、この報告祭の日がきたのである。
司馬炎がうやうやしく読みあげた祭文は、「天命にしたがい、衆望にこたえる」とむすばれていた。
このあと、司馬炎すなわち晋の武帝は、即位の詔(みことのり)を発した。
ついで大赦(たいしゃ)令が出され、また年号は泰始(たいし)とさだめるむねが発表された。そのほか、むこう一年間の租税の免除などの令も発布された。
あくる日は司馬氏の祖先への報告、祖父の司馬懿(い)に宣帝、伯父の司馬師に景帝、父の司馬昭に文帝の諡号(しごう)をおくり、また一族の封建をおこなって、あたらしい人事を発表した。こうして晋の王朝が誕生した。
この咸煕(かんき)二年十二月におこなわれた王朝の交替劇においては、ただのひとりも血をながした人はいない。
政権の授受はまったく平和のうちにおわった。すでに後漢から魏への交替のときにも、この方法はとられている。
こういう政権の交替を「禅譲(ぜんじょう)」とよぶ、理想の政権交替であり、聖天子たる尭(ぎょう)舜(しゅん)の時代に実行されたものであったのが、いまの世に復活した、というわけである。
この後も禅譲の方法は、ながく受けつがれていった。
しかし王朝の交替が、一滴の血をもみずにおこなわれたと早合点してはならない。
咸煕二年の十一月から十二月にかけてのできごとは、つまるところ、芝居なのである。
魏から晋へ王朝の交替をするのだという筋書は、あらかじめきまっていた。
しかし、その筋書ができるまでには、ながい年月にわたる争いがあり、どれだけの人が血をながし、命をうしなったことか。禅譲の背後にも、やはりたくさんの流血があった。