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6-12-1 元朝の支配

2023-08-13 06:54:52 | 世界史
『宋朝とモンゴル 世界の歴史6』社会思想社、1974年
12 元朝の支配
1 ベニスの商人

 ちょうどフビライが即位したころのことである(一二六〇頃)。
 キプチャク汗のベルケ(バツの子)はめずらしい客人を引見していた。
 ベニスの商人で、ニコロ・ポーロとマッフェオ・ポーロの兄弟であった。
 二人は一二五三年にベニスを発し、商売のためにコンスタンティノープルにおもむいた。
 そこに六年ほど滞在し、それからモンゴル人と取引しようと思いたって、キプチャク汗国まで出むいてきたのであった。
 ボーロ兄弟は、ペルケに宝石を贈り、その二倍の値段にあたる品物を受けとった。
 取引は大もうけであった。
 勇(いさ)んでベニスに帰ろうとしたところ、イル汗国のプラグとベルケとのあいだに戦争がはじまった。
 南西への道は危険となる。帰りたくとも帰れない。
 そこで東方へむかった。目的地はボハラである。
 チャガタイ汗国の西辺にあり、内陸貿易の中心地であった。
 ここにも、戦争のため三年とどまった。
 そして三年目、このポハラの町にフビライの使者が立ち寄った。
 フビライからイル汗国につかねされて、その帰りみちだった。
 使者たちも、めずらしい商人がいることを聞き、兄弟をまねいた。
 ボーロ兄弟は、東方の地の果てに住む、すべてのモンゴル人の君主のことを知った。
 フビライの都に行かないかとさそわれた。兄弟の心はうごいた。
 大汗の都にゆけば、大きな取引ができるにちがいない。
 それに、使者たちと同行すれば、ながい道中も安全である。
 たしかに、ながい道中であった。
 モンゴルに着くと、さっそく大汗フビライに召された(それが大都であったか、上都であったかは、わあらない)。
 フビライは大いによろこんで、さまざまの質問を発した。
 西方の国のこと、人民のこと、そしてローマ教皇とキリスト教のこと。
 フビライはボーロ兄弟に、莫大な贈りものをあたえた。
 帰るにあたってはモンゴル人の使者を付し、ローマ教皇への親書を託した。
 もう一度たずねてこい、そのときはキリスト教の学者で七芸(修辞、論理、文法、算術、天文、音楽、幾何)に通じた者を百人つれてこい。
 またイェルサレムのキリストの墓にともされているランプから、聖油をもらってこい。――
 それがフビライの命令であった。

 さて帰途は、大汗の命令をうけた正式の使者である。
 黄金の牌(はい)をたずさえて、駅伝を利用しつつ、西へむかって旅をすすめた。
 こうしてベニスに、十五年ぶりで帰りついた。
 さきに故郷を出るとき、ニコロの妻は身ごもっていた。その妻はすでに死んでいたが、腹のなかにいた子どもが、いまは立派に成人していた。それがマルコ・ポーロであった。
 それから二年の月日がすぎた。ボーロ兄弟としては、大汗との約束を果たさねばならない。
 しかしローマ教皇(クレメンス四世)は死んでいて、つぎの教皇がなかなかきまらない。
 教皇がきまらなければ、百人の学者をえらんでもらうことはできない。
 兄弟はあせった。しかたがない。学者はあきらめて、聖油だけをもらっていこう、と考えた。
 そして、今度の旅行には、十七歳になったマルコ・ポーロをも、ともなうことにしたのであった。
 一二七一年の夏、三人のベニスの商人は、故郷をはなれた。イェルサレムにゆき、聖油をもらった。
 それからはイランをへて、内陸の道をとおり、三年半をついやして、ようやくモンゴルに到着した。
 フビライは上都(シャンド)にいた。ふたたびベニスの商人を見て、大いに満足であった。
 長途の苦労をいたわり、あつくねぎらった。
 そうしてボーロをみとめ、何者か、とたずねた。
 ニコロがこたえると、ただちに大汗は、ボーロを近臣の一人にとりたてた。
 これから十七年を三人は中国でおくった。大汗の保護のもとで、ベニスの商人たちは安楽であった。
 ことにマルコは、大汗のあつい信任をうけ、あるいは地方官として各地に赴任し、あるいは大汗の使者として領内をまわった。
 しかし故郷を出て二十年あまりもすぎれば、やはり望郷の念にかられてくる。
 ある日、ニコロは大汗の機嫌のよいときを見はからって、帰国をゆるしていただきたいと願いでた。
 これを聞いて、大汗は非常に驚いた。
 なにか不足があるのか、望むだけの栄誉をさずけてやろう、と大汗は言った。
 そして、領内ならばどこに行ってもよい、しかし「いかなる理由によっても、領内をはなれてはならぬ」と達せられた。
 そのころ、イル汗国のアルグン・カン(フラグの孫)から、フビライのもとに使者がきた。新しい妃をむかえたい、というのであった。
 その希望をいれて、フビライは一族の王女のなかから十七歳のコカチン姫をえらんだ。
 さてイル汗国の使者たちは、海路によって姫を連れていこうとする。
 そこで海には経験のふかいベニスの商人たちに、目をつけた。彼らに同行してもらおうと考えた。
 そのむねをフビライに申しでた。フビライは不満であったが、何よりも姫を無事に送りとどけねばならない。
 ついに三人の同行をゆるしたのであった。
 フビライの命令で、十四艘の大船が用意された。
 それは四本マストの帆船であり、六十の船室があった。
 船員は一艘につき二~三百人、さすがのベニスの商人たちも、故郷では見たこともない豪華船であった。
 しかも船体は十三の区画に仕切られており、たとえ座礁や衝突によって穴があいても、その区画に浸水するだけですむ。
 みごとな構造であった。
 一二九〇年、船団は出帆した。チャンパの岸をへて、マラッ力海峡をこえ、インド洋をわたってイランのホルムズへ。
 そこでイル汗国の役人にむかえられた。
 使命を果たした三人は、それよりコンスタンティノープルをへて、一二九五年、ベニスに帰った。
 二十五年間の長い異国のくらしも、これで終わった。
 のち、マルコ・ポーロはベニスとジェノワとの海戦に加わり、捕虜となってジェノワの獄につながれる。
 その獄中で記したものが、有名な『東方見聞録』であった。
 珍奇な東方の旅行談は、ヨーロッパの人々に読みつがれ、語りつがれ、マルコ・ポーロの名を不朽のものとした。 




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