挿絵はアウラングゼーブ帝
『アジア専制帝国 世界の歴史8』社会思想社、1974年
15 イスラムとインド
6 ムガルの没落
ムガル史上最大の領域を実現した六代皇帝は、なかなか気むずかしいイスラム教徒だったらしい。
いまでも石部金吉(いしべきんきち)流のかたぶつの男を、ときに「オーラングゼーブ」とあだ名するほどである。
この皇帝の墓は、かれが崇拝していたイスラムの聖者の廟の境内の一隅を仕切って、大理石の墓石を置くにすぎない。しかも、雨ざらしのままである。
一説によると、この皇帝は、生前から、自分の葬式には十ルピーしか使うな、と部下に命じていたという。
この、いわば締まり屋の皇帝の治世の後半は、領域の拡大のゆえもあったにせよ、乱れにみだれるという結果をみちびいた。
各地には反乱がつづいておこり、さしものムガル体制も内部からぐらついてしまったのである。ジャハーンギールやシャージャハーンの治世の、豪華で放漫な政策のひずみが、もはや限界にきてしまった感がある。
オーラングゼーブの妃の一人の墓が、デカンの都市オーランガーバードの町はずれにある。
タージ・マハルを模したといわれていて、なるほど似てはいる。
しかし、その中身は煉瓦づくりで、いまでは外部の装飾もはげ落ち、老醜のわびしさを露呈している。
帝国の分裂と衰退をおおいかくそうとして及ばなかった、ムガル支配層のみせかけの努力を象徴しているといったら、酷にすぎるであろうか。
ムガル歴代の皇帝の治世の歴史をみてゆくと、たえず帝位の継承をめぐって、兄弟や子孫の反乱がつづいている。
アクバルでさえ、王子の反乱のにがい経験を味わわされたのであった。
ジャハーンギールが、まだサリーム王子と称していたとき、父帝アクバルに対しておこした反乱は、インドでは有名な物語にまでなっている。
オーラングゼーブが、父帝シャージャハーンをアーグラの王城の一室に幽閉し、そのためこの老帝は、はるか川むこうの愛妃の廟タージを見ながら、七年におよぶ悶悶(もんもん)の月日をおくったということは、これまたインド史上の著名なエピソードの一つである。
父子や兄弟のあいだに生じた不信感と殺し合い、そういう中世の王権をめぐるエピソードは、世界史に数かぎりなく伝えられている。
デリーの諸王朝、ムガル帝国、そしてインド各地の諸王国の玄配層や貴族たちの権力争奪の歴史も、そうした挿話(そうわ)には、同じく、こと欠かないといえるのである。