『アジア専制帝国 世界の歴史8』社会思想社、1974年
8 日本の朝鮮侵攻
3 日明の和平交渉
朝鮮の敗報は、しきりに明朝に達している。さらに援軍の要請もとどいた。
しかし、はじめ明朝では、日本軍の進撃があまりに迅速なので、朝鮮が案内をしているのか、と疑ったほどであった。
いかにすべきか。明朝でも議論が百出した。
ある者はいう。江南より海軍を発して、日本の虚をつくべし。
また、ある者はいう。琉球や暹羅(せんら=シャム)などの国から兵をつのって、日本を征せよ。
これらは積極論である。
ところが、朝鮮を見すてよ、と主張する者もあった。
遼東に兵をだして、かたく国境をまもれ、というわけである。
さらには日本と和をむすんで、戦争をさけようという者さえあった。
じつは、このとき明朝は、西北辺においてモンゴル人の反乱になやまされていたのである。
黄河の上流の寧夏(昔の西夏の都)を中心に、ボハイ(嚀拝)という者が反乱をおこし、なかなか鎮定にいたらない。
いく人もの将軍をさしむけた末、もっとも令名の高い李如松をつかねし、精鋭の兵をさずけて、討伐にあたらせていた。
東方に対しては手薄であった。
しかし兵部尚書(へいぶしょうしょ=軍部大臣)の石星(せきせい)は、つよく出兵を主張した。
朝鮮は明朝の属国である、朝鮮をうしなえば、遼東があぶない、遼東をうしなえば、北京があぶない。
ついに救援の兵が発せられることに決する。遼東から三千の兵をくり出し、祖承訓にひきいさせた。
かねてから祖承訓は、しばしば北辺において大功を立てている。
そこで「倭兵のごとき、何ごとかあらん」と、大いに意気ごんで朝鮮にむかった。
七月七日、祖承訓は、行長らのまもる平壌を攻めた。そして大敗した。
このとき「承訓はわずかに身をもってまぬがれ、三千人は回(かえ)るもの数十人のみ」というありさまであった。
明の朝廷は大いに驚き、あわてた。ついに和議をすすめることにふみきったのである。
兵部尚書の石星は、さきに出兵をとなえたものの、じつは和戦両面のかまえなのであった。
表面では救援の兵を発する、しかし裏面では和平をはかる、明朝の国力を考えれば、それが最善、とおもっていた。
そこで、ひそかに日本の国情に通じた者をつのった。
ここにあらわれたのが、沈惟敬(しんいけい)であった。
浙江(せっこう)の出身で、その前半生はよくわからない。
すこぶる弁舌がたくみであり、日本のこともよく知っている。
そこで石星は、この沈惟敬を特使として、朝鮮へおくりこんだ。
惟敬は、まず義州にいたり、朝鮮国王や大官たちと会った上、八月の末には平壌におもむいて、小西行長や宗義智らと、和議の交渉をはじめた。
和議には、行長らも賛成であった。日本から持ちだした条件は、「封(ほう)・貢(こう)」であったという。
「封」とは、明朝から秀吉を日本国王に封(ほう)じ、正式の国交をむすぶことである。
「貢」とは、わが国からの朝貢をゆるす、つまり実質においては貿易をみとめる、ということである。
この条件でひとまず合意が成った。よって五十日間の休戦を約し、九月三日に沈惟敬は去った。
ところで秀吉は、わが軍の進撃ぶりを聞いて、大いに得意であった。
この年の五月には、いよいよ明国まで討ち平らげようと、大変な構想を立てている。
明後年を期して都も中国へうつし、天皇へも動座をねがおうという。
もちろん、明朝に対して和を求めるごときことは、ゆめにも思っていない。
しかるに行長は、あえて和議に応じて「封・貢」の許可を求めたのである。
そればかりか、六月に平壌を攻略してから、その地に軍をとどめたまま、動こうとしなかった。
じつは日本軍は、海上において敗れていた。
日本の水軍は、李舜臣のひきいる朝鮮の水軍に大敗した。
李舜臣は、あらたに亀甲形の戦艦をつくって、矢石をふせぎつつ、優秀な火砲をそなえて、日本軍をむかえ討った。
そのため「前後七戦して、四百余隻を焼破し、斬級(首級をきる)のほか、溺水して死する者、その数を知らず」というありさまであった。
こうして日本軍は、朝鮮海峡における制海権をうしなった。輸送もおもうにまかせなくなった。
そのうえ、朝鮮の各地に、義兵がおこった。
軍隊はやぶれても、民衆は生きている。
地方の役人や儒学生たちが先頭に立って、祖先の土地をまもるために立ちあがった。
いわばゲリラであった。
土地に根ざした民衆の抵抗があっては、むやみに戦線をひろげることはできない。
陸上の輸送さえ、おぼっかなくなるであろう。
戦局の将来を見とおす目を持っているならば、このあたりで和平を講ずるのが、順当にちがいなかった。
さて沈惟敬は、約束の期限からだいぶ遅れて、十一月の末にふたたび平壌におもむいた。
ここで明朝からの条件をだす。
「封・貢はゆるしてもよい。ただし日本軍は、その前に朝鮮の二王子、そのほかの捕虜をかえして、半島から撤退せよ。」
これに対して行長はこたえた。
「二王子は、いま手もとにないから返せぬ、平壌からは撤退してもよい。
しかし大同江の線までは日本軍の占領地である。」
結局、和議はまとまらず、また休戦の期間を延長して、沈惟敬は北へかえった。
しかし、このたびの和平工作は、明朝の計略であった。
休戦の約束をむすんでおきながら、明の大軍は朝鮮にむかって進撃しつつあったのである。
十月には寧夏の反乱も鎮定された。名将の李如松も凱旋した。
そこで李如松をあらためて東征の総司令官とし、朝鮮へさしむけるにしたがのである。
十二月、李如松は遼陽に達した。
四万三千の大軍をひきい、いよいよ鴨緑江をわたって、まっしぐらに進んだ。
平壌の日本軍は、和議の成立を期している。
もちろん行長とて北方には気をくばって、朝鮮人の斥候(せっこう=見張り)を配置していた。
それらが、みな明軍のために捕えられ、殺された。
万暦二十一年(一五九三)、日本の文禄二年、その正月八日、李如松の大軍は平壌におそいかかった。
不意をうたれて日本軍はふせぎきれず、撤退のやむなきにいたった。完全な敗退である。
日本軍は京城までしりぞいた。
明の大軍を前にして、この上は京城をまもりぬくほかに、方法はない。威鏡道にいた加藤清正の軍もよびかえした。
明軍の意気、いよいよ上がり、二十日には開城に達した。
二十七日、その先鋒は京城の北、碧蹄(へきてい)駅に着く。
ここは京城をへだたること、わずかに二〇キロ、四方を山にかこまれている。
日本軍は京城をまもるために、小早川隆景、立花宗茂らの軍をもって固めていた。
そこへ李如松は数千の兵をひきいて南下してゆく。あきらかに日本軍をあなどっていた。
「しかるに日本軍は、精兵十万をもって、明軍を碧蹄に包囲した。
李如松は衆を鼓舞して力戦し、一が百にあたる働きをしめす。
ようやく後続の軍も到着し、内外より攻めて、斬首一百六十七級をえた。
これより日本軍は明朝の兵の勇敢なことに驚き、抗戦をあきらめた。」
これは、明朝の記録がつたえるところである。日本の記録(太閤記)では、十万の明軍をわずかの兵で撃破した、という。
ところが朝鮮の記録にあっては、どちらとも違う。
「李如松は大軍を後方にとどめたまま、騎馬千余をもって進んだ。
そこへ、数万の日本軍がおそいかかった。明軍は騎馬で、火器を持たない。手にするのもは短剣のみ。
これに反して日本軍は歩兵であり、長い刀をふりまわして突進した。
李如松は後軍を徴したが、なかなか至らぬ。しかも先軍はやぶれて死傷すこぶる多い。
ついに大敗のまま、軍をかえした。」
こうして明軍は、とうとう平壌まで引きあげてしまったのである。
講和の気運は、ふたたび動いた。沈惟敬は、またも行長の陣へおもむいた。
日本軍でも、輸送のできないところから、はなはだしく糧食の欠乏を告げている。
徴発しようとしても、とれるものがなかった。
朝鮮の窮状は、目もあてられぬほどである。
いたるところが戦火におおわれ、人民はみな山にのぼり、谷にひそみ、種をまくこともできない。
人が多く、食がすくなく、飢えた民があちこちさまよう。
それは京城とても同じであった。
生きている者でも、面色は鬼のごとく、人や馬の死体が道ばたにあふれ、あるく者は鼻をおおって過ぎてゆく。
これでは戦争をつづけてゆくことはできなかった。
占領をつづけることも無理である。
三月なかば、和議の交渉はまとまった。朝鮮の故土をかえし、王子たちもかえして撤退すれば、封事(ほうじ)はみとめられよう、というのが沈惟敬の主張である。
これに対して行長はこたえた。
「明朝から講和の使者を発し、兵を引くならば、二王子をかえして退去しよう。」
そこで沈惟敬は遼東までもどって、講和の使者と称する者をしたてた。
もちろん正式の使者ではない。
その使者が四月十七日に京城に入ると、翌十八日には日本軍も京城から撤退した。
いれかわって明軍が入城し、国王たちもかえってきた。
日本軍は、わずかに半島の南部一帯を確保して、和議の保障とした。
明の「使者」は肥前の名護屋(なごや)までおもむき、五月の末には秀吉に謁見する。
秀吉は、かれらを明朝の勅使とみなし、すこぶる優遇した。
ここで秀吉から提示されたのが七条件である。
一、大明皇帝の賢女をむかえて、日本の后妃にそなえる。
一、両国の貿易を復活し、官船や商船を往来させるようにする。
一、大明と日本との通好は変わらざるむね、両国の大官が誓詞をとりかわす。
一、朝鮮の八道を分割し、四道(北半)ならびに京城は、これを朝鮮に返還する。
一、朝鮮の王子ならびに大臣の一両員、人質となって渡海する(日本へ渡る)。
一、生けどりの朝鮮王子二人は、これを旧国に帰す。
一、朝鮮国王の権臣は、累世(日本に)違却せぬことを、誓詞として差し出す。
これには石田三成、増田(ました)長盛、大谷吉継、小西行長の四人が、副署をしている。
一年前における秀吉の雄図とはまったく違って、明国を征服するどころではない。
おそらく秀吉としてはぎりぎりの譲歩であったであろう。
そこまで四人が、秀吉を説得したものに違いない。
ところで七条件のうち、明国に対するものは三ヵ条である。
明朝の皇女を日本の后妃にするというのは、形の上からみれば「封」の承認であった。
秀吉としては、対等の礼と考えたかも知れない。
しかし明国からみるならば、あきらかに属国に対する礼であった。
蕃族の心を和らげるために公主(皇女)を降嫁せしめるというのは、中国の王朝がしばしばおこなってきた政策であった。
それを、こちらから求めたのである。
すなわち日本が、明朝に対して恭順の意を示したことにほかならなかった。
しかも、これを実現させるためには、日本の主権者が明朝から「国王」として冊封せられることが必要であった。
つぎの貿易にしても、明朝としては「朝貢」という形でなければ、貿易はみとめない。
そこで貿易ということは、「貢」の承認とかわりなかった。
いわば秀吉の七条件のうち、明国に対するものは「封・貢」の承認を求めたものであった。
あえて封貢をいわず、秀吉にも明朝にも受けいれられる表現にしたところに、行長らの苦心のあとがしのばれよう。
ただし朝鮮に対しては、南半の四道の割譲を要求している。
これは朝鮮として受けいれられるはずはない。
しかも和平の交渉は、日本と明国とのあいだに進められたのであって、朝鮮は関知させられていないのである。