アロイジオ・デルコル神父『神を知る心 ー 知恵を働かせて』
◆2、なぜ神を認めたくないのか
「見たくないから見ないのだ」というなら、当然、「なぜ見たくないのか」と問わねばなりません。その動機について、先に少し述べましたが、ここでは、もっと詳しく考えてみましょう。
ずるずると、悪い生活におぼれてしまって、泥沼のなかに、いつまでも、落ち着いていたい人、あるいは、不潔な行いを続けている人、嘘に慣れ、不正から離れたくない人たちにとって、”神”というこの存在は、どんな存在でしょう。快い存在?とんでもありません。快いどころか、迷惑至極な存在、嫌で、嫌で仕方がない、できることなら、抹殺してしまいたい存在です。
そうです。誰しも、みな、清い思い、愛に満ちた心、善い行いの後には、必ず心に喜びが、泉のように溢れてくるのを感じます。でも、悪い思いに耽った後は、また、善くない行いをした後は、まるで心に、まむしをかこったようになります。
どうやら、最初の間、当分は、考えないかもしれませんが、しかし、大さわぎをしていたその場所から離れて、ひとりぼっちになったとき、夜、闇の静寂に、あのこと、このことが、幻のように浮かんでくるとき、解んでくるとき、そうでなくても、突然元気だったその人が、病に倒れたそのときに、否が応でも、どうしても考えずにはいられなくなります。そして、この人たちにとって、やるせない心の逃げ場はただひとつ、「神がなんだ、そんなものはいないのだ」と、無理にでも否定することです。
彼らは、こうして、神の存在さえ否定できれば、安心して、自分のやりたいことができるのですから、必死になって、その方法を探し求めます。このとき、もし、彼が秀でた知恵を持っていれば、それを乱用して、いろんなごまかしを考えてしまいます。
ごまかし、そうです。
自分が心の底で認める真実を、わざと否定するのですから、ごまかしでしかないのです。そして、ごまかしであるからこそ、いつまでも、続くことができません。
よろしければ、フェイスブックのカトリックグループにもご参加ください。FBではここと異なり掲載が途切れることもありません。
◆2、なぜ神を認めたくないのか
「見たくないから見ないのだ」というなら、当然、「なぜ見たくないのか」と問わねばなりません。その動機について、先に少し述べましたが、ここでは、もっと詳しく考えてみましょう。
ずるずると、悪い生活におぼれてしまって、泥沼のなかに、いつまでも、落ち着いていたい人、あるいは、不潔な行いを続けている人、嘘に慣れ、不正から離れたくない人たちにとって、”神”というこの存在は、どんな存在でしょう。快い存在?とんでもありません。快いどころか、迷惑至極な存在、嫌で、嫌で仕方がない、できることなら、抹殺してしまいたい存在です。
そうです。誰しも、みな、清い思い、愛に満ちた心、善い行いの後には、必ず心に喜びが、泉のように溢れてくるのを感じます。でも、悪い思いに耽った後は、また、善くない行いをした後は、まるで心に、まむしをかこったようになります。
どうやら、最初の間、当分は、考えないかもしれませんが、しかし、大さわぎをしていたその場所から離れて、ひとりぼっちになったとき、夜、闇の静寂に、あのこと、このことが、幻のように浮かんでくるとき、解んでくるとき、そうでなくても、突然元気だったその人が、病に倒れたそのときに、否が応でも、どうしても考えずにはいられなくなります。そして、この人たちにとって、やるせない心の逃げ場はただひとつ、「神がなんだ、そんなものはいないのだ」と、無理にでも否定することです。
彼らは、こうして、神の存在さえ否定できれば、安心して、自分のやりたいことができるのですから、必死になって、その方法を探し求めます。このとき、もし、彼が秀でた知恵を持っていれば、それを乱用して、いろんなごまかしを考えてしまいます。
ごまかし、そうです。
自分が心の底で認める真実を、わざと否定するのですから、ごまかしでしかないのです。そして、ごまかしであるからこそ、いつまでも、続くことができません。
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