アロイジオ・デルコル神父『神を探す心 ー 目に見えるものを通して』
◆7、土台を崩そうとしても無理
天主なる神が存在するのであれば、人はそれに向かって「なぜ私に命令を下すのか」とも、「私に、こんな命令を下す権利がどこにあるのか」とも、とても言えないからです。
私たち人間は、神が存在するかぎり、その権利を否むことができません。それは、明白な事実です。ある人々が神の存在を認めたくないのは、そのためです。
だからこそ、彼らは、権利が基づいているその土台を崩してしまいたいのです。
神さえ存在しないなら、神の干渉を受ける必要はない。我々は、思うままに勝手に振る舞うことができるのだ、と言えるのです。
ところが、いくら人間が神を否定しても、観念論者たちか言うように、神の存在は、人の考えに依存してはいません。かえって人間こそが神に依存しています。それで、人は、神の存在を、いくら疑いを持ち出しても、かき消すことはできないのです。それどころか、いろいろなことについて、ほんの少しでも考えを巡らすなら、ありとあらゆるものが、神に作られており、神こそ、すべてのものの支配権をもつ方だと認めないではいられなくなってくるのです。
ある人が、神の存在に対する私たちの認識について、大変興味深いことを言っています。
「神の前に立つ人間は、父の前に立つ子供のようである」と。
そうです、子供は、父を目の前にして、
「あなたが、本当に私のお父さんであるということを証明してください」というような態度をとるでしょうか?
また父は、自分が、父親であることを子供に理解してもらうために証明書をださねばならないものでしょうか?
とんでもありません。もしそんなことをしなければならないとしたら、大変です。こんなことは、証明するまでもないわかりきったことです。
神の場合も、これと同じことです。特別な証明が必要だというわけではありません。なぜなら、もうわかりきったことだからです。
しかし、わかりきったことというのは、それについて知るべきことを完全に知っているというのとは違います。
では、考えてみてください。子供が父親のことを、
「お父さんの生まれた年はいつ?」
「お父さんの国はどこ?」
「お父さんは、どんな学問をしたの?」
また「お父さんには、どんな特徴かあるの?」
「お父さんのポケットには、いくらお金が入っているの?」
などといったことについて調べないうちは、本当にお父さんかどうか認められないなど というでしょうか。
あるいは、こんなことを知らないなら、お父さんが存在しているとういうことさえ疑わしい、というのでしょうか。決してそうではありません。何も知らなくても、心では、もうちゃんとお父さんを認めています。そこには疑いのかすかな影さえもさすことができません。神に作られた私たちにとって、神の存在は、本当は、心の中では、既に自明のことです。
しかし、いろいろな考えに邪魔をされて、弱い私たちの目は、次第に濃さをましていく霧のかなたに神の姿を見失ってしまいます。
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◆7、土台を崩そうとしても無理
天主なる神が存在するのであれば、人はそれに向かって「なぜ私に命令を下すのか」とも、「私に、こんな命令を下す権利がどこにあるのか」とも、とても言えないからです。
私たち人間は、神が存在するかぎり、その権利を否むことができません。それは、明白な事実です。ある人々が神の存在を認めたくないのは、そのためです。
だからこそ、彼らは、権利が基づいているその土台を崩してしまいたいのです。
神さえ存在しないなら、神の干渉を受ける必要はない。我々は、思うままに勝手に振る舞うことができるのだ、と言えるのです。
ところが、いくら人間が神を否定しても、観念論者たちか言うように、神の存在は、人の考えに依存してはいません。かえって人間こそが神に依存しています。それで、人は、神の存在を、いくら疑いを持ち出しても、かき消すことはできないのです。それどころか、いろいろなことについて、ほんの少しでも考えを巡らすなら、ありとあらゆるものが、神に作られており、神こそ、すべてのものの支配権をもつ方だと認めないではいられなくなってくるのです。
ある人が、神の存在に対する私たちの認識について、大変興味深いことを言っています。
「神の前に立つ人間は、父の前に立つ子供のようである」と。
そうです、子供は、父を目の前にして、
「あなたが、本当に私のお父さんであるということを証明してください」というような態度をとるでしょうか?
また父は、自分が、父親であることを子供に理解してもらうために証明書をださねばならないものでしょうか?
とんでもありません。もしそんなことをしなければならないとしたら、大変です。こんなことは、証明するまでもないわかりきったことです。
神の場合も、これと同じことです。特別な証明が必要だというわけではありません。なぜなら、もうわかりきったことだからです。
しかし、わかりきったことというのは、それについて知るべきことを完全に知っているというのとは違います。
では、考えてみてください。子供が父親のことを、
「お父さんの生まれた年はいつ?」
「お父さんの国はどこ?」
「お父さんは、どんな学問をしたの?」
また「お父さんには、どんな特徴かあるの?」
「お父さんのポケットには、いくらお金が入っているの?」
などといったことについて調べないうちは、本当にお父さんかどうか認められないなど というでしょうか。
あるいは、こんなことを知らないなら、お父さんが存在しているとういうことさえ疑わしい、というのでしょうか。決してそうではありません。何も知らなくても、心では、もうちゃんとお父さんを認めています。そこには疑いのかすかな影さえもさすことができません。神に作られた私たちにとって、神の存在は、本当は、心の中では、既に自明のことです。
しかし、いろいろな考えに邪魔をされて、弱い私たちの目は、次第に濃さをましていく霧のかなたに神の姿を見失ってしまいます。
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