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4-14-5 最近の出土文物

2023-03-10 01:33:21 | 世界史
『六朝と隋唐帝国 世界の歴史4』社会思想社、1974年
14 大唐の長安
5 最近の出土文物

 一九七三年六月から九月にかけて、東京および京都の国立博物館で、日中国交の正常化を記念して「中華人民共和国出土文物展」が開催された。
 この展観は、中国の文化大革命から後、学術雑誌もすべて停刊となって、この方面のことが皆目わからなくなっていたため、その渇をいやす有意義な展観であった。
 ただ図録としては、すでにその前年一九七二年二月に『文化大革命期間出土文物』第一輯(北京、文物出版社)が刊行されており、そのなかに収められた実物の一部を目のあたり見ることができたことは、大きな感激であった。
 わが国での展観と同時期にパリでも同様の展観が行われたが、唐代に関していえば、わが国の方が充実していた。
 これは七二年三月に高松塚壁画古墳が発見され、同時代である唐代の出土文物に、わが国の人々の関心が多いことを見越しての用意と考えられる。
 新しく出土した文物のうち、唐代の長安に関するものには、まず一九七〇年十月、西安南郊の何家村(かかそん)の穴蔵の二つの大きなかめの中から出た一千余点がある。
 その中には二七〇点の金銀器があり、わが国の和同開珎(かいちん)の銀銭もここからの出土品であった。
 唐代の銀器は、わが国でも白鶴美術館(神戸)などに多少は所蔵されているが、このような多量の唐代金銀器が一時に出土したことは、中国でも未曾有(みぞう)のことであった。
 西安の何家村は、唐代の長安城のなか、皇城の西南端から南へ三番目の興化坊(topの長安城図を参照)の跡である。
 興化坊には邠王(ひんおう)李守礼の宅があったことが『両京新記』という書物に見え、この出土品は邠王家のものと推定されている。
 邠王守礼は章懐(しょうかい)太子(高宗と則天武后の子、後に詳述)の子で、則天武后の世となってから、唐室の血を引く者として宮中に十余年間も幽閉され、中宗が復位して唐が復興してから、邠王となり、玄宗(げんそう)の時に大官を歴任した。
 守礼は晴雨を予言することができる、と奏上するものがあった。
 そこで玄宗が直接たずねると、則天武后の時、勅杖を受けて傷だらけになり、雨降りの前にはそこが痛み、晴れた時にはなおるのでわかると、言った。
 玄宗は、これを哀れに思ったという。邠王守礼は章懐太子の嗣王と定められていた。
 ここから出た銀器のすばらしさは、わが国で展観された銀盤(さら)、銀罐(かん)、銀盒(ごう=ふたもの)、銀碗(わん)、銀杯(さかずき)のほか、小皿、壺、鍋、熏炉(くんろ)などがある。
 その技術は高度で、製作方法には鍛金法、鋳金法があり、熔接には各種の鑞付(ろうずけ)があって、その継ぎ目は容易に見分けられない。
 旋盤も用いられており、盒(ごう)のふたと身が上下ぴたりと合う。
 その文様にも、伝統的な龍、虎、朱雀(すじゃく)、巻雲(けんうん)のほか、西方伝来のブドウ、蓮華(れんげ)や、忍冬文(にんどうもん)や花喰鳥などを組合わせ、豊富かつ多彩である。
 また連続文様もあり、ひとつの花を中心に蔓(つた)を巻きつけるようにして全体を四等分、五等分し、その間にいろいろの花鳥をあしらい、ひとつの図案の中の花鳥の形も変化に富んでいる。 このような銀器から、唐代における上流階級の豪奢な生活をしのぶことができよう。
 銀細工の盛んなササン朝ペルシアの影響も考えられている。
 また金銀器には、墨で重さが両という単位で示されてあり、これを基礎に当時の両を推測すると、一両が四二・七九グラムとなり、当時の度量衡を知る一つの手がかりともなる。
 この穴蔵は天宝十四載(七五五)、安禄山の乱がおこった時に隠したものではないかと推定されているが、確証はないようである。


鍍金オーム紋銀缶
 この穴蔵から、わが国の和同開珎(わどうかいちん)の銀銭五枚が出た。
 和同開珎は七〇八年(和銅元年、中宗の景龍二年)に銀銭、銅銭が発行されたことが記録に見えるが、銀銭の出土は内外を通じて極めて珍しく、径は二・四センチある。日本の遣唐使が持参したものが、邠王守礼に下賜されたのであろう。
 和同開珎のほかに、ササン朝ペルシアのホスロー二世(五九〇―六二七)の銀貨(径二・九センチ)東ローマ(ビザンティン)帝国のヘラクリュス(六一〇~四一)の金貨(径二センチ)も出土した。
 ペルシアと東ローマのものは年代が同じで、いずれも唐初にあたるが、和同開珎はそれより約百年後のものである。これらが同時に下賜されたとすると、どのような事情によるものであったのかは判明しない。
 邠王家に下賜されたのならば、和同開珎の場合は、ちょうど王家が設立された時にあたる。
 これらの貨幣のほかに、獣首瑪瑙(めのう)杯(長さ一五・五センチ)、水晶杯、ガラス碗もある。また盒(ごう)や鍋や壺の中には、各種の薬品類がたくさんはいっていた。



和同開珎(わどうかいちん)の銀銭(上)
ササン朝ペルシャ銀貨(下右)、東ローマ金貨(下左)

 穴蔵からの出土品のうち、さらに注目されるものに、銀餅(ぎんぺい)がある。それには「洊安県(せんあんけん)開元十九年(七三一)庸調銀(ようちょうぎん)、拾両(じゅうりょう)。」と銘文のあるのが三枚、「懐集県(かいしゅうけん)開十(開元十年)庸調銀、拾両。」と銘文のあるのが一枚あった。
 この二県はいずれも現在では広東省に属し、唐代では嶺南道の広州の属県である。
 庸調銀の庸調は唐代の税制である租庸調のうちの庸・調で、庸は毎年二十日間の徭役のかわりに一日絹三尺(幅は一尺八寸)を代納することをいう。
 調は郷土の産するところに従い、絹・綿・麻布・麻糸などを一定量納めることになっていた。
 この庸と調を銀で代納したのが庸調銀とみなされる。
 嶺南道は首都より遠隔地にあり、輸送を便にするために庸調銀とすることになっていたのではないかと考えられよう。
 今後の研究に待たねばならない新資料である。広州からはるばる運ばれた庸調銀が邠王に下賜されたのであろうか。
 それにしても、これらに下限として開元十九年(七三一)という年代の記載があることは、重視される。


懐集県(かいしゅうけん)開十(開元十年)庸調銀
 次に長安(西安)ではないが、今の西安市から渭水(いすい)を渡って西北七〇キロばかりの乾(けん)県に、高宗と則天武卮を葬った乾陵(けんりよう)がある。
 そこに陪葬されている第二子の章懐(しょうかい)太子と、中宗(ちゅうそう)の長子(高宗の孫)の懿徳(いとく)太子の陵墓が、一九七一年七月から翌年の二月にわたって発掘された。
 七二年三月には、わが国でも高松塚壁画古墳が発見され、朝野がわきたった。
 そして章懐・懿徳両太子墓と高松塚とは、その築造時期がほぼ同じころと推定されている。
 しかもこの両太子墓には、中国でもまれな、また高松塚をはるかに上廻る大規模な四十面以上の彩色壁画が、それぞれ発見されたのであった。
 章懐太子は小さいときから明敏のはまれが高く、潞(ろ)王、沛(はい)王をへて雍(よう)王になり、上元二年(六七五)、兄の太子弘が死去した後をうけて、太子となった。
 太子のとき、他の儒者と『後漢書(ごかんじょ)』の注釈をつくり、いまも章懐太子注の名で伝わって用いられている。
 しかし太子になってから、実は武后の所生ではなく、武后の姉の韓国夫人の所生だといううわさが高まった。
 そのなかで謀反をはかったとして、太子を廃されて地方にうつされ、文明元年(六八四)に、三十一歳で自殺させられた。


観鳥捕蝉図(章懐太子墓前墓室)

 のち垂拱(すいきょう)元年(六八五)、ふたたび雍王と追贈され、中宗の神龍二年(七〇六)乾陵に陪葬されている。
 その陵墓は、このときの建造である。睿宗(えいそう)の景雲二年(七一一)には、章懐太子と追贈された。
 故に墓志(ぼし)は雍王のものと、後につくって入れられた章懐太子のものと両方が出土し、これらの史実を裏づけている。
 またこれらの墓志によって、従来は死去の年齢がまちまちに伝えられていたのが、三十一歳と確定したほか、妃が清河の房氏であったことなども判明した。、
 章懷太子墓は、高松塚が径約一八メートル、高さ約五メートルに対し、径四三メートル、高さ一八メートル、墓道から墓の後室までは七一メートルある。その副葬品には三彩の俑(よう=人形)など六百点があった。
 このほかに五十余面にのぽる彩色壁画があった。壁の高さも高松塚が一・二三メートルであるのに対して、章懐太子墓は二・八から三メートルに及ぶ。したがって壁画の人物の大きさも、だいぶ違う。
 太子墓壁画では、墓道には出行図、打球(ボロ)図、客使図、儀仗図があり、前墓室八面の壁画のうち、観鳥捕蝉図・舞踊図の模写がわが国でも展観され、多くの人の関心を集めた。
 墓道には高松塚と同じく、青龍、白虎も描かれていた。
 とくに墓道の打球図はペルシア渡来のポロ競技の図で、太宗の時代から流行していた。
 しかし、これを唐代の絵画で見ることができたのは始めてのことである。
 出行図には騎馬隊とともにラクダ隊も描かれ、いずれも動感をたくみに表現してみごとである。
 懿徳太子は章懐太子の弟に当る中宗(ちゅうそう)の長子で、高宗の開耀(かいよう)二年(六八二)、中宗が太子の時に生まれて皇太孫となり、中宗が則天武后によって帝位を廃されたとき廃位された(六八四)。
 聖暦元年(六九八)、中宗が皇太子に復位すると、邵(しょう)王となったが、大足元年(七〇一)、則天武后の寵臣(ちょうしん)であった張易之(えきし)兄弟をそしったとがで、杖殺された。
 十九歳であった。懿徳太子の妹が永享公主で、その墓は一九六〇年に発掘されている。
 則天武后の時代が終って、中宗が帝位にふたたびついたのち、神龍二年(七〇六)、懿徳太子を追贈されて、章懐太子と同じく高宗の乾陵に陪葬された。
 懿徳太子墓は七一年に発掘され、塚が南北五六・七メートル、東西五五メートル、高さは一七・九ニメートルあり、墓道から墓の後室までは一〇〇・八メートル。章懐太子墓よりやや大きく、帝陵の規模にほぽ匹敵する。
 このことは懿徳太子が皇帝の礼を以て葬られたことを推測させる。
 また墓志がなく、哀冊の断片が出土したことも、この推測を強化させるのに役立つであろう。
 出土文物は千点、その中には、鎧甲をつけた騎馬の陶俑に加彩して塗金されたものがあり、当時の皇帝の儀仗兵はこのようなものであったと推測させる好資料である。
 その壁画は比較的完整なものが四〇面あり、そのうち楼閣図は岩山を背景に四棟えがかれた。
 建物の列柱は先細りになる遠近法が用いられているが、これは画期的なもので、建築史の資料としても珍重される。
 また墓道東壁の儀仗図は壮観で、資料的意義も大きい。
 さらに前室西壁の宮女図は顔が面長で、章懐太子墓の丸顔と異っているのも注目されよう。



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