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『六朝と隋唐帝国 世界の歴史4』社会思想社、1974年
12 唐朝の女禍
1 武照の登場
名天子といわれた唐の太宗も、子供と世継ぎの太子のことでは悩んだ。
太宗には十四人の男子があったが、そのうち文徳皇后とのあいだには、承乾(しょうけん)・泰(たい)・治(ち)の三子があり、太宗の即位後は長子として承乾が太子となった。ときに八歳であった。
承乾は小さいときこそ賢いという評判であったが、二十代をすぎると愚行がめだってきた。
大きな鼎(かなえ)を鋳(い)ておき、民間からぬすんできた馬や牛を煮て、奴隷たちといっしょに食べる。
突厥の言葉(トルコ語)や服装をまねすることが好きで、突厥人に似ている侍者をあつめ、戦争ごっこをして遊ぶ。
また遊牧民の住むテントをつくって住んだり、さらにはみずから突厥(とっけつ)のハガン(君主のこと)となって死んだことにし、突厥式の葬儀をやらせて楽しむ。
おそらく気が狂ったのであろう。
弟の泰は、おさないころから文がうまく、長じてからも学問をこのみ、太宗もことのほか泰をかわいがった。
貞観(じょうがん)十年には魏(ぎ)王になる。太宗は泰のため、とくに文学館をひらいて学士を置いた。
そこで泰は『括地志(かつちし)』五百五十巻という地理書を編纂(へんさん)して太宗を喜ばせた。
そして兄の承乾にはいろいろ欠陥があるから、やがて太子の位はじぶんにまわってくる、と思うようになった。
貞観十七年四月、承乾の謀叛を告げる者があった。ついに承乾は太子を廃された。
太宗は泰をあとつぎに立てるつもりであった。
しかし皇后の兄で元勲の長孫無忌(ちょうそんむき)は、泰の弟の晋王治を太子に立てることを主張した。
承乾もまた、泰が太子となることにはぜったい反対すると主張した。
ここで太宗は窮地におちいり、ついに刀をぬいて自殺をはかる。
ようやく臣下にとめられたが、太宗も子供のことでは悩みはてた結果であろう。
このとき長孫無忌は毅然(きぜん)とした態度で晋王治を支持した。ついに治が太子となった。
治はおとなしく、孝行でもあったが、とくにすぐれた素質はなかった。
しかし治は兄たちが争ったおかげて、思いもかけず太子に立てられ、やがて太宗のあとをついで三代目の皇帝となる。これが高宗である。ときに貞覬二十三年(六四九)、治は二十二歳であった。 高宗の初政は、まだ太宗の余光でたいした破綻もなく進んだ。
ところで高宗には、太子になる前から晋王妃として王氏があった。
美人のほまれが高かった。
高宗の即位とともに皇后となる。
しかし王皇后には子がなく、高宗の愛情も蕭淑妃(しょうしゅくひ)のほうにうつっていた。
そうしたとき王皇后は、高宗がまだ太子であったとき、父の太宗つきの女官であった武照(のちの則天武后)が気にいっていたことを思いだした。この武照をひきだし、高宗と蕭淑妃の愛情に水をさしてやろうというわけである。
高宗は太宗の忌日に感業寺に参詣し、そこで尼となっている武照に会った。
たぶん王皇后のはからいであろう。ふたりはなつかしさのあまり、たがいに泣いた。これを聞いた王皇后は、武照に髪をのばさせて宮中に入れた。
このように父の女官であったものを、その子の女官にするということは、中国の道徳では本来ならばゆるされないことである。
武照の生年について、これまでは武徳七年(六二四)とされていた。
そうすると高宗よりは四歳の年長である。
しかし最近あらたに碑文が発見され、それによって貞観の初年と考えられるようになった。
高宗は貞観二年の生まれであるから、だいたい同年と考えてよかろう。
武照はきわめてかしこく、気性のはげしい女性であった。
武照が後年みずから語った話に、つぎのようなものがある。
太宗は獅子騁(ししそう)という名馬をもっていたが、だれも調教できなかった。そこで武照は太宗にむかっていった。
「私ならこれを調教してごらんにいれます。
それには、一には鉄鞭(てつべん=鉄のむち)、二には鉄檛(てつか=鞭より太い鉄のむち)、三には匕首(ひしゅ=あいくち)の三つの道具がいります。
まず鉄鞭でたたき、いうことをきかなければ、鉄樋でたたき、それでもきかなければ、匕首でその喉をきってしまいます。」
これには太宗も、たじたじとなった。そこで言った、「今日は朕(ちん)の匕首をけがしてもらうほどではない」。
太宗には、武照の言葉が気にいらなかったようである。
しかし気が弱くておとなしい高宗には、かえって武氏のような女が気にいったのではなかろうか。
12 唐朝の女禍
1 武照の登場
名天子といわれた唐の太宗も、子供と世継ぎの太子のことでは悩んだ。
太宗には十四人の男子があったが、そのうち文徳皇后とのあいだには、承乾(しょうけん)・泰(たい)・治(ち)の三子があり、太宗の即位後は長子として承乾が太子となった。ときに八歳であった。
承乾は小さいときこそ賢いという評判であったが、二十代をすぎると愚行がめだってきた。
大きな鼎(かなえ)を鋳(い)ておき、民間からぬすんできた馬や牛を煮て、奴隷たちといっしょに食べる。
突厥の言葉(トルコ語)や服装をまねすることが好きで、突厥人に似ている侍者をあつめ、戦争ごっこをして遊ぶ。
また遊牧民の住むテントをつくって住んだり、さらにはみずから突厥(とっけつ)のハガン(君主のこと)となって死んだことにし、突厥式の葬儀をやらせて楽しむ。
おそらく気が狂ったのであろう。
弟の泰は、おさないころから文がうまく、長じてからも学問をこのみ、太宗もことのほか泰をかわいがった。
貞観(じょうがん)十年には魏(ぎ)王になる。太宗は泰のため、とくに文学館をひらいて学士を置いた。
そこで泰は『括地志(かつちし)』五百五十巻という地理書を編纂(へんさん)して太宗を喜ばせた。
そして兄の承乾にはいろいろ欠陥があるから、やがて太子の位はじぶんにまわってくる、と思うようになった。
貞観十七年四月、承乾の謀叛を告げる者があった。ついに承乾は太子を廃された。
太宗は泰をあとつぎに立てるつもりであった。
しかし皇后の兄で元勲の長孫無忌(ちょうそんむき)は、泰の弟の晋王治を太子に立てることを主張した。
承乾もまた、泰が太子となることにはぜったい反対すると主張した。
ここで太宗は窮地におちいり、ついに刀をぬいて自殺をはかる。
ようやく臣下にとめられたが、太宗も子供のことでは悩みはてた結果であろう。
このとき長孫無忌は毅然(きぜん)とした態度で晋王治を支持した。ついに治が太子となった。
治はおとなしく、孝行でもあったが、とくにすぐれた素質はなかった。
しかし治は兄たちが争ったおかげて、思いもかけず太子に立てられ、やがて太宗のあとをついで三代目の皇帝となる。これが高宗である。ときに貞覬二十三年(六四九)、治は二十二歳であった。 高宗の初政は、まだ太宗の余光でたいした破綻もなく進んだ。
ところで高宗には、太子になる前から晋王妃として王氏があった。
美人のほまれが高かった。
高宗の即位とともに皇后となる。
しかし王皇后には子がなく、高宗の愛情も蕭淑妃(しょうしゅくひ)のほうにうつっていた。
そうしたとき王皇后は、高宗がまだ太子であったとき、父の太宗つきの女官であった武照(のちの則天武后)が気にいっていたことを思いだした。この武照をひきだし、高宗と蕭淑妃の愛情に水をさしてやろうというわけである。
高宗は太宗の忌日に感業寺に参詣し、そこで尼となっている武照に会った。
たぶん王皇后のはからいであろう。ふたりはなつかしさのあまり、たがいに泣いた。これを聞いた王皇后は、武照に髪をのばさせて宮中に入れた。
このように父の女官であったものを、その子の女官にするということは、中国の道徳では本来ならばゆるされないことである。
武照の生年について、これまでは武徳七年(六二四)とされていた。
そうすると高宗よりは四歳の年長である。
しかし最近あらたに碑文が発見され、それによって貞観の初年と考えられるようになった。
高宗は貞観二年の生まれであるから、だいたい同年と考えてよかろう。
武照はきわめてかしこく、気性のはげしい女性であった。
武照が後年みずから語った話に、つぎのようなものがある。
太宗は獅子騁(ししそう)という名馬をもっていたが、だれも調教できなかった。そこで武照は太宗にむかっていった。
「私ならこれを調教してごらんにいれます。
それには、一には鉄鞭(てつべん=鉄のむち)、二には鉄檛(てつか=鞭より太い鉄のむち)、三には匕首(ひしゅ=あいくち)の三つの道具がいります。
まず鉄鞭でたたき、いうことをきかなければ、鉄樋でたたき、それでもきかなければ、匕首でその喉をきってしまいます。」
これには太宗も、たじたじとなった。そこで言った、「今日は朕(ちん)の匕首をけがしてもらうほどではない」。
太宗には、武照の言葉が気にいらなかったようである。
しかし気が弱くておとなしい高宗には、かえって武氏のような女が気にいったのではなかろうか。